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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第十九話:盤上結実

第十九話:盤上結実


 板張りの廊下を乱暴に叩く足音が、躑躅ヶ崎館に淀んでいた重苦しい空気を鋭く切り裂いた。

 評定の間――大広間に居並ぶ家臣たちの視線が、弾かれたように一斉に襖の向こうへと吸い寄せられる。荒々しく開け放たれた入り口の敷居に、泥と半溶けの雪を具足の隙間にこびりつかせ、肩で激しい息を繰り返す伝令の使者が、力尽きたように平伏していた。


「申し上げます! 遠江より、申し上げまする!」


 その血を吐くような絶叫が広間に響き渡る直前まで、この評定の間を支配していたのは、薄氷のような冷たさを孕んだ底意地の悪い嘲笑であった。

 上座に座す信玄の傍らで、武田勝頼は微動だにせず、ただ前方の空間を凪いだ目で見つめていた。その周囲では、山県昌景や穴山信君らが、三月の刻限が訪れてもいまだ陥落の報せが届かぬ二俣城を引き合いに出し、若き後継者の大言壮語を、これ以上ない愉悦と皮肉を込めて論じていたのである。


 昌景ら歴戦の宿老にとって、勝頼がこの三ヶ月間、一度も軍備を整えようともせず、ただ跡部右衛門尉勝資ら文官たちを侍らせて書類の山に埋もれていた日々は、武士の誇りを汚す怠慢に他ならなかった。二十四歳の若き跡部は、山県ら武断派から見れば、戦場も知らずに算盤を弾くだけの小賢しい若造に過ぎない。だが勝頼は、その跡部を新しき法治の組織の伝導体として、自らのすぐ背後に控えさせ続けていたのである。


「……二俣城、昨夜四半刻……戦わずして開城いたしました! 武田の兵、一兵も損なわずに入城! 徳川の守将・大沢基胤、すでに我が軍門に降りました!」


 瞬間、広間の空気が、息を詰まらせるほどの物理的な重みを伴って完全に凍りついた。

 先ほどまで勝頼を揶揄していた宿老たちの顔から、一気に血の気が引いていく。山県昌景は、握りしめていた扇子を床に取り落としたことにも気づかず、信じられぬ妖でも見たかのように、泥まみれの使者を凝視していた。


「……何と言った。もう一度申せ」

 信玄の低く重厚な声が、凍りついた静寂を打ち破った。その瞳には、堅城を落とした勝利の歓喜よりも先に、自身が培ってきた戦の常識を根底から覆す現象に直面した際の、本能的な忌避感が宿っている。


「はっ! 真田安房守が率いる別働隊の監視下、城内の将兵たちが突如として同士討ちを始め、主だった将を縛り上げると、自ら裏門を開け放ちました。武田の刃は、ただの一本も血を吸っておりませぬ!」


 広間に、再び落雷に打たれたような真空の静寂が訪れる。

 山県昌景や馬場信春ら歴戦の将たちがその瞬間に感じていたのは、若き後継者の智謀に対する感嘆ではなく、説明のつかぬ異様な手柄に対する戦慄であった。彼らの骨の髄まで染み込んでいる戦とは、鬨の声を上げて敵陣に突撃し、槍を交え、熱き血を流して命を散らす儀式であったはずだ。だが、この結末には武士の熱がなく、まるで、緻密に組み上げられた絡繰時計が、定刻に合わせて無機質な音を立てて蓋を開いたかのようだった。


 勝頼は、驚愕と混乱に揺れる家臣たちを、一段高い場所から見下ろしていた。

 彼の瞳には、若者特有の高揚も傲慢もない。ただ、あらかじめ自らの頭脳で導き出されていた答えを、予定通りに確認しただけの、事務的な平穏があった。


(……昌幸。おぬしの疑心暗鬼の最後の一振り、しっかりと正確にあの城の急所を貫いたようだな)


 中原の天子になるため、数多の堅城を落としてきた。かつての戦では、一都市の攻防に数十万の命が使い捨てられることも珍しくなかった。その極限の殺戮の地で、軍師・陳宮と共に学び取ったのは、城壁の厚さや兵の数を力で競うことの愚かさである。人の自尊心と疑心こそが最強の城壁であり、同時に最も崩しやすい最大の弱点であるという理であったが、それを、今、遠江の地で完璧に証明してみせたのである。


 信玄は、微かに震える手で軍配を膝に置いた。

「……四郎よ。見事であった」

 その言葉は、大勢の家臣が見守る公の場での最大の承認であった。しかし、信玄の重苦しい声には、息子の成長を喜ぶ父としての誇り以上に、自分という人間の常識を遥かに超えた未知の怪物に対する根源的な疎外感が滲んでいた。


 勝頼は、父を正視することなく、静かに頷いた。

「三月の刻限、しかと果たしました。父上……これより、武田は情と武威で束ねられた古い殻を捨て、誰も見たことのない強固な形へと歩みを進めていきましょうぞ」


 血を流さぬ勝利を神仏の加護だと崇める一部の若手の武者たちが熱狂の声を上げる一方で、山県や馬場ら古参の将たちの間には、言葉にできぬ不気味で冷たい影が落ちていた。

 武勇と忠義を至上の誉れとしてきた宿将たちには、自分たちが生涯を捧げてきた死生観そのものが、勝頼の提示した非情なる合理によって、根こそぎ否定され、時代遅れの遺物とされたのではないかと感じたのだ。


 この日、偉大なる信玄の威光の下で保たれていた武田家という一枚岩の構造に、深い亀裂が音を立てて走った。

 そして、その勝頼が次の一手として口にしたのは、勝利の勢いに乗って全軍を西へと進め、家康の首を獲るという進言ではなかった。


「……父上。この二俣の無血開城は、あくまで我が理を試した試作に過ぎませぬ。今の武田のままでは、織田を打倒し天下を飲み込むだけの土台が、決定的に欠けておりまする」


 勝頼の底冷えのする一言が、祝杯を挙げようとしていた広間に、次なる嵐を予感させた。

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