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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百九十二話:受諾過早

第百九十二話:受諾過早


 甲府は、今日も静かだった。


 東の帳面は、昨日でほぼ埋まっている。常陸の一行だけが、墨の乾きが浅い。浅い黒の上に、佐竹の名がある。その上の段には、すでにいくつもの済が並んでいた。


「昌幸殿」


 障子の外で、跡部勝資が声をかけた。続いて長坂光堅が入る。二人とも、蔵と関の数字を抱えている。戦の話ではない。


「相模からの手形が、また増えております。七日で七度。結城は二度、宇都宮は一度、那須は三度」


 長坂が、淡々と読む。跡部が、その横で肩をすくめる。


「大国が先に枠へ入った。だから諸家が続いた。最後に佐竹が埋まった。戦もない。喜ばしいことですな」


「それで済む話ですかな」


 跡部の声が、少しだけ低い。長坂はすぐには頷かない。昌幸は、二人の顔を見ず、帳面の相模の行へ指を置いた。


 北条。


 相模が先に入ったから、関東は戦わずに一本になった。順序そのものは、説明がつく。説明がつく順序の中で、だけが、まだ噛み合わない。


 昌幸は、棚から北条の綴じを抜く。新着ではない。済んだ側の束だ。紐を解き、中を広げる。紙の端は手擦れで丸い。受諾文は短い。争わぬ。私戦を起こさぬ。枠の中に入る。


 受諾文の下に、関所。蔵。商人。三通の添付がある。関所の文は、通行の順番と、差止めの条件を短く切っている。蔵の文は、受領の印と、欠荷の届け出先を定めている。商人の文は、手形の名義と、裏書の扱いを一行で縛っている。三通とも、甲府側の書式に近い。近いことが、写しなのか、先に合わせたのか、紙の上だけでは分からない。


 取次の控を抜く。受諾から三日。相模から甲府への照会。関を通る商人の手形について。済の印がある。普通なら一月はかかる。早くても十日は見る。三日で取次が動き、規定が現場に落ちている。


 跡部が進み出て、束の厚さを見る。


「北条は、最初から揃っておりますな」


「そうだ」


「大国が入った。だから諸家が続いた。順序としては、おかしくない」


「順序は、おかしくない」


 長坂が、控の端を指で叩く。


「おかしいのは、入ったあとの速さです」


 昌幸は、答えなかった。答えの代わりに、文書庫の奥の棚を開ける。長篠の前から、自分が動かしてきた控だ。


 北条領へ流した手形の経路。商人の名義。関の緩急。頁の端に、拒否した店の名が薄く残っている。残っている名を、昌幸は今もいくつか覚えている。


 ある年の春、相模の関で、武田の札を持った荷が三日止められた。商人は怒鳴った。怒鳴っても、役人は札を裏返したまま動かない。裏返した先で、荷の米が湿気を帯び、塩が固まる。三日目の夕方、別名義の札に書き換えてようやく通した。通した先で、次の市では、また別の店が札を下げた。


 下げた店の名を、昌幸は控に記した。記した名の横に、北条側の検が強まった日付が並んでいる。強まった検を、また別の名義で抜く。抜けば、また塞がれる。塞がれれば、別の道を探した。探せば、また塞がれた。相手は、押し戻す家だった。


 夏には、青苧の荷が腐った。関で五日止められたまま、雨に当たった。商人は甲府へ訴えに来た。訴えた紙の下に、北条側の拒否印が残っている。拒否印の隣に、昌幸が書いた別路の指示がある。指示の先でも、また検が待っていた。別路の荷は、半分しか届かなかった。届かなかった半分の損失は、商人の帳面に残り、昌幸の控にも残った。


 秋には、手形そのものを偽札扱いされた。印は本物だった。それでも、相模の役は「受けぬ」とだけ返した。受けぬ理由は、紙に書かれていない。書かれていない拒否が、一番面倒だった。面倒な拒否を、また別の商人名義で抜く。抜いた先で、また札が下がる。下がった札の名を、また控に足す。足した名が、今も棚の奥にある。冬には、同じ関で、同じ商人の荷が、また三日止められた。止めた役人の名は、春の控と同じだった。同じ役が、同じ印で、同じ「受けぬ」を繰り返していた。


 その押し戻しの記録が、同じ庫の別の棚にある。棚の位置は、北条の受諾束より奥だ。奥にある記録ほど、今朝の三点の添付が、妙に見えた。妙に見えるだけで、結論にはしない。


「調べる」


 昌幸は短く言った。跡部と長坂は、それ以上を聞かなかった。聞く必要がないほど、今朝の用は数字の側にあった。


 午後、取次の控へ回る。ここは数字の場だ。


 若い役人が、手形を重ねている。重ねる音だけが、部屋に落ちる。


「相模からの通過は」


「七度目になります」


「結城は」


「二度。宇都宮は一度。那須は三度」


 数字が並ぶ。二。一。三。七。七だけが、段を外している。


「最初の取次は」


「受諾から三日後です。その前は、ございません」


「差止めは」


「出ておりませぬ。受諾後は、通常の照合です」


「手形は」


「武田の手形で通っております。相模からの分も、同じです」


 昌幸は、控の端に残る日付の一覧を借りる。借りた紙の上で、五つの点を追う。北条。結城。宇都宮。那須。佐竹。乗る位置だけが、北条を前へ押し出している。押し出している力の名前は、まだない。


「一覧、返します」


「はい」


 若い役人は、昌幸の顔を見ない。見ないまま、次の番号を読む。読む声に、迷いがない。


 取次の控には、もう一枚、薄い紙が挟まっていた。相模の問屋から、甲府の蔵への届け出だ。手形の番号。荷の品目。到着の予定。予定の下に、受領の印がある。印の日付は、北条の受諾から十日も経っていない。十日足らずで、照会が届き、荷が動き、印が押されている。


 昌幸は、その紙を戻す。戻す前に、通過欄をもう一度だけ見る。相模の七が、改めて段を外す。段を外した理由を、今夜の欄には書かない。書くのは、段が外れているという事実だけだ。


 城下の蔵へ下りる。ここは、慣れの場だ。


 番が手形を裏返す。武田の手形だった。印の手擦れが、すでに深い。深い手擦れが、通過の回数を黙って示している。


「相模からです」


「いつからだ」


「北条の受諾後です」


「慣れは」


「最初から、分かっておりました。札の出し方も、番号の言い方も、こちらの帳面と同じでございまして」


 同じ言葉が、別の口から出る。出るたびに、對抗の記憶が薄く軋む。軋むだけで、結論にはならない。通している手形の先で、米俵が台車に積まれる。積まれる作業に、誰も足を止めない。止めない手つきが、試したあとではなかった。


 蔵の裏で、馬方が桶を置き、番が荷札を差し出す。差し出す順番が、甲府の朝と同じだった。同じ順番を、相模の側が先に知っていたのか。番に聞いても、「最初から」としか返ってこない。


 隣の口で、別の番が番号を読む。


「番号は」


「こちらです」


「通せ」


 国名を確認するより先に、番号が帳面へ移った。移った先で、印が一つ増える。増えた印の列に、相模の分が混じっている。混じり方が、もう珍しくない形をしていた。


 問屋の前へ回る。ここは、当然の顔の場だ。


 相模の商人が荷札を直していた。直す手つきが、甲府の帳場に近い。近いことを、商人は自慢しない。自慢しないまま、次の札を出す。


「武田の手形で」


「はい」


「前から、そうするつもりでしたか」


 商人は、少しだけ目を細める。細めた目は、昌幸を測らない。測らないまま、短く返した。


「受諾の前から、札の扱いは決めておりました。決めておかねば、荷が止まりますので」


 商人は、それ以上を語らない。語らないまま、次の札を出す。七度通った荷の重さを、商人は荷の重さとしてしか持っていない。当然の顔をしていた。


 その隣で、古株の問屋が帳面を閉じる音がした。昌幸は、足を止める。


「相模の衆は」


「最初から、帳面の書き方を知っておりましたな。番号の桁も、裏書の位置も、こちらの決まりと同じで。教えた覚えは、ございませぬが」


 古株は、それだけ言って、次の客へ向かう。教えた覚えがない、という言葉だけが、昌幸の耳に残る。教えた覚えがないのに、同じだった。同じだったことが、長篠の前の拒否印と、うまく重ならない。


 古株の後ろで、若い手が帳面を開いている。相模からの分の番号を、迷わず移している。移す手が止まらない。止まらない手を見て、昌幸は、もう一度だけ古株に声をかけた。


「相模の衆が、迷ったことは」


「見たことがございませぬ。最初の荷から、番号の桁も、裏書の位置も、間違えておりませなんだ」


 若い手が、黙って頷く。頷く先で、次の印が落ちる。落ちた印の列に、相模の分が混じっている。混じり方が、もう珍しくない形をしていた。


 跡部が、後から追いついてくる。長坂も続く。二人とも、城下の数字を目で追っていたらしい。


「喜ばしい、で済ませてよいものか」


 跡部の声は、低い。長坂が、すぐには頷かない。


「済ませてよい結果です。戦がない。荷が通る。私戦の届もない。諸家が続く理由にもなった」


「北条の現場だけが、結果より先に動いておるようには見えます」


「先に、か」


「後から覚えた跡が、見当たらない、ということです」


 昌幸は、二人の話を否定しない。あるのは、對抗の記憶と、今朝の三点の添付だけだ。二つを繋ぐ線は、まだ紙の上にない。


 夕方、書院に戻る。ここは、勝頼が驚かない場だ。


 跡部と長坂が、まだ残っていた。


「関東は、戦わずに一本になりましたな」


 跡部が言う。長坂が頷く。北条が先に枠へ入り、佐竹同盟の諸家がその後に揃い、最後に佐竹が埋まった。結果だけを見れば、喜ばしい。喜ばしい結果の下で、昌幸は北条の束を机の端に置いた。


「北条の件です」


 勝頼は筆を止めない。


「相模が先に入った。だから関東は一本になった。順序は、おかしくない。おかしいのは、入ったあとの速さです。関所、蔵、商人の規定が、最初から三点揃っております。取次は三日。通過は七度。現場は、最初から手順を知っておりました。以前は、あらゆる手を使って、我らの札を拒んでおりましたのに」


「分かっている」


 勝頼の目が、一度だけ動く。動いた先は、添付の厚さだ。厚さを見る時間は短い。短いまま、勝頼は短く返した。


 数息置いて、勝頼が続けた。


「ようやく気付いたか」


 問いに、昌幸はすぐには答えない。答えないまま、相模の行を見る。行の黒は、すでに馴染んでいる。馴染んだ黒の下で、對抗の記憶だけが、まだ乾ききっていない。


「見えております」


「北条は賢い」


 勝頼は、それ以上を言わない。言わないまま、関の頁へ戻る。戻った先で、筆が動く。筆の音は、今朝と同じ高さだった。跡部と長坂は、控を抱えて下がる。下がる背中の後ろで、東の欄は静かに埋まっていた。戦の欄は、今日も白かった。


 夜、昌幸は自室で手元帳を開く。


 長篠の前。相模は武田の札を拒んでいた。関で三日止められ、荷が腐り、印は本物でも受けぬと返された。今は違う。受諾文より先に、受諾後の形が揃っている。


 昌幸は理由を書かなかった。事実だけを残す。


 北条。

 添付三。

 取次三日。

 通過七。


 それだけを書き、筆を置いた。差の理由も、対抗の記憶も、小田原の誰かの名も、欄外に出さない。出さないことが、今朝から続けてきた調べの終わり方だった。


 置いた先で、城下の輪の音が遠く響く。手形が通り、荷が動き、番号が読まれる音だ。戦の音ではない。戦わずに一本になった関東の、実務の音だ。その音の下で、相模の済だけが、静かに重かった。


 甲府の夜は、鼓もなく更けていく。東の欄は埋まっている。戦の欄は白い。相模が先に入り、周りが揃い、最後に常陸が埋まった。その順序は、大国の率先として説明がつく。だが、對抗の記憶と噛み合わない。噛み合わない箇所を、無理に繋がない。繋がないまま、帳面を閉じる。


 閉じた帳面の上に、手が残る。残った手の下で、三点の添付の感触だけが、しばらく消えない。感触を、名前にはしない。


 昌幸は、目を閉じる。閉じた瞼の裏で、以前の迂回路と、今朝の添付が、一度だけ重なって消えた。消えたあとに残るのは、事実の四行だけだった。それ以上は、まだ書けなかった。書けない欄を、無理に埋めない。埋めないことが、今朝から続けてきた調べの終わり方だった。

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