第百九十三話:州牧回付
第百九十三話:州牧回付
また、甲府の朝が、いつものように静かに明けた。
躑躅ヶ崎館の書院に差し込む光は、まだ低く、障子の桟を透かして畳の上に幾筋もの細い帯を作っている。夜のあいだ焚かれていた火鉢の炭は、すでに白く冷え、灰の下でわずかな熱をくすぶらせているだけであった。冬の終わりの朝特有の、澄み切って、それでいてどこか湿り気を含んだ空気が、書院の隅々にまで満ちている。
真田昌幸は、文机の前に端座し、山と積まれた文書の束を、上から順に丁寧にめくっていた。頁をめくるたびに、乾いた紙の擦れる音だけが、静かな部屋の中に規則正しく響く。
一通目は、越後からの報告であった。
表書きには「青苧」の二文字がある。越後国境から阿賀野川を経て上方へと流れる、東国共同体の血脈そのものというべき交易品であった。文面には「青苧二十駄」とあり、その下に、小さく朱の書き込みが添えられている。
――欠損一件、処理済。
昌幸は、紙を裏返した。裏面にも、細かな文字がびっしりと記されている。
「二十駄のうち三駄、荷札の食い違いあり。商人二人を召し、帳面を突き合わせ、州牧裁断により弁済済」
その下に、時刻が几帳面な筆致で並んでいた。
寅の刻。巳の刻。午の刻。未の刻。
昌幸の目が、その最後の一行で止まった。
「未の刻、再出発」
傍らに控えていた跡部が、感嘆とも呆れともつかぬ息を吐いた。
「早いですな」
昌幸は、すぐには答えなかった。紙を静かに机の上へ置き、灯明の乏しい光の下で、もう一度その文字を見つめる。
「以前ならば」
「はい」
「どれほど、時がかかった」
跡部は、少しのあいだ記憶をたぐるように黙り込んだ。
「甲府へ照会が届くまでに、一日。使者が戻るまでに、さらに二日。裁断を下し、その旨をまた向こうへ知らせるまでに……」
「五日ほどか」
「長引けば、それ以上に」
昌幸は、もう一度、越後からの紙面へ視線を落とした。
寅の刻に欠損が発覚し、未の刻にはもう荷が再び動き出している。甲府へ届いた時には、すでに荷は次の宿場へ向けて出立していたということになる。
「甲府への照会は」
「ございません」
「弁済は」
「州牧の裁断にて、すでに済んでおりまする」
「商人は」
「戻っております」
昌幸は、しばし黙り込んだ。
紙の上では、三駄の欠損が、すでに影も形もなく消えていた。誰が損を負ったのか。誰が弁済したのか。どの帳面と、どの荷札とを突き合わせて、その結論に至ったのか。そのすべてが、甲府の関知せぬところで、すでに定まっている。ただ、決まりきった結果だけが、こうして一枚の紙となって甲府へ届けられているに過ぎなかった。
昌幸は二通目を手に取った。常陸からの、手形の遅延に関する報告である。こちらにも、同じ朱の書き込みがあった。
――州牧回付。
三通目は、下野からのものであった。関所の印に食い違いがあったという。これもまた、同じであった。州牧へ回され、州牧の内で結着がつき、その結果だけが甲府へ戻ってくる。
昌幸は三通を並べ、しばらくのあいだ、それらをじっと見比べていた。どれもが、甲府へ届いた時には、すでに終わっているのだ。
昌幸は、やがて静かに立ち上がった。
「取次所へ、行く」
跡部が、無言のまま後に続いた。
城下の本通りから一本入った小路に、取次所はあった。
以前ならば、朝のこの刻限から、すでに人が絶えなかった場所である。荷札の束を抱えた商人が声を張り上げ、関所からの使者が息を切らして駆け込み、蔵の不足を訴える者が列をなす。誰もが我先にと役人へ詰め寄り、役人はその声のひとつひとつに幾度も聞き返しながら応対に追われていた。夜になっても灯りが消えることのない、まさに東国の血流を裁く心臓部であった。
今、その戸口の前には、誰の姿もなかった。
昌幸が、重い戸をゆっくりと引く。乾いた冷たい空気が、頬を撫でるようにして流れ出てきた。
中は、記憶にあるよりも遥かに広く感じられた。広すぎる、と昌幸は思った。
中央に並ぶ幾つもの裁断机。そのうちの一つにだけ、古びた帳面がぽつんと開かれたままになっている。呼出のための木札は、束ねられて棚の隅に置かれたまま、その端がすでにうっすらと黄ばみ始めていた。朱肉の入れ物には蓋がされていない。中を覗き込むと、底に残った朱が、乾いてひび割れ、固まりつつあった。
室内には、三人の役人が居るきりであった。一人は帳面を開いたまま、もう一人は筆を握ったまま、そしてもう一人は、ただ黙って窓の外の光を眺めていた。昌幸が近づいても、三人は、すぐには腰を上げようとしなかった。
「今日の案件は」
最年長と見える役人が、ようやく顔を上げた。
「……ございません」
「昨日は」
「ございません」
「先月は」
役人は、傍らの帳面を手繰り寄せ、頁をめくった。
「七件でございました」
「先々月は」
「十二件」
さらに頁を戻す。
「その前は、三十八件にございます」
役人の指が、その古い頁のところで、ふと止まった。
「あの頃は……朝から夜半まで、呼出の声が絶えぬ日もございました」
「今月は」
「まだ、一件も」
昌幸は、机の上を見渡した。筆はある。帳面もある。呼出札もある。仕事をするための道具は、すべてそこに揃っている。ただ、誰の手にも、それらは触れられていなかった。
「若い者たちは」
「二人ほど、蔵方へ移りましてございます」
「帳面係は」
「一人、減らしましてございます」
昌幸は、静かに頷いた。
「呼出札は、まだ残っておるのだな」
「はい」
「使う見込みは」
役人は、答えなかった。昌幸も、それ以上は問わなかった。
外へ出ると、荷車が一台、目の前を横切っていった。轅を取る馬方は、取次所の方を振り返りもしない。荷車はそのまま、東の街道へと進んでいく。荷札には、朱が入っていた。州牧の印であった。
昌幸は、その荷車が曲がり角の向こうへ完全に消えるまで、目で追い続けていた。
跡部が、隣に並んだ。
「以前ならば……あの荷も、ここへ立ち寄っていたはずですな」
昌幸は、それにも答えなかった。
城下へ戻る道すがら、米が動いている。塩も動いている。青苧の束も、荷車に積まれて次々と運ばれていく。問屋の店先では、商人たちが分厚い帳面を広げ、忙しく筆を走らせていた。印が押され、荷札が結わえられる。誰もが急いでいるようには見えなかった。だが、誰かを待っている様子もなかった。
昌幸は、一軒の青苧問屋の前で、ふと足を止めた。主人が帳面に目を落としている。
「甲府へ、伺いを立てるか」
主人が、顔を上げた。
「何か、ございましたか」
「いや」
昌幸は、店先に積まれた荷を見やった。
「以前ならば、そうしていただろう」
主人は、しばし考えるように口を閉ざした。
「以前は、確かにそうしておりました」
「今は」
「州牧へ、伺いまする」
それだけを言い、主人はまた帳面へと視線を戻した。
昌幸は、店の奥へと目を移した。若い手代が、荷札を一枚一枚、丁寧に並べている。一つ。二つ。三つ。番号を確かめ、帳面と照らし合わせ、朱印の有無を検め、受領の欄へと記す。その手つきに、迷いはひとつも見られなかった。
「覚えるのに、苦労はしなかったか」
若い手代が、顔を上げた。
「何をでございましょうか」
「このやり方だ」
「札を見て、印を確かめるだけにございます」
手代は、少し不思議そうな顔をして、そう答えた。
「それほど、難しいことではございませぬ」
昌幸は、何も言わなかった。
店の外へ出ると、隣の店から、明るい笑い声が聞こえてきた。何かの商談がまとまったらしい。荷車の縄がきつく締められる音が続く。馬が、鼻を鳴らす。車輪が、ゆっくりと動き始める。
そのどこにも、甲府という名は、一度として現れなかった。
夕刻。
昌幸が書院へ戻ると、長坂が待っていた。
「また、参っております」
「何がだ」
「回付にございます」
長坂は、三通の紙を机の上へ静かに並べた。
「越後、常陸、下野」
昌幸は、それらへ目を通した。いずれも、州牧へ処理が回されている。
「裁断は」
「ございません」
「回付のみか」
「はい」
勝頼は、少し離れたところで、西からの帳面に目を落としていた。
東の帳面には、荷の数がずらりと並んでいる。関所の通過数。手形の発行数。州牧にて処理された件数。そして、甲府にて裁断された件数。
昌幸は、その最後の数字に目を留めた。
少ない。先月よりも少ない。その前の月に比べれば、さらに少ない。
長坂が、静かに口を開いた。
「甲府が……追いつかなくなっておりまする」
勝頼は、帳面から目を上げなかった。
「追いつく必要が、あるか」
長坂が、言葉に詰まった。昌幸もまた、黙ったままであった。
勝頼は、西の頁を、また一枚めくった。紙の擦れる乾いた音だけが、書院に響く。
「東は」
昌幸が、静かに答える。
「回っておりまする」
「止まった荷は」
「ございません」
「私戦は」
「届いておりませぬ」
勝頼は、小さく頷いた。
「そうか」
それだけであった。
夜が更けてから、昌幸は一人、灯明の下で帳面を開いた。
東の欄に、筆を走らせる。
州牧処理――増。
甲府裁断――減。
戦の届――零。
筆を置き、しばらくのあいだ、その三行だけをじっと見つめていた。
数字の上では、確かに甲府の仕事は減っている。だが、城下を行き交う荷は、少しも減ってはいない。むしろ、日を追うごとに増え続けている。
昌幸は、もう一枚、別の紙を取り出した。越後から届いた、あの青苧の報告である。
寅。巳。午。未。
欠損が見つかってから、荷がふたたび動き出すまでに、半日とかかっていない。
昌幸は、紙の端を指先で押さえた。
五日。以前ならば、五日を要した。
今は、その五日そのものが、どこにもない。
縮めたのではない。
五日がかかっていた場所を、荷はもう通っていない。
そこまで考えて、昌幸は筆を止めた。その先を、言葉にはしなかった。帳面にも、書き記しはしなかった。ただ、越後からの報告を、そっと閉じた。
外から、車輪の軋む音が聞こえてくる。一台ではない。少し間を置いて、また一台。馬の鼻息。荷台の縄がきしむ音。誰かが、明日の荷を数えているのであろう。
夜になっても、東へ向かう道は、少しも止まってはいなかった。
昌幸は、灯明のそばへ帳面を引き寄せた。甲府の欄には、空白が増えている。東の欄には、数字が増えている。そのふたつを、しばらく見比べる。
それから、静かに帳面を閉じた。
翌朝。
文書庫へ足を踏み入れると、昨日の三通は、すでに棚へと戻されていた。誰かが、夜のうちに整理したのであろう。
越後――州牧裁断済。
常陸――州牧回付。
下野――州牧回付。
昌幸は、その三通を並べて見た。以前であれば、この一枚の紙から、甲府の裁断が始まっていたはずである。今は、違う。紙が甲府へ届いた時には、すでに何もかもが終わっているのだ。
昌幸は、その三通を静かに束ねた。乾いた紙の重なる音だけが、文書庫にひっそりと響いた。
長坂が、入ってきた。
「また、五通にございます」
「何が」
「回付にございます」
五通の紙が、机の上へ置かれる。関所の照会。宿場の規定に関する問い合わせ。蔵の不足を訴える書状。荷札の食い違い。商人同士の帳面の齟齬。
昌幸は、一枚ずつ目を通した。いずれも、州牧へと処理が回されている。
「裁断は」
「ございません」
「昨日より、多いな」
「はい」
長坂が、どこか困ったように、小さく笑った。
「回付だけは……増えておりまする」
昌幸は、笑わなかった。
甲府へ届く紙の数は、確かに増えている。だが、甲府が決すべきことは、日々減り続けている。
昌幸は、最後の一通を裏返した。裏に、州牧の朱印が押されている。まだ、乾ききってはいない。指で確かめるまでもなく、見ただけで分かった。
昌幸は、それをもとの位置へ戻した。
「棚へ、しまえ」
「はい」
長坂が、五通を抱え、そのまま文書庫を出て行った。
昌幸は、一人きり残された。
窓から、朝の光が差し込んでくる。外では、荷車がまた一台通り過ぎていく。関所を越えた荷が、甲府の門を通らず、そのまま東へ向かって進んでいく。
昌幸は、窓を閉めなかった。
遠くで、馬の鼻息が聞こえた。その音は、以前よりも近く聞こえた。甲府へ届く前に、荷はすでに先へ進んでいる。裁断が届く前に、荷は先へ進んでいる。知らせが戻ってくる前に、次の宿場へ着いてしまっている。
昌幸は、机へと戻った。東の欄を見る。数字は、今日もまた増えていた。甲府の裁断欄は、変わらず空白のままであった。その空白を埋めるための筆は、机の上に静かに置かれたままである。使われることのないまま、そこにあり続けている。
昌幸は、その筆を、取り上げなかった。ただ、帳面を閉じた。
城下では、また荷車が一台、通り過ぎていった。甲府の門前で、足を止めることもなく。そのまま、東へ。
甲府の朝は、今日もまた、静かであった。




