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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百九十一話:報至甲府

第百九十一話:報至甲府


 甲府の朝は、静かだった。


 鼓もない。鐘もない。庭の砂利に、夜の湿りが残っている。書院の障子はまだ白く、その白さのなかで、勝頼の机だけが先に起きていた。机の上には、一冊の帳面が開かれていた。東国の諸家の名と、受諾の日、禁私戦の確認、取次の印が並んでいる。


 相模。


 北条の行には、すでに済の印があった。日付も古い。花押の写しの横で、朱は落ち着いた色をしている。新しい文ではない。ずっと前に済んだ行が、そこに沈んでいる。


 結城。

 宇都宮。

 那須。


 いずれも済の印がある。日付は北条ほど古くない。だが今朝届いたものでもない。会津。白河。岩城。相馬。そのほかの名も、短い注記とともに並んでいる。戦の報はない。落とした城の名もない。あるのは、受諾と、禁私戦と、取次の届だけだ。


 空いているのは、常陸の一行だけだった。


 その一行だけが、灯の下で白い。勝頼の視線は、そこにはない。数字の列の、別の頁を見ている。見終わると、また東の欄へ戻る。戻っても、白い一行には触れない。触れないまま、朝が来ている。障子の外で、誰かが桶を置く音がした。音はすぐ消える。消えたあとも、白い一行だけは残っている。


 廊下を来る足音は、一つだった。真田昌幸は、敷居の外で一度止まり、それから入った。手にあるのは、一通だった。束ではない。一通だけが、朝の空気を連れてくる。


「佐竹より」


 机に置かれる音は、薄い。紙の角はまだ立っている。封はすでに解かれている。運んだ時刻も、経路の端も、昌幸の手元の小紙に短い文字で残してあった。余分な言葉はない。


 勝頼は封を見る。日付を見る。それから文を開く。長くは読まない。兵を解いたこと。私戦をせぬこと。州牧を受けること。それだけだった。一度書き直した線が、裏から薄く透けて見える。迷いの跡とも、決断の跡とも言える線だ。勝頼は、その線の意味を口にしない。口にしないまま、文を横へ置く。


 昌幸が帳面を引き寄せる。硯の水は朝に差し替えたばかりで、表面がまだ動いている。筆を潤す。穂先から落ちる墨を、縁で一度きる。紙に向かう。


 まず、受諾の日を写す。日付の数字を、東の欄の空いていた位置へ移す。次に、禁私戦の確認の印を入れる。印の位置は、他の家と同じ高さに揃える。その下に、取次の届を記す。届いた経路の端と、受け取った時刻を、短い文字で添える。


 佐竹。


 空いていた一行が埋まった。


 常陸の位置だけが、他の名と同じ黒になる。昌幸は、そこから上を見た。結城。宇都宮。那須。もう、どれも古い。佐竹だけが新しい。北条の行は、さらに上で、さらに古い。昌幸の指が、その古い日付の上で一度だけ止まった。止まった指は、すぐ次へ移る。


 勝頼は頁を見る。頷かない。喜ばない。短く言った。


「次は」


 昌幸は、横に置いてあった別の束を取る。関の通過数。手形の照合。米の入出庫。戦の報は、その束にはなかった。勝頼は顎で横の頁を示す。昌幸は従って、紙を移す。移した先は、戦の欄ではない。数字の列だった。


 敷居の外で衣擦れが止まる。


「本日の戦勝――」


 そこで声が止まった。勝頼は顔を上げない。昌幸の筆も動かない。沈黙が一つ落ちると、廊下の者は下がった。下がったあとも、書院には帳面の紙の匂いだけが残る。


 その日、城下では荷が動いていた。


 問屋の軒は、朝から開いている。荷札が替えられる音、縄を結ぶ音、馬が鼻を鳴らす音が、同じ通りに重なる。蔵番の前に、常陸の札が置かれる。その横に会津。さらに越後。蔵番は札を一枚ずつ取り上げ、番号を見る。


「番号は」


「こちらです」


 印を見る。帳面に写す。手を上げる。


「通せ」


 荷車が動いた。蔵番は、荷車の後ろを見送らなかった。次の札が、すでに机の上にある。次の札も、常陸だった。また番号を見る。また印を見る。また手を上げる。同じ手順が、途切れずに続く。


「会津の札です」


「番号は」


「こちらに」


「通せ」


 会津の車が、常陸の車のあとを追う。追う形になっても、誰もそれを珍しく思わない。珍しく思わない顔で、次の越後の札が机に置かれる。


「越後です」


「番号は」


「ございます」


「通せ」


 三つの車が、同じ蔵の前を順番に離れていく。離れていく先は、それぞれ違う。手続きだけが、同じだった。


 すぐ脇の帳場では、若い手代が荷札の写しを取っている。常陸の札。会津の札。越後の札。写す順番は、届いた順ではない。番号の若い順だった。


「この常陸のは、午前の分です」


「写したか」


「はい」


「次」


「会津です」


「番号を先に言え」


「……はい」


 国の名より先に、番号が読み上げられる。読み上げられた数字が、帳面の升目を埋めていく。埋まった升目の横に、国の名は小さく添えられるだけだった。


 別の蔵では、塩の壺が並べられていく。壺の口を縛る紐の色は違う。中身の行き先も違う。それでも、受け取る印は同じ形だった。印が同じだから、棚が分かれていても、手続きは一つで済む。積む手が、産地の違いを声にしない。声にしないまま、同じ棚の段に載せていく。隣では、米俵が積まれていく。俵の紐を結ぶ音が、規則正しく落ちる。規則正しい音のあいだに、また新しい車の輪が混じる。


 一台が蔵の前で止まる。荷を担ぐ者が札を差し出す。


「常陸の札です」


「番号は」


「こちらに」


 番号を見る。印を見る。


「通せ」


 空になった車が、次の蔵へ向かう。別の一台が、その横をすり抜けて宿場の方へ折れる。塩。布。米。中身は違っても、通る手続きは同じだった。手形を見る。番号を書く。通す。開ける必要がない。開けないから、時間もかからない。かからない時間が、次の車を呼ぶ。


 関では、旅の商人が手形を差し出していた。番人がそれを受け取る。


「どこから」


「常陸からです」


「手形は」


「ございます」


 受け取る。印を見る。番号を書く。


「通れ」


 荷車が動いた。番人は、荷車の後ろを見送らなかった。以前なら、どこの者か、何を運ぶのか、もう少し言葉が続いた。今は、手形の真偽と番号で足りる。足りた顔で、商人は頭を下げ、また歩き出す。歩いた先でも、同じ手続きが待っているだけだ。


 すぐ後ろに、別の商人が続く。


「会津からです」


「手形は」


「ございます」


「通れ」


 また一台が通る。通るたびに、番人の手元の帳面に短い数字が増えていく。数字は増える。止められた車の数は、増えない。増えないことが、今日の関の仕事だった。


 通りの向こうでは、馬方が飼葉を分けている。分け終えた桶を洗う音がする。洗う水が石を伝って、細い溝へ落ちる。落ちる音のあいだに、また新しい輪の音が混じる。止まった車。動く車。空の車。満ちた車。どれも、戦の列ではない。抜けていく先に、旗はない。旗がないのに、荷は整然と流れている。


 橋のたもとでは、荷を積み替えていた。川向こうから来た車と、山方から来た車が、同じ石の上で並ぶ。並べる者が、先を急がせる声を出さない。出さなくても、手形の順で足りる。順が足りるから、争いにならない。争いにならない荷が、橋を渡っていく。渡った先でも、また同じ印が待っている。


「次はどの札だ」


「常陸の残りです」


「番号を先に」


「はい」


 番号が読まれ、印が押され、車が動く。国の名は、後から帳面の端に小さく記されるだけだった。先に処理されるのは、いつも手形の番号だった。


 昌幸は午過ぎ、短い照会で城下へ下り、問屋の前で一度だけ足を止めた。会津と常陸と越後の札が、同じ机の上にある。昨日までは、どれかが話題になった。今日は、話題にならない。蔵番が次の札を取り上げる音だけがする。


「番号は」


「こちらです」


「通せ」


 また一台が動く。昌幸は何も言わず、城へ戻る。戻る道でも、荷車は途切れない。途切れないことが、報告より先に、身体へ入ってくる。身体へ入ったものを、昌幸は口にしない。口にしないまま、砂利の道を上がる。上がる途中で振り返ると、町の煙が細い。細い煙の下で、輪の音だけが続いている。


 戻った先の書院では、勝頼がまだ帳面を開いたままだった。東の欄に、今朝の一行が乾き始めている。墨の黒が、他の名の黒に近づいていく。近づくほど、佐竹という文字の特別さは、見た目からは消えていく。勝頼は、その乾きを急がない。急がないまま、次の数字の列へ目を移す。関の通過数。手形の照合。米の入出庫。数字は動いている。動いている頁の隣で、戦の欄だけが、朝と同じ白さを保っている。


 夕方近く、陽が障子を橙に染める。染まった光の中で、帳面の繊維が、ほんの少し浮いて見える。昌幸は机の上を一度だけ整頓する。佐竹の文は束ねる。北条の文は、机にはない。帳面の上の方に、古い日付があるだけだ。昌幸は、その日付を一度だけ見る。見ても、読み上げない。読み上げる必要がないほど、上にある。


 廊下の向こうで、誰かが燈籠の油を足す音がする。油の匂いが、ごく薄く届く。勝頼は席を立たない。立たないまま、東の欄から視線を外す。外した先は、次の帳面の、まだ薄い頁だった。薄い頁に、まだ名は少ない。少なくても、勝頼はそこへ手を伸ばす。伸ばすだけで、まだ開かない。


 夜の灯が入る。


 昌幸は、追記の写しを手元帳に移した。相模。結城。宇都宮。那須。会津。白河。岩城。相馬。佐竹。名前を写すたびに、頁の行が減る。写し終えた東の欄は、大きな空白を残していなかった。


 写しているあいだも、書院は静かだった。筆の音だけが、規則正しく落ちる。規則正しい音の外で、城下の輪の音が遠く響く。昌幸は次の名を写す。次の名も、戦の名ではない。受諾の日と、禁私戦の印と、取次の届だけが、短い文字で並んでいく。


 相模の行を写す。日付は古い。結城を写す。宇都宮を写す。那須を写す。会津を写す。白河を写す。岩城を写す。相馬を写す。最後に佐竹を写す。写すたびに、手元帳の余白が減る。減った先に、新しい空欄はもうなかった。


 昌幸は一度、筆を止めた。止めた先で、北条の日付だけが、他より明らかに上にある。指が、その数字の上で一度だけ止まる。止まった指は、すぐに離れる。離れた先で、佐竹の新しい墨が、まだ乾ききっていない。


 昌幸は、手元帳を閉じる前に、東の欄をもう一度だけ見た。


 北条。

 結城。

 宇都宮。

 那須。

 会津。

 白河。

 岩城。

 相馬。

 佐竹。


 並んだ名の横には、いずれも済の印がある。北条の日付は古い。結城も、宇都宮も、那須も、すでに記録の中にある。今日、新しく加わったのは佐竹だけだった。


 昌幸は筆を置いた。


 東の欄は埋まっている。


 その下にある戦の欄には、何もない。


 勝頼は、その頁を閉じた。


「以上にございます」


「そうか」


 勝頼の手が、隣の帳面へ移る。


「次は」


 それだけだった。


 外では、荷車の輪が石を踏んでいる。甲府の夜に、戦勝の鼓は鳴らなかった。昌幸は頭を下げ、書院を出た。閉じた帳面の中で、佐竹の名だけが、まだ墨の新しい色をしていた。


 廊下の砂利が、靴の裏で小さく鳴る。夜の風が一つ、庭を横切る。風の中に、旗の音はない。戻って見えるものがあるとすれば、次の帳面の端にかかったままの、勝頼の指だけだった。指は動かない。動かない先で、薄い頁だけが、灯を受けて静かに開くのを待っていた。


 その薄い頁に、今夜はまだ何も書かれない。書かれないまま、灯だけが小さく揺れる。揺れた灯の下で、東の欄の墨は乾ききり、佐竹の一字だけが、まだほんの少しだけ新しい黒を残していた。


 書院を出た廊下では、夜廻りの提灯が一つ、遠くで揺れていた。揺れた光が障子に薄い影を落とし、また消える。消えたあとも、城下の輪の音だけは、間を置いて届いてくる。届く音のあいだに、犬の声が一つ入る。入った声も、すぐ風に溶ける。


 昌幸は足を止めなかった。止めなくても、今朝の机の形は目に残っている。上にある北条の古い日付。下で埋まった佐竹の一行。そのあいだに並ぶ、すでに済んだ名の列。列は、もう説明を要しない。要しないまま、甲府の夜は帳面の乾きとともに更けていった。


 それでも、誰も勝利を口にしなかった。口にする必要がないほど、朝の白い一行は、もう他の名と同じ黒になっていた。同じ黒になった名の上で、北条の日付だけが、静かに古いままだった。


 古いままであることが、今夜の北条の位置だった。新しい文ではない。新しい驚きでもない。すでに済んだ行が、最後に埋まった一行の上で、動かずに残っている。残っていることだけを、昌幸は朝に一度、指で触れた。触れたあとは、追わなかった。追うのは、次でよかった。


 それで、十分だった。

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― 新着の感想 ―
最後に話にだけ出てきた伊達や最上だけでなく、南部や安藤とかにも私戦を禁止させれば、北は完全に武田が作った流れに乗った方が得になると思った人達が作った秩序の影響下に置かれますね。
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