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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百九十話:鬼将落日

第百九十話:鬼将落日


 昼になっても、天幕の中は動かなかった。

 床几の上の白木は、朝と同じ位置にある。

 誰も触っていない。義重も触っていない。朝、景虎が置いていった位置のままだ。

 春の光が、天幕の入り口から差し込み、木札の縁を白く縁取っている。


『常陸州牧』


 四文字だけが、そこにあった。


 外では、一万の兵がまだ列を解いていない。

 槍の列。鉄砲の列。馬の列。

 誰かが小さく囁く。出陣はいつか。下知はいつか。

 答えは出ない。天幕からは、何も出ない。

 日は高い。影は短い。それでも列はほどけない。


 昭為が、一度だけ口を開きかけた。

 何を言うでもない。ただ、御屋形様の背中を見ている。

 重臣たちも、同じように背中を見ている。誰も前へ出ない。誰も退かない。

 義重は、木札から目を離さない。

 長い沈黙。春の風が、陣幕を鳴らす。馬が鼻を鳴らす。旗が鳴る。刀の音はない。

 昨夜から、一度も眠っていない。

 指先に、柄の感触が残っている。振るえなかった感触が、残っている。

 木札は軽い。太刀より軽い。それでも、手が伸びない。


 やがて、義重が動いた。

 太刀を鞘に納める。鯉口が合わさる音が、乾いていた。


「……皆、下がれ」


 声は低かった。

 重臣たちが、一斉に頭を下げる。誰も異議を唱えなかった。

 昭為だけが、最後まで残った。


「昭為」


「は」


「兵を、解散させよ」


 言い終えてから、義重は目を閉じた。

 五十年近く、軍を動かしてきた。

 集めよ。攻めよ。退け。

 その命は、幾度となく出した。

 だが、戦わずして解け、という命は初めてだった。

 目を開ける。充血した目が、昭為を見る。

 声に迷いはない。迷いはないのに、声が低い。


 昭為は返事ができなかった。

 出陣の命は聞いた。攻撃の命も聞いた。退却の命も聞いた。

 軍を集める姿も、軍を動かす姿も、敗走の列を立て直す姿も見てきた。

 だが、鬼と呼ばれた御屋形様が、自ら軍を解く。

 それを、今、初めて目の前で見ている。

 喉が、小さく鳴る。足が、動かない。

 天幕の外には、一万がいる。列を組んだまま、下知を待っている。

 その列を、解く。戦わずに、解く。負けたわけでもないのに、解く。

 御屋形様の背中を見る。充血した目。こけた頬。昨夜から眠っていない顔。

 それでも、声に迷いはない。迷いはないのに、鬼と呼ばれた男の声が、低い。

 それが、昭為には初めてだった。


「……かしこまりました」


 昭為は天幕を出た。

 春の光が、目に刺さる。

 列ぶ兵たちを見た。

 一万。

 北条へ向かうために、整えてきた軍勢だった。

 それを、今、解く。


「列を、解け」


 昭為が告げた。

 最初に動いたのは、槍持ちの足軽だった。

 一人が歩き出す。二人目が続く。

 やがて列は崩れた。

 歓声はない。不満もない。

 ただ、一万の軍勢だけが静かに消えていった。

 太鼓は、一度も鳴っていない。


 義重は一人になった。

 外から、列が崩れる音だけが聞こえる。

 ほどけていく音だけが、長い。


 義重は天幕を出た。

 練兵場に残るのは、踏み固められた土だけだった。

 草鞋の跡。蹄の跡。槍の石突きの跡。

 跡だけが残って、人はもういない。


 野帳の数字が、頭の中で鳴る。

 八日。七日。六日。

 その先がない。

 その数字の向こうに、今朝の声が蘇る。

『家は、残ります』

 景虎の声だった。

 穏やかで、冷たい声だった。

 ほどけていく兵の背を見ても、その声が残る。


 城下では、戦の支度が、音もなくほどけていく。

 問屋では、帳面が閉じられていた。

 片付けられていく。

 誰も騒がない。誰も怒鳴らない。

 ただ、戦の支度だけが消えていく。

 鍛冶屋は、槍の穂先の修理を止める。砥石の音が、途中で消える。

 炊事場では、大量の炊飯が止められる。竈の火が落とされ、煙が細くなる。

 戦がなくなった、と告げる者はいない。

 それでも皆、同じように手を止めていた。


 昭為が戻ってくる。額に、薄い汗が光っている。

「兵は、ほどけました」

「何か問題はあったか」

「ございませぬ。ただ……何があったのか、と問う者がおります」

「答えは、出すな。列を解いた。それだけだ」

「……かしこまりました」


 昭為は、それ以上何も聞かなかった。


 義重は城内の広間へ戻った。

 甲冑を解く。肩から重いものが落ちる。それでも、体は軽くならない。

 小姓が鎧を運んで下がる。広間に、金属の匂いが残る。

 野帳が机の上に残っている。昨夜と同じ数字だ。

 頁をめくる。同じ。指で押さえる。同じ。

 閉じる。開く。また同じ。


 灯明を入れる刻になった。

 広間に、義重と昭為だけがいる。

 床几の上に、木札が置いてある。灯明の光を受けて、白い。


「文を書け」


 義重が言う。


「は」


「甲府へ送れ」


 昭為が筆を取る。墨をすり、紙を広げる。硯の音が、広い部屋に小さく響く。


「何と」


 義重は、しばらく黙った。

 木札へ視線を落とす。


 若い頃を思い出した。

 初陣の日。震える手で握った槍。父の旗。

 帰陣のあと、父は何も言わなかった。ただ、酒を注いだ。

 その酒が、嬉しかった。

「勝て」

 父の目が、そう言っていた。

 それから五十年。

 勝つために生きた。戦うために生きた。鬼義重と呼ばれた。

 その五十年が、今、一枚の木札の前で止まっている。


 五十年、信じてきた。

 勝てば残る。

 勝てば守れる。

 勝てば家は続く。

 そう思ってきた。

 父にそう教わり、父の酒を飲み、父の背中を見て、そう生きてきた。

 負ければ消える。勝てば残る。その二択だけが、武士の理だった。

 だが今、家を残すために戦を捨てようとしている。

 勝たなくても、家は残る。

 負けなくても、戦は終わらない。

『家は、残ります』

 景虎の声が、また蘇る。

 城も、家名も、息子も、家臣も残る。

 残るのは、戦うこと以外のすべてだ。

 父の「勝て」が、数字の前で、音を失っていく。

 勝てば残る、と教えられた理の外に、家が残る道があった。

 戦わなくても残る道があった。

 その道を、今、自分の足で歩こうとしている。

 五十年かけて築いた理を、自分の手で置く。

 置く先に、何があるのかは、まだ分からない。

 それでも、置かなければ、兵が飢える。民が逃げる。家が薄くなる。

 勝つための理が、今は残すための枷になっている。

 それが、分かってしまった。


 昭為は、その背中を見続けてきた。

 小田で退かなかった背中。北条軍を前に笑っていた背中。

 二十年近く、その背中だけを見てきた。

 鬼と呼ばれた背中だった。

 今、その背中が、初めて小さく見えた。

 昭為は、そのことを、口にしなかった。


 広間に、沈黙が落ちる。

 昭為は筆を構えたまま、動かない。

 義重も、何も言わない。

 墨だけが、硯の中で磨られていく。

 灯明の炎だけが、揺れている。

 理由を書こうとして、止まる。言い訳を書こうとして、消す。

 紙の上に、薄い墨の跡だけが残る。

 長い沈黙のあと、義重が口を開く。


「……州牧とやらを、受ける」


 声は、ほとんど囁きに近かった。

 受ける。

 その一言で、戦う武士としての自分は終わる。

 鬼と呼ばれた男は、州牧という名の下に入る。

 入れば、兵は動かせない。私戦はできない。

 刀は残る。だが、自らの意思で振る場所がなくなる。

 家を残すために、戦を捨てる。

 五十年かけて築いた理を、自分の手で置く。

 分かっている。

 それでも、言わねばならなかった。


 昭為の筆が、動く。

 紙の上に、文字が並ぶ。短い。理由はない。言い訳もない。ただ、受ける、とだけある。

 墨が、紙に滲む。昭為の手が、一度だけ止まる。また動く。

 広間に、筆の音だけが残る。


「印を」


 義重は、花押を据える。手が、わずかに震える。震えたまま、墨が乾く。

 乾くまで、誰も動かない。灯明の炎だけが、揺れている。

 花押の線が、紙の上で黒く沈む。義重は、それを見ていた。見終わっても、何も言わない。

 花押を据えた手は、まだ机の上にある。指は、もう震えていない。

 震えたのは、刀の柄の上ではなく、筆の上だった。

 刀で決めてきた人生が、筆で終わる。

 出陣の命も、退却の命も、すべて刀の側にあった。

 振るえば道が開いた。振るえば人が従った。

 その理で、五十年を生きてきた。

 だが今、花押だけが残った。

 刀は床の間にある。鞘に納まったまま、動かない。

 動かない刀の代わりに、筆が動いた。

 筆の先に、受ける、の一字がある。

 理由はない。言い訳もない。ただ、受ける。

 それが、終わりだった。

 鬼義重の終わりだった。


 昭為は、筆を持つ御屋形様の手を見た。

 出陣の命も、和睦の文も、すべてこの手が決めてきた。

 だが今書かせている文だけは違う。

 これは戦の始まりではない。終わりだった。

 軍を解いたあとの花押は、初めて見る。


 昭為が、文を懐に収める。封をする。紐を結ぶ。封蝋が、指の熱でわずかに柔らかくなる。

 封をした紙は、軽い。

 それでも、懐に収めた瞬間、昭為の肩がわずかに沈む。

 紙一枚だ。

 だが、その紙一枚が、いまほどけた一万の軍勢より重い。

 戦わずに終わらせた、という重さだ。

 昭為は、その重さを、言葉にはしなかった。


「急ぎます」


「急ぐな。着ければよい」


「は」


 昭為が下がる。

 封をした文が、城を出ていく。


 門の前で、門番が道を開ける。

 昨夜までなら、この門から出るのは軍勢だった。

 槍だった。鉄砲だった。馬だった。

 だが今日は違う。

 一通の文だけだった。

 使者が馬に跨る。手綱の音。蹄の音。

 一通の文だけが、門を抜けていく。

 門番は、何も問わない。道を開けたまま、見送るだけだ。

 蹄の音が、石畳を打つ。城下の道を、北へ向かう。

 石畳の上に、昨夜の草鞋の跡が残っている。一万分の跡だ。

 その跡の上を、一騎だけが踏んでいく。

 一騎だけが、春の道を行く。

 一万の軍勢が動かなかった門を、一騎だけが抜けた。

 義重は、見送らない。

 広間に残り、灯明の炎だけを見ている。

 一万を動かしても届かなかった決着が、北へ向かう。

 昭為は門の外で、一度だけ立ち止まった。

 北へ向かう馬の背を見送る。

 蹄の音が、遠ざかる。

 遠ざかっても、振り返らない。

 見送ったあと、何も言わず、城へ戻った。


 灯明の炎が、揺れる。

 城門は閉じていた。

 だが、閉じているのは門だけだった。


 義重は、床の間に置かれた太刀を見た。

 鞘に納まったままの太刀。朝、振るえなかった刃。

 最後まで、抜かれなかった。

 それは敵を失ったからではない。

 敵を斬っても、道が開かなくなったからだった。

 景虎はもういない。

 なのに、『家は、残ります』という声だけが、広間に残っている。


 机の端に、白木の札がある。

 灯明の赤みを帯びている。

 義重は、札を手に取った。驚くほど軽かった。

 裏を返す。何もない。表に戻す。四文字がある。


『常陸州牧』


 表には四文字。

 裏には何もない。

 その夜、太田城で最後まで動かなかったのは、白木の札だけだった。

 鬼義重は、一度も太刀に手を触れなかった。

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