第百八十九話:使者単騎
第百八十九話:使者単騎
朝だった。
太田城の城下には、一万の兵がいた。
旗はある。槍はある。鉄砲もある。馬もいる。
しかし、出陣の支度は進まない。
朝餉は簡素だった。米はある。だが、いつもより薄い。炊事場の竈に立つ煙は、細い。鍋の蓋を開ける音が、乾いている。飯を盛る木杓が、底を掻く。飼葉桶は空に近い。馬が鼻を鳴らすたび、兵が顔を伏せる。
昨日までなら聞こえていた帳場の声がない。荷を数える声も、縄を結ぶ音もない。問屋から届くはずの荷札さえ、今日は来なかった。
荷車の音は、しない。
荷駄を預かる足軽が、空になった俵を一つ持ち上げた。軽い。その足軽は何も言わず、俵を元の場所へ戻した。
練兵場の端では、空の台車が置かれたままになっている。動かす者もいない。荷を積む者もいない。太鼓は、朝から一度も鳴っていない。鬨の声もない。あるのは、春の風と、旗の音と、馬の鼻息だけだった。
天幕の中では、佐竹義重が野帳を見ていた。
数字は、昨夜と同じだった。頁をめくっても同じ。指で押さえても同じ。
昭為も、何も言わない。勘定方の算盤も、今は動いていない。珠をはじく指が、止まっている。
昨夜のことだった。
義重は野帳を開き、昭為に聞いた。
「あと何日、持つ」
「八日にございます」
「進めば」
「……戻れませぬ」
「二日遅らせれば」
「……戻れませぬ」
「三日」
昭為は答えなかった。答えなくても、野帳に残る数字が答えていた。
そのとき、天幕の入り口が、ゆっくりと引き開けられた。
朝の白々とした光が、薄暗い陣の中へと四角く切り取られて差し込んでくる。冷たい春の風が、火の気のない天幕の淀んだ空気を微かに揺らした。張り詰めた沈黙を、かすかに撫でる。
その眩しい逆光を背にして、一人の男が静かに足を踏み入れる。
上杉景虎であった。
供回りは一人もいない。
甲冑も着けていない。
浅葱色の直垂。腰には小太刀が一振り。それだけだった。春の風が、袖を音もなく揺らしている。
控えていた和田昭為をはじめとする佐竹の重臣たちが、一斉に身を固くした。誰も声を発しない。だが、濃密な殺気だけが天幕を満たした。柄にかかる手。わずかに浮く腰。いつでも斬りかかれる距離。昭為の右手が、柄に触れた。
景虎は周囲を見なかった。
ただ一人。上座の床几に座る佐竹義重だけを見据えていた。
白足袋が筵を擦る。
一歩。また一歩。足音だけが、極限まで張り詰めた天幕の中に低く響く。
やがて陣の中央で、景虎は立ち止まった。
「上杉景虎にござる」
静かな声だった。
義重は床几に座ったまま、その男を黙って睨みつけていた。
充血した目。こけた頬。重厚な黒糸威の甲冑が、やけに重く見える。眠っていない。眠れるはずがなかった。野帳を閉じる手だけが、わずかに震えていた。
「……よく来たな」
地を這うような声が落ちる。
「俺を笑いに来たか」
「いいえ」
景虎は首を振った。
「そのような資格は、私にはございませぬ」
義重が立ち上がった。
黒糸威の甲冑が、鈍い音を立てて重く軋む。巨体が迫る。一歩。また一歩。
太く節くれ立った手が、腰の太刀の柄を鷲掴みにした。親指で鯉口が切られる。鋼の鳴る冷たい音が、息を殺した空間に鋭く響いた。
「返せ」
義重が言う。
「返せ」
さらに一歩。太刀の冷たい輝きが、天幕の薄明かりを反射する。
「俺の戦を返せ」
景虎は答えない。ただ立っている。
「軍を集めた」
「鉄砲も揃えた」
「兵も集めた」
「小田原へ行くはずだった」
太刀が半ばまで抜かれる。
「それを貴様らは何をした」
義重の口元が歪む。
「城も攻めぬ」
「兵も殺さぬ」
「ただ荷だけを止める」
沈黙が落ちる。
天幕の外から、馬が鼻を鳴らす音が微かに聞こえた。出陣の刻を過ぎても、誰も動かない軍勢の気配。空の飼葉桶の前で、馬だけが時折、蹄を鳴らしている。旗が風に鳴る。兵の誰かが咳をする。草鞋が土を擦る音。それだけだった。
「俺はまだ負けておらぬぞ」
義重の声が、低くなる。
「誰にも討たれていない。城も落ちていない。領地も取られていない。なのに、なぜ俺はここで足を止めている」
一歩、また一歩。切っ先が、わずかに揺れる。重臣たちは息を殺す。
「刀を交えてもおらぬ。矢も射られておらぬ。なのに兵だけが腹を空かせる」
「そんなものが戦か」
景虎は静かに答えた。
「戦ではございませぬ」
義重の目が見開かれる。
「だからこそ」
景虎は続けた。
「勝てぬのです」
刹那。義重は太刀を抜き放った。鋼が閃く。切っ先が景虎の喉元へ向けられる。あと半歩。それで終わる距離。
だが景虎は動かない。瞬き一つしない。後ずさりもしない。ただ静かに、義重の目を見つめ返している。
「抜け」
義重が言った。
「小太刀でもよい。抜け」
「抜きませぬ」
「なぜだ」
「必要がございませぬ」
「俺が斬れぬと申すか」
「ええ」
「斬れませぬ」
義重は太刀を振り上げた。上段。一撃で終わる。振り下ろせば、刃は肉を断つ。だが景虎は逃げない。構えない。ただ立っている。
昭為の体が、わずかに前へ傾く。
御屋形様――
喉まで出かかった声が、そこで止まる。
口を開きかけた。何を言う。
斬って何になる。米が戻るのか。商人が戻るのか。
その答えだけが、喉につかえて出てこなかった。柄にかけた手だけが、白くなっている。
やがて、景虎が一歩前へ出た。自ら刃の間合いへ入る。無防備な胸を晒す。
小太刀の柄に、指が一瞬だけ触れる。だが、握らなかった。
「どうぞ」
義重の腕が止まった。
振り下ろせばいい。
それだけだった。
腕を落とせばいい。
長年、そうしてきた。
敵がいる。刀がある。間合いがある。
ならば斬る。
それでよかった。
振るえば道が開いた。振るえば人が従った。そう信じてきた。
だが今は違う。
目の前にいるのは敵だ。
だが、斬る理由がない。
斬ったところで、何一つ戻らない。
手が震える。
指の腹に、柄の漆の感触だけが残る。
刀が重い。これほど重かったことはない。
肩が沈む。呼吸が乱れる。
甲冑の下で、胸が熱い。汗が背を伝う。額に青筋が浮かぶ。
振り下ろすだけの距離。それなのに、腕が動かない。
指が動く。柄が滑る。それでも、刃は下りない。
昨夜の野帳が重なる。
筆を取る。数字を書く。消す。書き直す。
算盤の珠が鳴る。止まる。
やがて、同じ数字が返ってくる。
八日。七日。六日。
その先がない。
今朝の城下。
白い米俵。荷車。城門。
そして、城を避けて曲がった商人。
車輪の跡が、脳裏から離れない。
商人は義重の顔を見なかった。兵の旗も見なかった。ただ街道の先を見て、馬首を曲げた。
誰も命じていない。誰も脅していない。
門の外には米がある。門の内には兵がいる。その間を、荷車だけが通り過ぎていく。
目の前の男を斬れば、荷は戻るのか。
戻らない。
米は湧くのか。
湧かない。
血は出る。首は落ちる。だが、荷は戻らない。商人は戻らない。数字は動かない。
天幕の外で、また馬が鼻を鳴らす。
旗が鳴る。
太刀が、空中で揺れる。
敵将の首を幾つも取った腕が、目の前の男一人を斬れない。
誰も動かない。
昭為の喉が、小さく鳴る。
誰かの甲冑の金具が、体の中で微かに鳴る。
風が陣幕を鳴らす。
長い沈黙。
馬が鳴く。
旗が鳴る。
刀だけが、わずかに震える。
「……俺は」
掠れた声が漏れた。
「俺は戦うために生きてきた」
景虎は静かに頷いた。
「私もでござる」
それだけだった。
義重は目を閉じた。太刀が少し下がる。切っ先が、床の方向へ傾く。鋼の重さが、両腕に沈む。柄から、指が少し滑る。刀が、床へ落ちはしない。だが、もう振り上げる力はない。
また沈黙が落ちる。
外で、誰かが草鞋を擦る。
春の風だけが、陣幕を鳴らしている。
景虎は懐から白木の札を取り出した。床几の上へ置く。義重が視線を落とす。刻まれていたのは四文字。
『常陸州牧』
義重は見つめた。長く。ただ見つめた。
木札を指先で裏返す。何もない。表に四文字。裏には何もない。
城には敵がいた。旗には敵がいた。兵には敵がいた。
この札には、敵の名がない。あるのは、国の名だけだった。
領地は残る。
城も残る。
家も残る。
家臣も残る。
民も残る。
だが、その先に自分が何者として立つのかだけが見えなかった。
私戦をせぬ自分を、想像できなかった。
旗を立てぬ朝。槍を取らぬ昼。敵の名のない夜。
その先に立つ自分の姿だけが、空白だった。
景虎は何も言わなかった。
ただ頭を下げた。
「家は残ります」
義重は答えなかった。木札から目を離せない。四文字が、朝の光の中で白く浮かんでいる。誰も動かない。誰も拾わない。
「返答は急ぎませぬ」
景虎は踵を返す。白い光の中へ歩いていく。誰も止めなかった。止められなかった。重臣たちは、身動き一つできなかった。柄にかけた手を、誰も下ろせなかった。昭為の手が、柄から、静かに落ちる。
景虎の姿が、白い光の向こうへ消えた。
天幕の中に、沈黙だけが残る。
床几の上の白木は、誰も拾わない。義重も、昭為も、ただ木札を見ていた。朝の光が、札の縁を白く縁取っている。
外から、兵の気配がする。列がまだ解けていない。誰かが小さく囁く。出陣はいつか。下知はいつか。答えはない。天幕は、沈黙したままだった。
遠くで馬が鳴いた。
風が旗を鳴らした。
やがて、街道を荷車が通る音がした。
輪の音。鈴の音。荷を積んだ重み。米か、塩か、布か。分からない。ただ、動いている。
だが、城へは向かない。曲がっていく。別の道へ消えていく。
義重はその音を追わなかった。
荷車の音だけが、城を通り過ぎていった。
義重は動かなかった。
床几の上の白木だけが、朝の光を受けていた。
『常陸州牧』
四文字だけが、そこにあった。




