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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百八十八話:孤陣乾涸

第百八十八話:孤陣乾涸


 日が落ちると、春の夜の冷気が練兵場へ降りてきた。

 昼間から出陣の下知を待っていた兵たちは、まだ解散を命じられていない。

 一万の兵が、練兵場に残っている。

 篝火は焚かれていた。赤い火が甲冑の肩を照らし、槍の穂先を鈍く光らせている。

 戦の前夜にあるはずの音はなかった。陣太鼓が鳴らない。振る舞い酒もない。小荷駄も動かない。

 馬が飼葉桶へ鼻先を寄せる。底には藁が残っていた。今日の分なら足りる。だが、明日の分を足せば、桶は空になる。兵たちは、それを見ている。誰も何も言わない。


 炊事場では、一人の兵が鍋の蓋を開けた。中を覗いたまま、しばらく動かなかった。


「……これだけか」


 返事はない。鍋底には、米がある。今日の兵を食わせるだけなら足りる。だが、行軍させるとなれば足りないため、減らされていた。兵は蓋を閉めた。竈の前にいた炊事役が、灰をならす。

 若い兵が、配られた握り飯を掌に載せた。指で触れて、すぐに手を離す。いつもより小さい。一度見てから、腰へ戻した。戻した手が、しばらく腰から離れなかった。


 少し離れたところでは、馬方が飼葉桶を覗いていた。底に藁はある。だが、出陣前の馬に与える量ではない。馬方は何も言わず、手を下ろした。


 鉄砲足軽の一人が火縄を揉んだ。乾いている。火薬もある。具足もある。槍もある。弓もある。兵たちは武器を抱えたまま、座っている。いつ下知が来てもいいように。

 若い兵が、隣の古参の飯椀を見た。古参の椀も、いつもの量ではない。古参は何も言わず、椀を伏せた。若い兵も、目を逸らした。

 火のそばで、誰かが呟いた。


「なぜ、まだ出ない」


 返事はなかった。別の声が続いた。


「明日の朝には、出るんだろう」


 それにも、返事はなかった。薪が一本、火へ投げ込まれる。火の粉が跳ねる。その火の粉を見ながら、兵たちはそれぞれの草鞋を確かめた。結び目を締め直す者。底を指で押す者。切れかけた紐を結び直す者。出るための準備だけは、誰もやめなかった。

 馬を見る。桶を見る。空を見る。そして、また馬を見る。飼葉を探しに行った兵が戻ってきた。手に持ってきた量は、いつもの出陣前より少ない。何も言わず、元の場所へ戻る。その後ろから、別の馬方が桶を覗いた。底に藁はある。覗いた者は、そのまま離れた。


 本陣の天幕では、佐竹義重が床几に腰を下ろしていた。机の上には関東の絵図が広げられている。小田原へ向かう赤い線が、夜の灯りの下で浮かんでいた。義重は、その線を見ていた。何度見ても、道はある。太田から出る。相模へ向かう。小田原へ至る。絵図の上では、何も難しくない。

 天幕の中には宿老の和田昭為、勘定奉行、それに数名の重臣が控えていた。誰も口を開かなかった。義重の足元には采配が置かれている。柄には細い亀裂が入っていた。


「……夜が明ければ、どうする」


 義重が言った。


「明日の出陣は、どうするのだ。昭為」


 昭為は顔を上げた。


「……できませぬ」


「なぜだ」


「荷が、続きませぬ」


 短い言葉だった。それだけで、天幕の中が重くなる。義重は絵図から目を離さない。


「蔵に米はある」


「ございます」


「兵もいる」


「一万おります」


「武器もある」


「ございます」


「ならば出られるはずだ」


「数日なら、進めまする」


 義重が顔を上げた。


「……数日なら」


「はっ。今ある米と飼葉で、数日なら進めまする」


「ならば出る」


「出た先へ、次の荷が続きませぬ」


 義重の指が、机の端を叩いた。


「大口は」


「組み直しております」


「いつできる」


「……分かりませぬ」


「待てぬ」


 義重の声が、低く落ちる。


「武田の手形なら出せる」


「受け取ってはくれましょう」


「ならばよいではないか」


「一頭二頭の飼葉ならば」


 言葉が止まった。


「一万の兵を出す荷となれば、話が違いまする」


 義重は絵図を見た。赤い線は、小田原まで続いている。


「ならば小口で買え。近隣の湊へ使いを出せ。宿場にも当たれ。武田の手形で片っ端から買い足せ」


「買えまする」


「ならば買え」


「買えば、町の荷を食いまする」


 勘定奉行が帳面を開いた。


「昨夜、那珂湊から三十俵を出そうとした商人がおりました。馬は四頭。供は三人。太田まで来ております」


「ならば、なぜ城へ入れぬ」


「途中で引き返しました」


「なぜだ」


「売値は、ついておりました。帰りの飼葉も、宿代も、薪代もございます。ですが、太田へ入れた後の帰り荷が組めませぬ」


 義重は黙った。


「金は通りまする。武田の手形も通りまする。一頭二頭なら、買えます」


「もう分かった。時間がないのだ。無理は承知だ。とにかく一万分を、小口で集めろ」


「これから集め始めても、揃う前に日が過ぎまする。しかも、すでに組み直している大口の荷と競合しまする」


 勘定奉行は帳面を閉じた。


「小口で買い足せば、今日の馬は食えます。明日の兵も、少しは食えます。ですが、やはり一万を小田原まで出す荷にはなりませぬ」


 昭為が続けた。


「大口の完成を待つしかございませぬ」


「いつだ」


「……分かりませぬ」


 義重は、黙った。幾度も万を超える兵を率いてきた。敵の城を落とした。国人を屈服させた。北条とも渡り合った。だが今、自分は継続して荷を手に入れられない。


「馬を増やせ」


「飼葉が要りまする」


「飼葉を買え」


「一頭二頭なら買えまする。一万の馬には、足りませぬ」


「ならば兵を減らせ」


「ただでさえ予定より過小となった一万を減らして、何の遠征になりまする」


「歩かせろ」


「草鞋が要りまする」


「作らせろ」


「麻が要りまする。運ぶ荷が要りまする」


「舟ならどうだ」


「舟を動かす者にも、食わせねばなりませぬ」


 義重は口を閉じた。指が絵図の上を滑った。道は繋がっている。だが、道の上にあるはずの物が繋がっていない。


「長くは持たぬなら、長く持たせなければよい」


 義重の声が、少しだけ高くなる。


「一気に小田原まで踏み込む。敵が構える前に、足元へ入る」


 昭為は、すぐに答えなかった。


「一気に入るにも、荷が要りまする」


「速く動けば、荷は少なくて済むではないか」


「少なくはできます。消えはしませぬ」


「小田原が一万の兵を持って一日で落ちるとは思えませぬ。落ちなければ、二日目以降の飯が要りまする」


 義重の指が止まった。


「速さは、荷を消しませぬ」


 天幕の中が静まった。


「……ならば、奪うか」


 低い声だった。誰も驚かなかった。


「領内の蔵を開けよ。米と塩を出せ」


 昭為は、すぐには答えなかった。


「取れまする」


「ならば取れ」


「今日の兵糧は得られます」


「それでよい」


「明日の兵糧を売る者を失います」


 義重が昭為を見る。


「商人が来なくなるというのか」


「来なくなるのではございませぬ。来ても、佐竹軍向けにまとまった荷を組む者が減りまする」


「同じではないか」


「違いまする。領内から今ある米を取り上げれば、その米を次に売る者まで減りまする」


「別の商人を呼べばよい」


「どこから呼びまする」


「那珂湊。水戸。他国からでもよい」


「その者も、ここへ荷を入れた後の帰路を勘定しまする。一度ここへ荷を入れれば、その帰りに武田の手形で仕入れる荷が組みにくくなりまする。そうなれば、次の商いまで繋がりませぬ」


 義重は答えなかった。昭為が続ける。


「今日、百俵を取れば、今日の百俵は兵の腹へ入りまする」


 一拍置いた。


「明日、百俵を積んで来る者が、また一人減りまする」


 天幕の外で、馬が一声鳴いた。誰も振り向かなかった。


「国人を呼べ」


「呼べば、その者らの兵糧も要りまする」


「そもそも一万では足りぬのだ。北条は大軍だ。武田まで相手にする」


「足りませぬな」


「増やせ」


「増やせませぬ。一万を食わせる荷すら、今は継ぎ足せぬのでございます。これ以上兵を増やせば、城を出る前に腹が先に尽きまする」


 義重の眉が動いた。


「……しかし一万では、おそらく小田原は落ちぬ」


「落ちませぬな」


「援軍も来ぬ」


「来ておりませぬな」


「出ても勝てぬ。待てば、終わる。増やす荷もない」


 誰も答えなかった。


「……待つしかないのか。大口が揃うまで、城にいれば出陣はできる」


「何を待ちまするか」


「そうだ。組み直しが終われば、出られるのだろう」


「……いつ終わるかが、分かりませぬ。今日来ていることと、来月も来ることは、別でございます」


 義重が、ゆっくりと顔を上げる。


「今はまだ、商人がこの国へ来ている」


 昭為の声は、静かだった。


「まだ売る者もおります。まだ買える荷もございます。武田の手形も、今は通っております。ですが、商人が一度、ここを仕入れ先から外せば——」


「どうなる」


「次の荷が来ませぬ。佐竹へ荷を入れる者が減れば、帰り荷も組めませぬ。このまま佐竹向けの荷が戻らなければ、いずれ武田の手形を扱う問屋でも、佐竹向けの荷が組まれなくなりまする」


 言葉が止まった。


「出れば、荷が減る」


 義重が呟く。


「待てば」


「待てば、日が過ぎまする。待っている間にも、佐竹向けの荷を組む者が減りまする。荷が減れば、兵だけではございませぬ。鍛冶も、宿も、馬借も、荷を受けて次の荷を買うております。その流れが細れば、町の飯まで細りまする」


 義重は、何も言わなかった。


「まずは小田原まで行けばよい。その間を持たせればよい」


「小田原へ着いた後は?」


「北条の蔵を取る」


「取れば、その場では食えまする」


「ならば、それでよい」


「帰りは?」


 義重の顔から、わずかに力が抜けた。


「帰るにも荷が要りまする。奪うためにも、兵をそこまで運ばねばなりませぬ。兵が城を出れば、最初の一日から勘定が始まりまする」


 昭為が最後に言った。


「道はございます」


 義重が顔を上げる。


「ですが、道の上に荷がございませぬ」


 天幕の中が静まった。義重は床几から立ち上がった。甲冑が鳴った。足元の采配を拾う。握った指に、柄の亀裂が触れた。


「俺は小田原へ行く」


 義重は言った。


「このまま城に閉じこもって終われるものか」


 誰も答えなかった。


「……何かないのか」


 昭為も、勘定奉行も顔を伏せた。義重は一人だけ立っていた。絵図の上では、赤い線が小田原まで続いている。


「……その道で、何を食わせまする」


 昭為の声がした。義重は答えなかった。答えられなかった。

 道はある。兵もいる。武器もある。馬もいる。米も、まだある。武田の手形も、今は通る。だが、一万を遠征させ、帰らせる荷が、まだ組めない。


 夜が更けた。

 練兵場では、まだ篝火が燃えていた。兵たちは眠れなかった。明朝に出るかもしれない。だから横になれない。草鞋を脱ぐこともできない。具足を外すこともできない。槍を手放すこともできない。ただ、出陣の下知だけが来ない。

 誰かが草鞋の紐を結び直す。結び直した足が、次の一歩を待つ。待つ先に、下知はない。

 別の場所では馬が桶を舐めていた。藁はある。馬方が近づいた。馬の首を撫でる。

 蔵の前では、荷車が一台止まっていた。積まれている量はある。城内の今日分には足りる。一万を小田原まで運ぶ分には、足りない。誰も荷を足さない。

 見張りが交代する。敵はいない。交代だけが続く。守る相手のない交代が、ただ繰り返される。

 炊事場では、鍋の蓋が一度だけ開いた。中身は、昨日と変わらない。蓋が閉じた。

 夜が深くなる。篝火の薪が減る。兵の数は減らない。馬の数も減らない。明日になれば必要になるものだけが、少しずつ減っていく。誰も喋らない。誰も歩かない。誰も荷を積まない。

 東の空が、少しずつ白んだ。朝になっても、何も変わっていない。


 朝。

 城下で戸が開いた。続いて、荷車の車輪が石を噛んだ。馬が一声だけ嘶いた。問屋の奥から声がする。


「そっちへ回せ」


 別の声が返る。


「塩は先だ」


 米俵が降ろされる。別の荷車へ塩俵が積まれる。薪を積んだ馬方が帳面を開き、受け取った印を確かめる。飼葉が宿場へ運ばれる。鍛冶屋へ鉄が届く。市場では魚が売られる。荷札が付け替えられる。売った者が次の荷札を受け取る。その代金で飼葉を買う。飼葉を売った者が薪を買う。問屋の帳面に印が増えていく。

 朝の町は、昨日と同じように動いていた。誰も命令していない。誰も一つの帳面で動かしているわけでもない。それぞれが、それぞれの勘定で動いている。宿の戸が開く。問屋の帳面が閉じる。次の荷が組まれる。その流れの中で、佐竹軍へ向かうまとまった荷だけが、まだ組み上がらなかった。


 米を積んだ荷車が城門へ近づいた。門前には佐竹兵がいる。荷主は一度、城門を見た。兵と目が合う。商人は軽く頭を下げた。兵も道を空ける。荷車は、そのまま進んだ。そして城門の手前で、左へ折れた。

 塩を積んだ荷車が来た。同じだった。飼葉を積んだ車が来た。同じだった。薪を積んだ車も来た。同じだった。誰も命じていない。門も閉じていない。兵も止めていない。町の荷は動いている。


 義重は天幕から出て、その様子を見ていた。米だった。白い米俵が、朝の光を受けている。一人の兵が、思わず半歩前へ出た。荷主は馬の向きを変えた。それだけだった。罵声はない。怒鳴り声もない。荷車は城門を避けていく。別の荷車が来る。また避ける。その次も。また避ける。

 城下には荷車が走っている。城門を通らない。

 門の外には米がある。門の内には兵がいる。その間を、荷車だけが通り過ぎていく。


 義重は立っていた。自分の国だった。自分の城だった。門前には、自分の兵が立っている。それでも、荷は入ってこない。

 米俵が一つ、荷車の端から落ちた。荷主が慌てて拾う。佐竹兵のすぐ前だった。兵は手を伸ばしかけた。荷主は米俵を抱え直す。そして荷台へ戻す。城へ運ぼうとはしない。

 義重は、その男を見た。


「おい」


 商人が止まった。頭を下げる。


「米はいくらだ」


 商人は値を答えた。


「城へ運べ」


 商人の手が、手綱の上で止まった。


「……御屋形様、それだけは」


「なぜだ」


「帰れませぬ」


「売りとうはないのか」


「売りとうございます」


「ならば売れ」


「売ったあとが、ございませぬ」


 義重は黙った。


「ここで泊まれ」


「一晩なら泊まれます。ですが、明日の荷を組めませぬ」


「荷台は払う」


「今日の荷代はいただけましょう」


「ならばよいではないか」


「その先がございませぬ」


 商人は首を横に振った。


 商人は義重を見なかった。


「御屋形様が悪いのではございませぬ」


「……では、誰が悪い」


 商人はしばらく黙った。


「誰も、悪くはございませぬ」


 その言葉だけを残して、商人は頭を下げた。荷車が動き出す。義重の兵が、去っていく荷車へ一歩出ようとした。


「呼び止めるな」


 義重が言った。兵が止まる。荷車は去った。商人は振り返らなかった。義重は、その背中を見ていた。


「……そうなのか」


 それ以上、何も出来なかった。


 練兵場の端で、若い兵が古参に尋ねた。


「なぜ、出ない」


「知らん」


「飯は、いつもより少ない」


「……ああ」


「腹が減る」


 古参は何も言わなかった。


「米はあるんだろ」


「ああ」


「城の中にも?」


「今日の分はある」


「じゃあ、買えばいいんじゃないのか」


「誰が売る」


 若い兵も黙った。


「なぜ、出ない」


 古参は答えなかった。城下では、また荷車が曲がっていった。米を積んでいる。その車は、城へ入らなかった。


 義重は天幕へ戻った。床几に腰を下ろす。机の上の絵図を見る。赤筆の線は、昨日と変わらない。太田から小田原へ続いている。義重は、その先を見つめていた。

 外から荷車の音が聞こえる。車輪が石を噛む。馬の蹄が鳴る。荷札を読む声がする。町は動いている。佐竹軍だけが動かない。

 練兵場では、一万の兵がまだ待っている。出陣の道はある。ただ、一万を小田原まで運び、帰らせる荷が組めない。

 その朝、太鼓は鳴らなかった。下知も下らなかった。兵は残った。馬も残った。武器も残った。

 外では荷車が走り続けていた。朝だけが、佐竹軍を置き去りにして先へ進んでいった。

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