第百八十七話:兵站凍結
第百八十七話:兵站凍結
常陸国、太田城。
練兵場に張られた本陣の天幕の中は、重く冷え切っていた。結城、宇都宮、那須。共に戦うと誓い合ったはずの同盟国の旗は、出陣を定めた刻を過ぎても一本も現れない。寄せ集めて数万と見積もった連合の軍勢は、野帳の欄にだけ残っていた。欄の数字の横に、名前はある。あるのに、旗はない。練兵場にいるのは、太田城へ集めた佐竹家単独の一万だけだ。主君からの下知を待ち、槍を立てたまま静まり返っている。
朝から整列は続いていた。誰かが列を直し、誰かが槍の柄を握り直す。旗足が風に鳴るたびに、誰かの視線が街道の方へ向く。向いても、旗は現れない。現れないまま、時間が過ぎていく。
街道の先には、同盟軍の姿がない。轍もない。塵も立たない。馬のいななきだけが、時おり練兵場の端から聞こえる。いなないたあと、また静かになる。誰かが列の端で草鞋の紐を結び直す。結び直した足が、次の一歩を待っている。
槍の穂先が並ぶ。鉄砲の銃身が並ぶ。馬の列が、練兵場の端に控えている。揃っている。揃っているのに、先へ出る下知がない。動かないのは、兵の足だけだ。
馬は朝から飼葉桶の前に並んでいた。飼葉はまだ与えられていない。出陣なら出陣。待機なら待機。どちらの下知もないまま、馬だけが鼻を鳴らしていた。鼻を鳴らしたあとも、桶は空のままだ。空の桶の前で、馬の列だけが動かない。荷駄用の馬も、同じ列に並んでいる。荷を積む下知も、まだない。積む荷そのものが、まだ来ていない。来ていない荷の代わりに、空の鞍と空の縄だけが、朝から並んでいる。
伝令が東西の街道へ走り、戻るたびに「まだ見えませぬ」とだけ報告する。報告の声は短い。短いほど、天幕の中は静かになる。静かになった天幕の中で、絵図の端が風にめくれる。誰も、それを押さえようとしない。次の伝令が走る。走った先から、また同じ言葉が戻ってくる。
上座の床几に腰を下ろす佐竹義重は、足元に転がった采配を見つめていた。兜の下の顔は、怒りとも屈辱ともつかない紅潮を見せている。硯の水が、僅かに揺れている。誰も、それに触れない。
義重は、腹の底から息を吸い込んだ。床に落ちていた采配を拾い上げ、居並ぶ重臣たちを睨んだ。
「……来ぬなら、来ぬでよい」
声は低く、落ち着いていた。
「寄せ集めを当てにしていたのは、我らだ。一万が残っているなら、一万の戦をするまでよ。他国の顔色を窺う暇があるなら、相模へ入り、小田原まで押し通る。直ちに、出陣の支度を整えよ。兵糧、弾薬、荷駄の馬。すべてをかき集め、即刻この太田城を出立する」
義重は、机の上に広げられた関東の絵図を、太い指で叩いた。紙の端が、指の下で僅かにめくれる。赤筆の線が、小田原へ向かっている。線は昨日と同じだ。同じ線の上に、同じ矢印が残っている。
「昭為」
「はっ」
「連合軍の陽動などなくとも、我が軍一万のみで小田原へ押し通るぞ」
宿老の和田昭為は、一瞬顔を強張らせた。だが、深く平伏した。平伏したまま、少しだけ間が空く。空いた間に、外の旗の音だけが聞こえる。
「……はっ。直ちに、勘定方と小荷駄奉行を呼び、軍備の最終確認を行いまする」
同盟は来なかった。ならば、直属の兵だけで行く。義重の思考は、そこに切り替わっていた。嘆く暇があるなら、残った手で喉首を掻く。それが、戦場を生きてきた男の癖だった。絵図の上の矢印は、まだ残っている。矢印の先に人がいなくても、一万なら動かせる、と思っている。槍もある。鉄砲もある。馬もいる。兵はいる。戦えるはずのものが、そこに揃っている。
天幕の中に、勘定奉行と小荷駄奉行が呼ばれた。二人は分厚い野帳を抱え、額を床に擦りつけた。指の先が、僅かに震えている。野帳の角が擦り切れ、何度も開かれた跡が残っている。墨の乾いた匂いが、僅かに立つ。
「面を上げよ」
義重は、絵図から目を離さずに命じた。
「我が軍一万を動かす。すでに城下の蔵に納められておろう。まずは鉄砲だ。火薬と鉛はどうなっている」
勘定奉行は、顔面を蒼白に引き攣らせたまま、言葉を詰まらせた。喉が鳴る。次の言葉が出てこない。
「……い、いかがなされましたか、御屋形様」
「どうしたではない。目録の記しを申せ。蔵にはどれだけの火薬と鉛が届いておる」
「はっ……。蔵にございます火薬や鉛は、以前より備蓄していた分しか残っておりませぬ」
義重の動きが、ぴたりと止まった。采配の先端が、紙の上で一度、小さく揺れる。
「ひと月前、上方から大口の手配をしたはずだ。小田原攻めに足る量を、商人に用意させたであろうが。その品が、なぜ蔵に入っていないのだ」
「そ、それが……」
勘定奉行は、冷や汗を流しながら野帳の束をめくった。紙の擦れる音だけが、天幕の中に長く続く。頁をめくるたび、義重の視線が野帳の端を追う。追っても、答えは出てこない。
「荷は押さえております。しかし、まだ積み出してはおりませぬ」
「積み出していない?」
「はっ。大口の荷は、まだ積まれておりませぬ」
「なぜだ。武田の手形は通る。銭もある」
小荷駄奉行が、隣で顔を上げた。声は細い。細い声が、天幕の床に落ちる。
「殿。……その大口は、連合の軍勢を前提に組まれた手配でございまして」
「何」
「火薬も、鉛も、塩も、数万を前提に荷組みされております。一万分だけ抜いて積み直すには、荷組みからやり直さねばなりませぬ」
天幕の中から、音が消えた。外の旗の音だけが、遠く聞こえる。義重は、しばらく小荷駄奉行を見ていた。見ているあいだに、誰かが息を呑む。呑んだ息が、次の言葉にならない。
「……同盟が来ぬ以上」
「……当初の勘定が、立ちませぬ」
「武田の手形は通る」
「承知しております」
「ならば積め」
「……積まれませぬ」
積まれませぬ、という言葉が、天幕の中に落ちる。落ちたあとに、誰も続かない。義重の指が、机の端にかかった。机の木が、僅かに軋む。
「誰が命じた」
「……誰も、止めたとは聞いておりませぬ」
「何?」
「誰も、止めてはおりませぬ。ただ、積まれておりませぬ」
その言葉のあと、天幕の中は長く静かだった。静かすぎて、外の街道から、荷車の軋みがかすかに聞こえた。誰かが顔を上げかける。上げた先に、答えはない。荷車の音だけが、一度、通り過ぎていく。通り過ぎる音のあいだ、誰も口を開かない。
義重の眉間に皺が寄った。
「ならば、量を減らして頼め」
勘定奉行は、ゆっくり首を振った。
「……間に合いませぬ」
「宇都宮は」
「……未だ兵を動かしておりませぬ」
「那須は」
「同様にございます」
義重の指が、机の端で止まった。止まった先に、絵図の矢印がある。矢印の先に、人がいない。大口の荷もない。机の上には、昨日まで何の疑いもなく使っていた関東の絵図がある。線は残っている。陽動の線もある。包囲の線もある。小田原へ向かう道もある。赤筆で書き込まれた布陣は、昨日と変わらない。どの線にも、まだ綻びはない。ただ、その線を動かす荷がない。線は残っている。線の先だけが、空白だ。
「……構わん」
声は低かった。
「蔵の備蓄で行く」
昭為が、頭を下げた。
「御屋形様」
「何だ」
「まず、帳面をご覧くださいませ」
勘定奉行が野帳を開いた。紙の擦れる音が、静まり返った天幕の中に響く。頁の角が、指の下で僅かにめくれる。誰も、その音を遮らない。
「米」
「二十一日」
義重の目が動いた。二十一日。まだ、行けると思わせる数字だった。指が、采配の柄の上で一度動く。動いた先に、絵図の矢印がある。
「塩」
「十六日」
まだある。義重の視線は、まだ絵図の上にある。
「馬飼葉」
「十二日」
十二日。少し短い。だが、まだ足りる、と思える。重臣たちの誰も、まだ顔を上げない。頁をめくる音だけが、次の数字を連れてくる。
「火薬」
「十一日」
十一日。義重の指が止まった。誰も、次の言葉を持たない。
「鉛」
「九日」
九日。義重の目が、絵図の鉄砲隊の印に止まった。絵図の上には、鉄砲隊がまだ並んでいる。誰かが息を呑んだ。天幕の外で、旗足が一度だけ鳴る。鳴ったあと、また静かになる。
「草鞋」
「八日」
八日。昭為の目が、伏せられた。義重の視線が、初めて絵図から外れた。外れた先に、閉じようとする勘定奉行の手が止まっている。止まっている手が、表紙を合わせる。
野帳が閉じた。ぱたり。小さな音だった。だが、その音だけが天幕の中で長く残った。
和田昭為が、閉じた野帳の上に静かに手を置き、主君の顔を見上げることなく告げた。
「……小田原まで、届きませぬ」
告げた声が、天幕の中に残る。残った声のあとに、誰も続かない。義重は野帳を受け取った。開く。閉じる。また開く。数字は変わらない。同じ数字が、同じ場所にある。米の行。塩の行。鉛の行。開いても同じ数字だった。閉じて開いても同じだった。指で押さえても変わらなかった。もう一度開く。二十一日。十六日。十二日。十一日。九日。八日。並べても、足しても、小田原には届かない。頁の端を押さえ、何度も同じ行を辿る。辿った先に、八日がある。八日の先に、小田原がある。あるのに、数字が届かない。
武田の手形は通る。銭もある。荷も押さえられている。なのに、数字だけが増えない。増えない帳面を、義重はもう一度閉じた。閉じた表紙の下で、数字は動かない。動かない数字が、出陣を止めている。
米はある。塩もある。鉄砲もある。兵も、一万いる。それでも足りない。昨日までなら、足りていたはずだった。昨日までの線が、机の上に残っている。残っている線の先だけが、空白のままだ。空白の先に、戦がある。戦があるのに、届かない。
「……昭為」
「は」
「この帳面が間違っている可能性は」
昭為は黙っていた。
義重も、それ以上は問わなかった。義重は、手の中の采配を強く握りしめた。みしり、と柄が鳴った。握り締めた木のどこかで、細い亀裂が入った気配だけが残る。采配の先端が、絵図の端に触れたまま、動かなかった。触れた先も、矢印の途中だ。途中で止まっている。
外では、一万の兵が待っている。槍もある。鉄砲もある。馬もいる。整列は崩れていない。誰も、列を乱さない。それでも、出陣の荷駄だけが動かない。動かない荷駄の横で、誰かが槍の柄を握り直す。握り直しても、先へは出ない。兵はいる。戦える体は揃っている。揃っているのに、戦が始まらない。始まらない戦の横で、荷駄の縄だけが、朝から緩んだままになっている。緩んだ縄の先に、積むべき荷がない。
馬は、まだ飼葉桶の前にいた。桶は空のままだ。空の桶の前で、馬だけが鼻を鳴らす。鳴らしたあとも、下知はない。飼葉をやれという下知もない。出陣しろという下知もない。どちらもないまま、馬と兵だけが並んでいる。
蔵の前にも、人は立っている。立っているのに、荷は出てこない。出てこない荷の代わりに、空の台車だけが、朝から置かれている。置かれた台車の上に、誰も何も積まない。積めない。積むものがない。
昼餉の刻になっても、出陣のための炊事場から煙は上がらなかった。いつもなら上がる煙が、今日はどこにも見えない。誰も、それを問わなかった。
街道には、荷車が行き交っていた。轍が地面に残り、春の風が通る。誰も、それを止めなかった。荷車の音が、天幕の隙間まで届く。届いた音の先で、軍の列だけが動かない。動かない列の横を、荷車が一度、通り過ぎていく。通り過ぎたあとも、列は動かない。
下知のない旗だけが、風に膨らみ、またしぼんだ。その影だけが、地面の上をゆっくりと動いていた。




