第百八十六話:同盟瓦解
第百八十六話:同盟瓦解
常陸国、太田城。
朝の霜が、陽の当たるところから消え始めていた。影の残る石畳だけが、まだ白い。城を囲む森から鳥の声が聞こえ、水堀の水面に薄い雲の影が流れていく。堀の縁では、溶けた霜の水が細い筋を作っていた。
それでも、義重の居室だけは冷えていた。
「……何と申した。もう一度言ってみよ」
義重の前の文机には、叩いた跡が残っていた。硯が僅かにずれ、墨の染みが畳の端に黒い筋を引いている。その前で、報告役の武士が平伏したまま、肩だけが小さく震えていた。
「はっ……。相模の北条氏政が、甲府の武田勝頼に向け、使者を送ったとのことにございます」
義重の眉が動いた。
「北条が?」
「はい。私戦を放棄し、甲府との取り決めを受け入れた、との報せにございます」
「馬鹿な」
低い声だった。だが、次の瞬間には、義重の怒声が部屋を打った。
「馬鹿なッ!」
控えていた宿老の和田昭為をはじめ、重臣たちが身を縮める。誰も、主君の視線を真正面から受けられなかった。
「あの北条が! 関東の大勢力を誇り、我らと長年、覇権を争ってきた北条氏政が、一滴の血も流さずに甲府へ膝を屈しただと!」
報告役は、額を畳につけたまま答えた。
「ま、まことにございます。小田原では、武田手形を扱う商人が増えているとのことにございます。関所でも、その手形を改めて咎めぬとの布告が、氏政公ご自身の名で出されたと」
義重は立ち上がった。足元の墨の染みを踏み、黒い跡が畳に広がる。
今もなお、自分は武田の手形を使っている。銭を運ぶ手間が減る。上方から鉄砲や火薬を買うにも、札を渡せばよい。便利だった。だから疑わなかった。札は道具だと思っていた。北条を討つために、自分が使う道具だと。
北条を叩く手はずは、すでに頭の中にあった。小田原へ兵を入れる。宇都宮、結城、那須を動かす。それで五万になる。北条が武田の側へ回ろうが回るまいが、小田原を先に落とす算段に変わりはなかった。
だが、北条が正式に甲府の秩序へ入ったとなると、話は少し違う。北条へ兵を向けることが、ただの宿敵討伐ではなく、甲府の枠そのものへ刃を向けることになりかねない。商人たちは、その恐れだけで動きを変える。札は、まだ領内を回っている。止めると決められるほど、蔵は満ちていない。使うしかない。使っている限り、商いの行き先は、札の都合に左右される。
「……氏政め」
義重は、障子の向こうを睨んだ。春の光が、細い隙間から差し込んでいる。城下では、すでに商人たちが動き始めている気配があった。荷車の音。掛け声。いつもの朝の音だ。だが、義重の耳には、すべてが遠く聞こえた。
「武士の誇りを、相模湾の底に捨ておったか」
北条が甲府の秩序へ入った。南から北条領を通る荷の流れが、これまで以上に甲府の札と結びつく。周囲の諸国にも、甲府へ向けた返書が増えていた。小田原攻めを行えば、その流れの外に残される。
義重は、拳を握った。指の腹に、短く爪が食い込む。
「昭為」
「はっ」
「予定を早める。全軍に、改めて陣触れを回せ」
昭為が顔を上げた。
「御屋形様……」
「北条が武田の側へ回ったというのなら、なおさらだ。武田の手形が関東へさらに行き渡る前に、こちらから動く」
「しかし……」
「遅れれば、もう動けぬ」
義重の声には、怒りよりも焦りが混じっていた。焦りを隠そうとしない男ではなかった。隠すより、動く方が早かった。小田原攻めそのものは、すでに決めていた。決めていたからこそ、北条が甲府へ入った今、同盟の足並みが崩れないうちに動かねばならぬ、と思っている。
「宇都宮、結城、那須の諸将へ、使者を飛ばせ。北条討伐のため、急ぎ常陸へ兵を集めるよう伝えろ。遅れた者は、裏切りと見なす、とな」
「……承知いたしました」
「今なら、まだ間に合う」
義重はそう言った。
常陸国内には陣触れが回り、太田城の練兵場へ兵が集められ始めた。ほら貝の音が春先の空気を裂き、旗足が風に鳴る。上方から買い付けた鉄砲も、蔵から運び出されていく。油紙を剥がす音。銃身が日光を受ける瞬間。兵士たちの息が、白い煙のように朝の空気に混じる。誰かが列を直し、誰かが槍の柄を握り直す。動きは早い。だが、その早さの先に何があるのかは、まだ誰も口にしない。
義重は窓からその光景を見下ろした。鉄砲はある。兵は動く。絵図は頭の中にある。あとは、同盟の軍勢が集まればよい。五万に届くはずの軍。その数字を、舌の裏で何度も転がした。
使者の馬がまだ街道を走っているうちに、先方では別の紙が開かれていた。
下総国、結城城。
佐竹からの使者が去ったあと、評定の間には重い沈黙が残っていた。結城家当主・結城晴朝の前に、一通の陣触れが置かれている。紙の端が、僅かに波打っている。運び手の手の熱が、まだ残っているようだった。
『北条討伐の好機到来せり。直ちに全軍を率いて常陸へ出立せよ』
晴朝は、書状を見つめたまま動かなかった。北条は、長年の宿敵である。佐竹の呼びかけに応じれば、これまでの恩に報いることもできる。義重には、窮地を救われた借りがあった。借りを返すなら、今がその時に見える。
だが、その隣に一冊の帳面が置かれた。表紙の角が擦り切れ、頁の端に指の跡が残っている。何度も開かれた帳面だ。筆頭の老臣が、静かに口を開いた。
「殿」
「申せ」
「佐竹殿へのご恩は、我らも承知しております」
老臣は、帳面を開いた。墨の乾いた匂いが、僅かに立つ。
「ですが、今は義理だけで決められる状況ではございませぬ」
晴朝は、黙って数字を見た。月ごとの欄。増えていく印。減らない決済の列。指で辿ると、紙のざらつきが掌に残る。
「領内で回っている武田手形の額にございます。米、塩、鉄、馬。商いの多くが、この手形を介して動いております。城下の米屋も、塩屋も、鍛冶も、札がなければ明日の荷を約束できぬ、と申しております」
「……分かっておる」
「では、もう一つだけ」
老臣は、帳面の別の頁を開いた。
「当家が佐竹殿の陣触れに応じ、北条へ兵を向けた場合、甲府との取引が細りましょう。北条がすでに甲府の枠へ入った今、北条討伐は、ただの宿敵討伐では済みませぬ。そうなれば、商人は荷を出さなくなりまする。止める、と誰かが命じる前に、荷の行き先が変わります」
晴朝の目が、帳面から離れた。
「……行き先が、変わる」
「はい。商人たちは、その恐れだけで動きを変えまする」
「……」
「手形が通らぬと見れば、商人は荷を持って参りませぬ。戦の最中に、結城の蔵が空になれば……」
言葉が止まった。晴朝が続きを言った。
「結城そのものが持たぬ」
「……はい」
長い沈黙が落ちた。外から、城下を行き交う人の声が聞こえている。荷を運ぶ音もする。木戸の軋む音。誰かの掛け声。今は、まだ商いがある。だが、それが明日もある保証はない。
晴朝は、書状と帳面を交互に見た。片方は熱を帯びた筆致で「今が好機」と記され、片方は冷たい数字で「荷が止まる」と示す。老臣は急かさなかった。ただ帳面の頁を押さえたまま、待った。頁の端が、指の下で僅かにめくれる。障子の外で、城下の声が遠く聞こえる。荷車の轍が道を軋ませる音が、一度、二度と続いた。誰かが木戸で荷物を下ろす音もする。商いは、まだ動いている。
晴朝は目を閉じた。しばらくして、陣触れの書状へ目を戻した。
「佐竹殿には、何と返す」
「領内に不穏あり、兵を動かせぬ、と」
「……偽りだな」
「はい」
晴朝はしばらく黙っていた。偽りの重さが、喉の奥に残る。やがて、静かに言った。
「甲府へ使者を出せ」
老臣が顔を上げる。
「我ら結城は、私戦を避ける。その旨を甲府へ伝えよ」
「御意にございます」
「佐竹殿への返書は、こちらで書く。余計なことは申すな。恩を忘れている、とも書くな」
「承知いたしました」
晴朝は、陣触れの書状へ目を落とした。佐竹への恩義が消えたわけではない。北条への敵意が消えたわけでもない。それでも、兵を出せば、明日の米が細る。書状の端を、指で一度押さえてから、手を離した。
同じ頃、宇都宮と那須からも、返書が届き始めていた。文面は、それぞれ少しずつ違う。だが、出兵を約束する文は、一通もなかった。返書には、義重を責める言葉が一つもなかった。恩を切り捨てる言葉も、なかった。ただ、動けぬ、という答えだけが、静かに積み重なっていく。
寝返りも、密約もなかった。各城で帳面が開かれ、それぞれに判断が下された。その結果だけが、太田へ返書として届く。紙の上の矢印は残る。矢印の先から来るはずの兵は、もういない。
数日後、常陸国、太田城。
広い練兵場には、佐竹家の兵が集まっていた。槍が並ぶ。鉄砲が並ぶ。旗が風に鳴る。朝から整列は続いていた。来るはずの連合の軍勢を、本陣は待っている。伝令が東西の街道へ走り、戻るたびに「まだ見えませぬ」とだけ報告する。報告の声は短い。短いほど、天幕の中は静かになる。外では旗の音だけが続いている。誰も、その音について口を開かない。義重はそれを聞き、采配を握り直すだけだった。握り直すたび、木の感触が掌に残る。感触は確かでも、先に来るはずの旗印は、地平線に現れない。
一日目は、遅れだと信じた。二日目は、道が悪いのだと信じた。三日目に、信じることが難しくなっていく。天幕の中の武将たちは、互いに目を合わせなかった。誰かが咳をし、誰かが床に視線を落とす。そのまま、時間だけが過ぎていった。天幕の隙間から入る風が、絵図の端を微かに持ち上げる。誰も、それを押さえようとしない。
天幕の中では、義重が関東の絵図を広げていた。紙の端が、微かにめくれる。何度も指で押さえた跡が、そこにある。小田原。武蔵方面。矢印は昨日と同じ位置を指している。変わったのは、矢印の先に人がいないことだけだ。
「小田原を短期で落とす」
義重は、絵図の一点を指した。
「宇都宮。結城。那須」
指が、三つの名の上に置かれる。
「兵が揃えば、城は持たぬ。速さで決める」
声に迷いはなかった。兵が揃えば、戦える。そう思っていた。武将たちは黙って頷いた。頷いたあと、誰も次の言葉を持たない。持たないまま、絵図の上の矢印だけが残る。采配の先端が、紙の上で一度、小さく止まった。
「御屋形様」
和田昭為が、控えめに声をかけた。
「何だ」
「宇都宮、結城、那須より、まだ兵が到着しておりませぬ」
「遅れているだけだ。今日中には見える」
「……それが」
昭為が言葉を選んだ。選んでも、良い言葉は出てこない。
「いずれも、出兵を見合わせるとの返答にございます」
義重の指が止まった。
「……見合わせる、だと」
「はい。結城晴朝殿は、領内の事情を理由に。宇都宮も、那須も同様にございます。使者には、出兵を見合わせる旨だけを伝えたとのことに」
「……」
天幕の中に、沈黙が落ちた。義重は、絵図を見た。宇都宮の矢印。結城の矢印。那須の矢印。そこには、まだ線が残っている。だが、線の先から、人が来ない。
「……恩知らずめ」
義重が呟いた。昭為は答えなかった。
「同じ手形を使っておきながら、俺の呼びかけを聞いておきながら……」
義重の声が、低くなる。
「戦う前に、逃げたか」
「……殿」
「何だ」
「逃げたのでは、ないのかもしれませぬ」
義重が振り向いた。昭為の顔は、俯いたままだった。
「では何だ」
「国を、守ったのでございましょう」
義重は答えなかった。
天幕の外では、兵士たちがまだ整列したまま待っている。槍は輝き、鉄砲は並び、旗は春の風に翻っている。彼らは、戦える。体は動く。命令を待てば、小田原へ向かうだろう。ただ、来るはずだった兵だけが来ない。
義重は絵図へ目を戻した。宇都宮。結城。那須。そして佐竹。矢印は残っている。紙の上では、十分な兵力の軍だった。数字は消えていない。消えたのは、数字の先だけだ。
「……勝てる軍勢になるはずだった」
義重の声は、怒鳴り声ではなかった。自分に言い聞かせるような、乾いた声だった。
和田昭為は、頭を下げた。義重は絵図を畳まなかった。矢印も、数字も、そのまま残した。ただ、その先へ進む兵だけが、いなかった。
戦う前に、同盟が消えた。太田城の外では、春の風が吹いていた。練兵場の旗は、まだ下ろされていない。風のたびに膨らみ、またしぼむ。旗足だけが、空を切って鳴り続けている。




