↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
185/226

第百八十五話:相模算段

第百八十五話:相模算段


 夜明け前の白み始めた空が、関東平野を底冷えのする青灰色の光で包み込んでいた。

 相模湾から吹き付ける海風は、冬の厳しさを残しながらも、微かに春の湿り気を孕んでいる。波の音が一定の律動で城の石垣を打ち据え、その重低音が本丸の奥深くにまで響いていた。

 廊下を歩く侍たちの足音は控えめだ。それでも、評定の間へ向かう気配だけは、城の空気を少しずつ張り詰めさせていく。


 北条家第四代当主・北条氏政は、一族の重臣たちを評定の間へと集めていた。

 昨夜はほとんど眠っていない。

 帳面を開いては閉じ、また開いた。灯明の油が減り、芯が短くなっても、数字だけは変わらなかった。

 佐竹の兵の噂。北条の兵糧。小田原へ入る荷。箱根を越える荷。そして、その代金に使われた手形。

 どれだけ見直しても、同じところへ戻ってくる。

 戦なら、まだ読める。兵を出し、城を守り、敵を退ける。

 だが今、北条の前にあるものは、それだけではなかった。


 広間には、張り詰めた空気が満ちていた。

 氏政の正面に座すのは、鉢形城主の北条氏邦、滝山城主の北条氏照。さらには松山城主・大道寺政繁をはじめとする重臣たちである。当主の突然の召集に、ただならぬ気配を感じ取り、誰も余計な言葉を発しない。

 氏政の傍らには、先日甲府から帰還した板部岡江雪斎が、衣擦れの音一つ立てずに控えていた。


 氏政は、広間の中央に置かれた台の上に、帳面を幾冊か並べていた。

 厚い表紙。黄ばんだ紙。墨の乾いた匂い。指で縁を辿ると、使い込まれた角の丸みが手に触れる。

 一冊は昨年の関所と宿場の収入。一冊は今年に入ってからの流通。もう一冊は、小田原宿と箱根宿で回収した手形の写しである。

 氏政は、最初の一冊を開いた。頁の端が、僅かに折れている。何度も開いた跡だ。

 紙をめくる乾いた音だけが、静寂の評定の間に響く。


「……我が北条家の、次の一手を定める」

 氏政の低く、腹の底に響く声が、重臣たちの鼓膜を打った。

「常陸の佐竹が動いている。北条を討つと、触れを飛ばしている」


 氏照が、太い眉を吊り上げて身を乗り出した。

「ならば先に討つべきにございます。小田原は落ちませぬ。兵も、士気も、憂うところは全くありませぬ。箱根の険を味方につけ、惣構えの内側で受ければ、佐竹とて容易には踏み込めますまい」

 氏邦も力強く頷いた。

「兄上、今こそ兵を動かす時です。佐竹を叩けば、関東の覇権は我らのものとなりまする。あの鬼義重が鉄砲を揃えようと、先に動きさえすれば勝機は十分にございます」

 大道寺政繁が、静かに続けた。

「蔵の兵糧も、全く問題ありませぬ。城を守る力も、攻める力も、北条には十分にございます」


 氏政は、表情一つ変えることなく、帳面の頁をめくった。

 指先が、数字の列をゆっくりと辿る。


「氏邦、氏照。お前たちの武勇は頼もしい」

 氏政は、帳面を一冊、前へ押し出した。

「見よ」

 重臣たちの視線が、紙面に集まる。

「小田原宿。手形の割合、三割八分。箱根宿、四割を超えている」

 氏政は、指先でその数字を二度叩いた。

「これが武田の手形の割合である。多いと思うか」

 誰も答えなかった。

「まだ少ない、と思う者もおるだろう」

 氏政は別の頁を開いた。頁の端には、月ごとの数字が並んでいる。

「三割一分。三割四分。三割八分」

 指が、数字の並びに沿って動く。

「増えている」

 それだけだった。

 氏照の喉が、小さく鳴った。氏邦は、視線を紙面から一度外し、また戻した。大道寺は目を細めたまま、動かない。


 氏政は、さらに頁をめくった。

「米。塩。鉄。硝石。布」

 それぞれの欄に、同じ印が増えている。

「札を使うのは、同じ商人ばかりではない。品目が広がっている。戦ではない。だが、国の血流は、すでに形を変え始めている」


 一拍置いて、氏政は言った。

「佐竹に勝てぬとは、言っておらぬ」

 氏邦が、僅かに身を乗り出す。

「勝てるかもしれぬ。だが、勝つために何を使う」

 氏政の指が、次の欄へ移る。

「兵糧。銭。馬。鉄砲。弾薬。兵の損耗。戦後の復旧」

 数字が並ぶ。感情はない。逃げ場もない。

 氏政は、兵糧の欄を指で押さえた。

「出陣すれば、蔵は減る。勝っても、減った分は戻らぬ。戻すには、買う。買うには、払う」

 次の頁。馬。飼料。修繕。

「傷んだ馬をどうする。鉄砲の筒が裂けたら、誰が直す。弾が尽きたら、どこから入れる」

 誰も、すぐには答えなかった。答えようとすれば、銭と荷の話になる。銭と荷の話になれば、帳面に戻る。

「佐竹を討つ」

 氏政は、そこに指を置いた。

「その後、何日で兵を戻せる」

 誰も答えなかった。

「十日か。二十日か。ひと月か」

 指が、次の欄へ移る。

「その間にも、荷は動く。米は買われる。馬は飼われる。弾は要る。兵を養う銭も要る。城下の商いも、止まってはくれぬ」

 そして、手形の欄を指した。

「これが止まったら、誰が払う。高くなった米を、誰の蔵から出す。鉄を、誰の銭で買う」

 広間のどこかで、衣擦れの音がした。それ以外は、静かだった。

「戦場では勝てるかもしれぬ。国では、どうだ」


 広間の空気が、一段と重くなった。

 氏邦が、ギリッと奥歯を噛み締めた。

「……兄上。それでは、甲府に屈しろと仰るのですか」

 氏照も、畳に手をついた。声に熱が混じる。

「父・氏康公が泣かれますぞ。我らは武家。最後まで槍を握るべきにございます」


 氏政は、弟たちを静かに見据えた。

「屈するのではない」

 言葉は短かった。

「武田の仕組みの中へ、北条として入る」


 広間が、凍った。

 氏照の唇が、動いた。声にはならない。

 氏政の眼光に、冷たい光が宿った。

「下風に立て、とは言っておらぬ」


 氏邦が、声を上げた。

「兄上、それでは武田の家臣と同じでありましょう。甲府の命に従って私戦を捨て、槍を収めろと仰るのですか。それでは、北条は北条でなくなりまする」

「違う」

 氏政の一声が、広間を打った。

 全員の視線が、氏政に集まる。

 氏政は、帳面の上に手を置いた。

「行政は残っている。蔵も残っている。街道も残っている。兵も残っている。検地の帳も、宿場の支配も、壊れてはおらぬ」

 短く、息を吐いた。

「捨てる理由が見つからぬ」


 氏邦が、なお食い下がる。

「ですが兄上。武田の理に入れば、いずれ甲府から役人が入り、北条の政まで改められるのではありませぬか」

 氏政は、すぐには答えなかった。

「そこまでは、まだ分からぬ」

「ならば危ういではありませぬか」

「危うい」

 即答だった。

 氏邦が、わずかに目を見開く。

「だが、何もせずに佐竹と戦えば、もっと早く北条の政が壊れる」

 氏政は帳面を開いた。

「国が万全のうちに選ぶ。蔵が通常のうちに選ぶ。街道が整っているうちに選ぶ。兵があるうちに選ぶ」

 一つずつ指を置いた。

「何かを失ってからでは、選べぬ。北条を、選べなくなってから救うつもりはない」


 沈黙が、長く続いた。

 障子の向こうで、波の音が規則正しく響いている。

 その沈黙を割ったのは、大道寺政繁だった。


「……御屋形様。一つ、申し上げてよいでしょうか」

「言え」

「武田の手形が、すでに城下の血流になっておることは、この帳面が示しておりまする。されば、問いも一つ増えます」

 大道寺は、顔を上げた。

「武田が負ければ?」

 声が、落ちた。

「この札も止まりまする」

 氏政は、答えなかった。

「では、もう一つだけ」

 大道寺の声が、さらに低くなる。

「織田が勝てば、どうなりまする」

 広間の空気が変わった。佐竹の名が出たときとは違う。織田。その名だけで、誰もが西の噂を思い浮かべた。

「甲府の札が、武田の信用によって立っているのであれば、武田が負けた時、その札はどうなる。甲府の蔵だけの話ではございませぬ。東国の商人が受け取った札まで、同じように価値を失えば……」

 大道寺は、帳面を指した。

「小田原だけではない。鉢形も、滝山も、松山も、その周囲の宿場も、同じ傷を負いまする」

 誰も答えなかった。

「武田が勝つか負けるか。それだけではございませぬ。武田が負けた時、どこまで一緒に倒れる仕組みなのか。それを知らぬまま乗るのは、危うすぎまする」


 正論だった。

 氏政は、しばらく答えなかった。

「……織田が勝つ可能性はある」

 その言葉に、氏照が顔を上げた。

「御屋形様……」

「勝頼も、無敵ではない。武田の兵も、兵糧も、銭も、無尽蔵ではない。織田が西から押し込めば、甲府の仕組みそのものが揺らぐこともある」

 氏政は否定しなかった。

「だから、武田に入れば安全だとは言っておらぬ」

 帳面の上に置かれた手が、ゆっくりと動く。

「むしろ逆だ。武田が倒れれば、今この札を使っている国は、皆一緒に傷を負う」

「ならば――」

 氏邦が口を挟みかけた。

「だからこそ、外にいるより中を見る」

 氏政は遮った。

「武田が何を持っているのか。どこまでが勝頼自身の力で、どこからが商人の信用なのか。どの街道が止まれば札が止まり、どの蔵が空けば商流が崩れるのか」

 氏政は帳面を閉じた。

「それを知らぬまま、武田が勝つか負けるかを賭けるつもりはない」

「……では?」

「中に入って見る」


 大道寺が、なお問いを重ねた。

「では、もし札が止まったら。北条はどうする」

 氏政は、帳面を見た。

「札を捨てる」

「……捨てる?」

「そうだ」

「しかし、それでは――」

「一枚の札が価値を失ったからといって、米まで消えるわけではない。鉄まで消えるわけでもない。街道も、蔵も、人も消えぬ」

 氏政の指が、帳面の上を滑る。

「札が止まることと、国が消えることは同じではない」

「ですが、商流が止まれば……」

「だから、それまでに備える」

 広間が静まった。

「札が通る間に、何を買う。何を蔵に入れる。どの街道を押さえる。どの商人と結ぶ。どの銭を残す」

 氏政は、一人ずつ見た。

「そこまで考えずに入るなら、ただの賭けだ」

「では、御屋形様は……」

「賭けるつもりはない」

「ならば?」

「算段する」


 江雪斎が、初めて口を開いた。

「……甲府では、そこまでの備えを」

「お前が見た範囲で、何があった」

 江雪斎は少し考えた。

「札だけではございませぬ。街道。宿場。蔵。商人。荷の行き先。そして、それらを繋ぐ決済でございます」

 氏政は頷いた。

「ならば、武田の力は札一枚ではない」

「はい」

「ならば、札を潰すだけでは、すべては消えぬ」

 江雪斎は答えなかった。

「逆に言えば、札だけを見ていれば、武田の強さも弱さも見誤る」

 氏政は帳面を閉じた。

「だから中へ入る。外から槍を突いても、中は見えぬ。仕組みがどう保たれ、どこで脆いのかも、外からは分からぬ」


 一拍置いて、氏政は続けた。

「道は、三つある」

 重臣たちの視線が、氏政に集まる。

「武田と敵対する。武田に従う。武田の仕組みを使いながら、内部で生き残る」

 指が、三つ、静かに折られた。

「一は、手形を止められ、先に干上がる。二は、下風に立ち、北条を失う恐れがある。三は、危うい。だが、蔵も街道も兵も残ったまま、中を見られる」

 短く、息を吐いた。

「だから、三を選ぶ」


 誰も「御意」と言わなかった。

 だが、誰も「戦え」とも言わなかった。


 氏政は、江雪斎を見た。

「江雪斎。甲府へ参れ」

「はっ」

「文を書け。我が北条は武田と争わぬ。私戦も起こさぬ。その旨を伝えよ」


 筆と紙が、静かに運ばれる。

 江雪斎が、命じられた文面を記す。硯の音。筆の擦れる音。広間には、それだけが残った。

 江雪斎が、筆を置いて顔を上げた。

「佐竹に対しては、いかがいたしましょう」

 氏政は、少し考えた。

「甲府と共に……」

「……は」

「北条は、甲府と共に歩むとのみ、伝えればよい」

 氏政は、帳面を閉じた。

「それで向こうが何をするか、見ようではないか」


 氏照が、深く息を吐いた。

「……御意にございます」

 氏邦も、やがて頭を下げた。拳は、まだ膝の上で固く握られたままだった。

「……従いましょうぞ」

 大道寺は、何も言わず、深く礼をした。


 評定は、そこまでだった。

 障子が一枚ずつ開き、閉じていく。

 誰も大きな声を出さなかった。

 廊下へ出た氏邦が、一度だけ足を止めた。先を歩く氏照の背中を見たが、何も言わない。氏照も振り返らなかった。

 二人とも、氏政の決断に完全に納得したわけではない。ただ、さきほど帳面に並んでいた数字を、もう見なかったことにはできなかった。

 江雪斎は、書いた文を懐に収め、一礼して退室する。


 広間に残ったのは、氏政だけだった。

 台の上の帳面は、まだ開かれたままのものもある。数字の列が、朝の光の中で静かに並んでいる。風が障子の隙間から入り、紙の端を僅かに持ち上げた。氏政は、それを押さえるように手を置いた。

 氏政は、障子の近くまで歩み、細い隙間から海の方を見た。


 相模湾の水面が、白み始めた空を反射している。

 城下の方から、荷車の軋む音が聞こえた。

 木戸が開く。商人の声がする。

 米俵を積んだ荷車が一台、坂を下っていく。その荷札の端に、見慣れぬ印が押されていた。

 氏政は目を細めた。

 あれも、札で動いているのだろう。

 戦は始まっていない。それでも、城下のどこかでは、すでに北条だけでは決められない取引が増えている。


 氏政は、懐の手形の写しに触れた。

 薄い紙だった。

 これ一枚で、米が動く。塩が動く。鉄が動く。そして、人も動く。

 まだ、誰も槍を抜いていない。

 それでも、国の形は少しずつ変わっている。


 氏政は目を閉じた。

 武田の中へ入る。

 それが正しいのかは、まだ分からない。

 織田が勝てば、札は揺らぐ。武田が倒れれば、東国も傷を負う。北条が内側へ入れば、その傷を近くで受けることになる。

 それでも、外に立って槍を握るよりは、まだ選べる。

 選べるうちに入る。見えるうちに見る。失う前に備える。

 それが、今の北条に残された算段だった。


 だが――

 北条が武田の側へ回ったと知れば、常陸の佐竹義重が黙っているはずもなかった。


 海風が、障子を僅かに揺らした。

 小田原の城下では、今日も荷が動いている。

 波の音だけが、一定の間隔で石垣を打ち続けている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。