第百七十六話:老将強耐
第百七十六話:老将強耐
会津盆地に、冬の足音が近づいていた。
鉛色の雲が空を覆い、奥羽の山脈から吹き下ろす木枯らしが、黒川城の瓦屋根を叩いている。例年であれば、秋の収穫を終えたばかりの時期であり、城下町は最も活気づくはずであった。米俵を満載した荷車が行き交い、冬支度を進める商人たちの声が大路に響き渡る季節である。
だが今年は違った。
荷車の軋む音が聞こえない。市の開く刻限になっても、城下に太鼓は鳴らなかった。大路に、人の気配がない。軒を連ねる店の戸は閉じたまま、看板が風に揺れる音だけが、時折聞こえる。
黒川城の奥深く、評定の間。
そこに集まった蘆名家の重臣たちの顔には、数日前までの威勢や怒りは残っていなかった。あるのは、足元からじわじわと這い上がってくる飢えへの、剥き出しの恐怖だけであった。
広間の空気は冷たかった。誰もが言葉を発することを恐れ、ただ己の呼吸を殺すようにして俯いている。
「……申し上げます」
長い沈黙を破ったのは、勘定方の掠れた声であった。
勘定方は野帳を開いた。指先が、わずかに震えている。
「城内の兵糧蔵は、残り二割を切りましてございます」
野帳の頁がめくられるたび、広間の空気が重くなる。誰も、数字を聞き返さなかった。聞き返す必要がないほど、現実がそこにあった。
阿賀野川の関所を維持し、国境を固めるための兵たちに送る兵糧が、予想を上回る速さで消えていく。このままでは、本格的な雪が降る前に、城の備蓄が底を突く。
下座に控えていた国人衆の代表が、前へ進み出た。かつては盛氏の威光にひれ伏し、威勢よく軍役を務めていた男の頬はこけ、眼窩は黒く窪んでいた。
「御屋形様……どうか、お助けくだされ」
声が、掠れている。
「家中の粥が、もう椀の底が見える薄さでございます。子供が椀を舐めておりました。妻は、その椀を裏返して見せるしかありませんでした。隣家では、種籾に手を付け始めた者もおります。兵役に就かせている者たちも、腹を空かせて槍を握る握力すらありませぬ」
城下を取り仕切る御用商人の年寄りが、平伏した。
「殿……市は止まりました」
商人は、一度息を継いだ。
「昨日閉じた店の戸に、今日も札が掛かったままでございます。朝になっても、暖簾が出ませぬ。塩を積んだ荷も、布の荷も、もう来ませぬ。売るものが、何も残っておりませぬ」
「……佐竹殿からの返書は、どうなった」
上座の蘆名盛氏は、低く問うた。その目には、まだ諦めの色は見えなかったが、声の張りは細くなっていた。
使者として常陸へ赴いていた家臣が、首を振った。
「……返書は、いまだ届きませぬ。義重殿は当家の使者との面会すら拒み、『今は動けぬ』の一点張りにございます。常陸では、武田の手形が飛び交っておりました」
盛氏は、膝の上に置いた両の拳を、強く握りしめた。
「……殿。もはや、限界にございます」
これまでじっと沈黙を守っていた筆頭家老が、訴え出た。畳に額を擦りつけての懇願であった。
「これ以上意地を張れば、兵も民も食えなくなりまする。どうか、甲府の使者を……城下の客館に滞在しておられる上杉景虎殿をお呼び戻しくだされ。このままでは、冬を越せませぬ」
筆頭家老の言葉を合図にしたかのように、並み居る重臣たち、そして国人衆の代表までもが一斉に平伏し、「どうか」「ご決断を」と口々に懇願の声を上げた。
広間の中央には、あの白木の木箱が置かれたままである。箱の蓋には、薄く埃が積もっていた。運び込まれた日から、誰も触れていない。触れれば、何かを決めてしまう。決めたくない者たちが、箱から目を逸らし、それでも存在だけは忘れられなかった。
だが、盛氏は拳を解かなかった。
「……黙れッ!!」
盛氏の一喝が、評定の間に響き渡った。家臣たちが身をすくめ、懇願の声を止める。
「蘆名の誇りを、ただの紙切れに売り渡すというのか! 貴様ら、それでも武士か!」
家臣の誰も、顔を上げない。上げられない。
「蘆名は、何代続いたと思う。祖父も父も守った国だ。わしは、売らぬ」
「……まだだ。まだ耐えよ」
盛氏は荒い息を吐きながら、家臣たちを睨みつけた。
「冬を越せ。それまで耐えよ。これが、真の戦ぞ!」
家臣たちは、誰一人として応えなかった。
返事をしようとした者もいた。口が動いた。だが、声にならなかった。隣の男の袖を握りしめる者もいた。畳を見つめるしかなかった。
筆頭家老が、額を畳につけたまま、掠れた声で言った。
「殿……我らは、すでに耐えております。関所を守り、国境を固め、兵糧を送り続けました。耐えた末に、ここまで来ました。もう、耐える先がございませぬ」
盛氏は、家老の背中を見つめた。言葉が出ない。
国人衆の代表も、顔を上げなかった。
「村が、持たぬのです。兵が、持たぬのです。このままでは、関を守る人間すら居なくなりまする」
商人も、頭を上げない。声が、畳に吸い込まれていく。
「市が死にました。荷が止まりました。銭があっても、買う物がございませぬ。戻る道が、ございませぬ」
誰も、盛氏の「耐えよ」に従えない。従いたい者も、従える体がない。従えば、明日の飯がなくなる。それだけが、広間を支配していた。
「ははっ」という力強い返事はおろか、溜息すら漏らす気力も残っていなかった。誰かの膝が、微かに震えている。
盛氏の言葉は、誰の心にも届かず、ただ空虚に床へ落ちていくばかりであった。
昔なら、一声で皆が立ち上がった。刀を取り、馬に跨がり、国境へ向かった。今は、誰も動かない。動けない。
広間に残ったのは、木枯らしが障子を叩く音だけだった。
その日の午後。
盛氏は、黒川城内で最も高い櫓の上に立ち、冷たい木枯らしに白髪を吹かれながら、眼下の城下町を見下ろしていた。
かつては、秋の収穫を終えた米俵が山のように積まれ、商人たちの声と、民の笑い声で溢れ返っていた城下町。祭りの笛が聞こえ、夜になれば灯が連なった。
だが、今の盛氏の目に映るそれは、人気の消えた町であった。
問屋の戸は固く閉ざされている。軒下に、荷を積むための台がそのまま残っている。大路を横切る者は、時折、急ぎ足で過ぎる影だけだった。
そして、盛氏の視界の端に、信じられない光景が飛び込んできた。
西へ向かう街道。越後へと続くその道に、黒い点のような人々の列が、延々と連なっている。
街道の土が踏み固められていた。荷車の轍ではない。人の足跡だった。足跡の深さはまちまちで、子供の小さなものも混じっている。
列のそばを見ると、空になった農家の戸が開いたままになっている。門が外れた家もある。戸口に、誰かが脱ぎ捨てた草履が残っている。庭先に、犬だけが残っている。犬は、列を見送るように立ち、鳴かない。
畑の畦に、収穫の途中で置かれた鎌が刺さったままだ。束ねかけの稲が、そのまま倒れている。誰も、取りに戻らない。井戸の桶が、縁に掛けられたまま揺れている。
子供を背に負った女が、足を引きずって歩いている。途中で座り込み、膝を抱えてから、また立ち上がる者がいる。鍬を担いでいた農民が、道端にそれを捨て、空の手で先へ進む。隣を歩く男が、何も言わずにその鍬をまたぎ、先へ行く。
牛を引く老人が、何度も振り返る。家の方角を見ている。煙の立たない屋根が、遠くに霞んでいる。牛の歩みが遅く、列がそこで少し滞る。それでも、誰も止まらない。老人は、最後にもう一度振り返り、前を向いた。
誰一人として、声を上げない。列は途切れず、西へ続いていく。風が、捨てられた筵を路傍でめくる。
街道脇に、壊れた鍬が捨ててある。畦道に、藁沓が転がっている。
「……止めよ」
盛氏は、欄干を握りしめながら呻いた。
「誰かおらぬか! 兵を出して、あの者どもを止めよ! 国境を封鎖し、一人たりとも逃がすな!」
だが、背後に控えていた近習は、首を振った。
「殿……無理にございます」
「なぜだ! 我が命が聞けぬか!」
「握り飯一つ、用意できませぬ」
盛氏は、絶句した。命令が、空を切った。かつて一度も空を切ったことのない命令が。
欄干を握る手に力を込めすぎたあまり、爪が木に食い込み、指先から血が滲んでいることにも気づかなかった。
「……来春の田起こしは、誰がやる」
誰に言うでもなく、呟いた。
答えが出ない。風だけが、耳を過ぎる。
若い頃、春先に田へ下りたことがある。畦を直し、用水を通した。苗代の水が朝日を映していた。若い者たちが声を掛け合い、牛が泥を蹴った。水の音がして、土の匂いがした。泥が足の甲に跳ね、誰かが笑った。人がいた。牛がいた。声があった。あの景色が、会津だった。城の石垣より、槍の穂先より、あの田の景色の方が、国そのものに見えた。
今は、いない。
空になった田が、眼下に広がっている。畦は崩れ始め、用水は淀んでいる。草が、既に水面を覆い始めている。春が来ても、種を蒔く者がいない。牛を駆る者がいない。声を掛ける者がいない。泥を蹴る音も、水を通す音も、聞こえない。
春が来ても、あの景色は戻らない気がした。
答えは、返ってこなかった。眼下の街道を、列がまだ動いていた。終わりが見えない。風が、白髪を額に押しつける。盛氏は、それを払いもせず、列を見続けていた。
その夜。
黒川城の奥書院は、身を切るような寒さに包まれていた。
火鉢にはわずかな灰が赤く燻っているだけである。盛氏は、何枚もの夜着を重ね着して、暗闇の中で独りじっと座り込んでいた。
膝の上には、幾多の戦場を共に駆け抜けてきた愛刀が置かれている。握れば、まだ重い。
風の音が、障子を揺らす。
夜更けになっても、味噌を煮る匂いもしない。
夜番の声もしない。
ただ、風だけが、冷たく流れていく。
やがて、障子の外で足音がした。
「殿……津川より、急ぎの報告にございます」
近習の声が、低く響く。
「一昨日は二十人。昨日は二十五人。そして本日――また、四十人が持ち場を離れました」
それだけを伝えて、足音は遠ざかった。廊下の木が、二度、軋んだ。足音は、階段を下りるまで途切れなかった。
盛氏は、動かなかった。数字が、耳の奥に残る。二十。二十五。四十。増えている。止まる気配がない。
盛氏は、膝の上の愛刀を見下ろす。柄に触れた指が、一度、力を込める。それから、ゆっくりと、力を抜く。
もう、振る場所がない。止める兵も、守る米もない。振る相手も、守るべき行列も、もうここにはない。
刀を、傍らの床へと置いた。指が、鞘から離れる。手が、空になった。
コトリ、と鞘が畳に触れる小さな音。音は短く、部屋の隅で消えた。
障子が開き、朝の冷気をまとって近習が部屋に入ってきた。
「殿……朝のご挨拶に……」
近習は途中で言葉を止めた。
二の句が継げなかった。
「……客館へ参れ」
盛氏の声には、怒りも、屈辱の響きもなかった。不思議なほど澄み切った、穏やかな声だった。
「甲府の大取次殿を……上杉景虎殿を、ただちにこの城へお招きしろ」
近習は一瞬呆然としたが、その言葉の意味を理解すると、深く平伏した。
「はっ」
近習は、転がるようにして部屋を出て行った。廊下を走る足音が、遠ざかっていく。
盛氏は静かに立ち上がり、障子を大きく開け放った。膝が、一瞬、硬直する。それでも、体は起こした。
冷たい初冬の風が吹き込み、盛氏の白髪を乱す。襟元に、霜を含んだ空気が触れる。
眼下に広がる会津盆地は、まだ薄暗い朝霧に包まれていた。田の畦も、用水も、霧の中に沈んでいる。
西の街道が、霧の切れ間に、薄く見えた。足跡の列は、もうそこにない。朝のうちに、さらに先へ進んだのだろう。土の色だけが、踏み固められたまま残っている。
見えない。だが、確かにある。越後へ続く道。その先に、景虎がいる。その先を、見たくはなかった。呼ばねばならぬ相手の名が、胸の奥で重かった。
盛氏は、朝霧の向こうを見ていた。風が、白髪を一つ、額から剥がした。それを、払いもせず、ただ立っていた。朝霧が、ゆっくりと街道の方へ流れていく。




