第百七十七話:民飢問答
第百七十七話:民飢問答
会津盆地を包み込む空は、重く垂れ込めた鉛色の冬雲に覆われていた。
肌を刺すような冷たい北風が、奥羽の山々から吹き下ろし、黒川城の城下町に吹き付けている。本来ならば、朝餉の支度のための炊煙が家々の屋根から立ち昇る時刻である。だが、景虎の目に映る会津の城下は、ひどく静かだった。
景虎は、護衛の忍びを数名だけ連れ、客館から黒川城へと続く坂道を歩いていた。
大路に面した問屋や商家は、雨戸を下ろしている。通りには、痩せた野犬が寒さに丸まっているばかりだ。板戸の隙間から、落ち窪んだ目が、景虎の直垂をじっと見ている。
声はない。怒りもない。ただ、腹を空かせた目だけがある。野犬が一匹、起き上がろうとして、またうずくまった。
城門をくぐると、番兵たちの視線が虚ろだった。数日前に感じた殺気は、もうない。槍の柄を握る手が小刻みに震え、顔は土気色をしている。昨日から、まともな飯を食っていないのだろう。兜の紐が緩んだままの者もいる。誰も、直そうとしない。門の内側に、踏み固められた雪が、誰の足跡も新しく残していない。
先導する家老の後を追い、静かな廊下を進む。廊下の板が、足音を吸うように暗い。柱の割れ目に、埃が溜まっている。評定の間の襖が、音もなく左右に引き開けられた。
広間の中央には、あの日景虎が残していった白木の木箱が、同じ場所に置かれたままである。蓋の上に、薄い埃が積もっている。埃の上に、指の跡はない。誰も触れていない。
上座に、蘆名盛氏が座していた。
わずか数日のあいだに、肩が丸くなり、髪が乱れ、瞳から野心の光が消えている。両脇の重臣たちは、深く首を垂れ、一言も発しない。筆頭家老の額に、畳の目の跡が残っている。何度も額をつけたのだろう。畳の目が、額の皮膚に薄く浮かんでいる。
景虎は、盛氏の数歩手前で着座した。広間には、庭の枯れ木を揺らす風の音だけが響いている。白木の木箱が、両者のあいだに、黙って置かれている。箱の木目が、朝の光を受けて淡く見える。
帳面は出さない。手形も出さない。膝の上に両手を置き、老将を見据えた。
「……甲府の大取次殿」
沈黙を破ったのは、盛氏の掠れた声だった。
「よくぞ、参られた。……我が蘆名家は……」
「返答を承りに参りました」
景虎の声が、盛氏の言葉を遮った。静かで、澄んでいる。
盛氏の肩が、わずかに震える。
「殿は、あと何日、耐えられますか」
盛氏の眉が、動いた。
「……わしは、耐えられる」
声に、まだ意地が残っている。
「冬を越せば、機は巡る。伊達が動くやもしれぬ。佐竹が目を覚ますやもしれぬ。わしは、耐える」
景虎は、うなずかない。否定もしない。ただ、次の言葉を置いた。
「では、民は、あと何日持ちますか」
盛氏の唇が、閉じた。
広間のどこかで、息を呑む音がした。国人衆の代表が、顔を手で覆った。算用役の男が、肩を震わせている。指が、膝の上で絡み合っている。
誰も、答えない。盛氏も、すぐには答えられない。
「城の兵糧は、残り二割を切っております。関所の兵へ送る米が、毎日消えていく。街道では、民が西へ逃げています」
景虎の声は、淡々としていた。責め立てる調子はない。事実だけが、畳の上に置かれていく。
「あと何日で、村が持たぬか。……それをお聞きしに参ったのです」
盛氏の手が、畳の縁を掴む。指先が白く変色し、かすかに震えている。爪の間に、古い墨の跡が残っている。
長い沈黙が、落ちた。庭の風が、一度強くなり、また弱くなる。枯れ葉が、縁側に当たって乾いた音を立てた。
「……民は、飢えても生きる」
盛氏の声が、低く落ちた。自分に言い聞かせるような声だった。
「飢饉は、昔からあった。凶作の年もあった。民は、耐えてきた。わしらも、耐えてきた。それが戦国だ」
家臣の誰かが、顔を上げかけ、また伏せた。言葉に、力が入りきっていない。
「城が残れば、国は残る。家が残れば、また立ち上がれる。民は減ろうとも、また耕す者は現れる。だが、家を失えば、国そのものが消える」
沈黙が、続く。
景虎は、何も言わない。盛氏の言葉が、床に落ち、そこで止まっている。
「……わしだけが、悪いのか」
盛氏が、顔を上げた。目に、怒りの残り火がある。
「関所を押さえ、国境を固める。それが戦国の理であったはずだ。わしは、その理に従って動いただけだ。伊達もやる。佐竹もやる。誰もが、そうしてきた。それが戦国だ」
声が、広間に響く。
「武田は兵を出さぬと言いながら、商人を兵に変えたではないか。それでも、わしだけが間違っていたと言うのか」
最後の意地だった。最後の抵抗だった。
景虎は、答えなかった。正しいとも、間違いとも、言わない。広間に、風の音だけが残る。
盛氏の声が、続く。
「武士の誇りは、どうなる。家は、どうなる。祖父も父も守ったこの家を、紙切れ一つで差し出せと言うのか」
家臣の誰かが、小さく息を呑んだ。筆頭家老の肩が、一度、揺れた。国人衆の代表の喉が、鳴った。
景虎は、なおも黙っている。反論しない。肯定もしない。ただ、坐したまま、盛氏を見ている。
沈黙が、長い。
庭の枯れ枝が、風に鳴る。誰も、継がない。盛氏の言葉が、床に落ち、そこで止まっている。障子の紙が、一度、小さく震えた。
盛氏の肩が、一度、大きく上下した。怒りの残り火が、音を立てずに消えていく。
「……民は、もう持たぬ」
掠れた声だった。自己断罪ではない。ただ、事実を認めた声だった。
「城下では、子供が椀を舐めている。兵は持ち場を離れた。わしが耐えられても、民が持たぬ。……それだけは、確かだ」
家臣の一人が、顔を手で覆った。誰も、盛氏の言葉を否定しない。否定できない。広間の空気が、重く沈んでいる。
景虎は、目を伏せた。自分の越後も、語らない。質問の答えが、そこに落ちただけだった。
盛氏の視線が、脇に置かれた愛刀へ落ちる。指が、柄に触れた。それから、離れた。
太刀が、畳の上に置かれる。小さな音がした。
広間に、また沈黙が落ちる。風だけが、縁側を過ぎていく。
景虎は、懐から勝頼の朱印が押された書状と、白木の木札を取り出した。
「甲府からの下命をお伝えする」
広間の空気が、張り詰める。
「蘆名家の家名は、これを残す。領地も奪わぬ。黒川城も、そのまま使われるがよい」
盛氏の目が、見開かれる。家臣たちの肩が、わずかに動いた。誰かが、小さく息を呑む。
「……真か。当家を、取り潰さぬと……。領地も、城も、残すと……」
「ええ。ただし」
景虎の目が、細められる。
「他国への武力侵攻、ならびに境界を巡る私戦の一切を、禁ずる」
それが、唯一の条件だった。家名は残る。領地は残る。城は残る。だが、私戦だけは許されない。
筆頭家老が、顔を上げかけて、また伏せた。国人衆の代表の喉が、鳴った。理解しきれない条件だった。領地を奪われぬ取り決めなど、誰も知らなかった。
「蘆名盛氏殿には、これまで通り会津を治めていただく。領地も城も、そのままである。ただし私戦は禁ずる。商流を保ち、東国の理の内で国を預かる。——名など、何でもよい。……承知していただけますな」
盛氏は、深々と頭を下げた。
「……謹んで、甲府の御下命をお受けいたしまする」
景虎は、白木の木箱を開けた。埃が、わずかに舞い上がる。中から、私戦放棄と商流への参加を記した誓紙を取り出し、広げる。矢立の筆に墨を含ませ、盛氏の眼前に差し出した。
「では、花押を」
盛氏は、震える手で筆を受け取った。筆の軸が、指の間で滑りそうになる。筆先が、紙の上で一度、止まった。
戦場で敵の首を取った手で、今は誓紙に花押を据える。
和紙の上に「蘆名盛氏」と記し、その脇に、一画ずつ力を込めて花押を据えた。筆先が、最後の一画でわずかに震えた。墨の線が、紙に染みる。
家臣たちは、誰も顔を上げない。上げられない。
儀式は、血を一滴も流さず、墨と紙の音だけが響く中で終わった。
誓紙が交わされてから、その日のうちに、阿賀野川の関所ならびに会津へ通じる街道で、「蘆名家の関所撤廃」と「武田手形の流通許可」の布告が出された。
国境の向こうでは、数日前から商隊が待機していた。会津の返答が届けば、すぐに動けるよう、荷はすでに組まれていたのである。
景虎は、黒川城の外れの丘に立ち、眼下の街道を見下ろしていた。
冬空の下、街道の彼方から土煙が上がり始めた。
初めは小さな点だったそれが、地鳴りのような音を伴って、盆地へと近づいてくる。
先頭は、武田の菱紋を染め抜いた幟を掲げた商人たちの隊列だった。
それに続くのは、荷車の列である。数十台。先遣の商隊だ。車輪が土を抉り、牛馬が嘶く。その後ろに、次の便が続く気配がある。
城下の問屋に荷車が着く。
蔵に残っていた青苧が、荷台から下ろされ、手形と引き換えに買い取られていく。腐りかけた束も、まだ使える束も、次々と秤にかけられる。商人の声が、問屋の軒下に響く。数字が飛ぶ。札が渡る。動かなかった青苧が、また動き始める。
空だった米蔵にも、俵が運び込まれていく。塩の袋が下ろされる。だが、景虎の目に強く残ったのは、青苧の束が蔵から出ていく光景だった。会津の血だったものが、再び流れ始めている。
家の中に隠れていた民が、戸の隙間から覗いている。大路へ出てきた者もいるが、多くは遠巻きに見ているだけだった。信用しきれない。それでも、荷が動くのを、黙って見つめている。
蘆名の家臣たちが、荷から降ろされる兵糧を前に、立ち尽くしている。番兵の一人が、槍を杖にしたまま、動かない。
丘の上で、景虎は、何も言わなかった。
槍も刀も持たない列が、この国に入り込んでいく。風が、耳元を過ぎる。景虎の口は、開かなかった。
懐から帳面を取り出す。
矢立の筆を引き抜き、朱墨を含ませる。
『会津・蘆名』の項目の横に、今日動いた米の量と、新たに発行された手形の額を、朱で書き込む。青苧の取引量も、一行、加える。
かつて黒墨で書かれていた数字は、敵の息の根を止めるための標的だった。
今、朱筆で書き換えられた数字は、甲府と越後と並んで、帳面の一列に加わった。
帳面を閉じる。朱の線が、まだ乾ききっていない。
景虎は、その朱を見ていた。
遠くで、何かが聞こえた。
炊煙の匂いではなかった。まだ薄い。だが、鍋を置くような音が、城下のどこかから、風に乗って届いた。子供の声ではない。大人の、低く短い声だ。飯の支度を始めた者がいるのかもしれない。
景虎は、その音のする方を見た。
領地は残った。城も残った。それなのに、何かが変わった。
冷たい風が、会津盆地を越えて北へ、南へ流れていく。
景虎は、ただその風を受けながら、丘の上に立っていた。




