第百七十五話:商流断絶
第百七十五話:商流断絶
会津盆地を吹き抜ける風が、日を追うごとに冷たさを増していた。
朝夕の空気は肌を刺すようになり、稲穂を揺らす風音も、どこか乾いて聞こえる。黒川城の屋根瓦の上を、秋の雲がゆっくりと流れていく。
上杉景虎が黒川城の評定の間を辞し、城下の客館へと退いてから、すでに数日の時が流れていた。
広間の中央には、あの日景虎が残していった白木の木箱が、置かれたままである。
蘆名盛氏をはじめ、重臣の誰一人として、その箱に触れようとはしなかった。武田の印が押された手形と、帳面が納められた箱は、指先で触れれば、何かを決定してしまう忌まわしいもののように見えた。
数日の間に、白木の上にはうっすらと秋の埃が積もり始めていた。
盛氏は上座に座り、ただ無言でその木箱を睨みつけていた。
「庭へ投げ捨てよ」と命じることすらできない。箱を燃やせば、それは武田に対する明確な宣戦布告となる。だが、それをしたところで、もはや攻め込む余力など、今の会津にはない。敵は一兵も差し向けてきていない。攻める的すら与えられていない。
盛氏は己の内に渦巻く苛立ちを周囲に悟られぬよう、ゆっくりと立ち上がった。帯刀の柄に触れた手が、わずかに冷たかった。
「……蔵へ行く」
重く沈んだ声に、控えていた近習たちが後を追う。廊下を歩く足音が、いつになく長く響いた。
黒川城の裏手には、蘆名家が代々誇る巨大な土蔵群が建ち並んでいた。厚い白壁の土蔵が幾棟も連なる様は、蘆名の財力の象徴であった。壁の白さは、秋の陽を反射してまぶしいほどだ。
その中でも最も大きく、堅牢な造りの土蔵の前に立つ。近習の一人が進み出て、厳重な錠前を外した。鍵の音が、静かな空気に乾いた響きを立てる。家臣二人がかりで、重厚な観音開きの扉を両側へ引き開ける。
薄暗い蔵の天井まで、うず高く積み上げられているのは、会津の豊かな盆地が育んだ青苧の束であった。束の間に、わずかな隙間があるだけだ。
去年なら、半月もすれば空になった蔵である。上方の商人たちが荷車を連ね、積み込みを待つ者たちの声で賑わっていた。荷札を争うように書き、夜遅くまで勘定が続いた。蔵番が息つく暇もないほどだった。
だが今年は、誰も取りに来ない。
青苧の束は、ただ静かに積まれたままである。荷札の一つも動かず、軒下には蜘蛛の巣が張り始めている。埃が、束の表面に薄く積もっている。風が蔵の隙間から入り込み、乾いた草の匂いをわずかに運んでくるだけだ。
盛氏は無言のまま土間を歩き、積み上げられた束の一つに手を伸ばした。
触れる。繊維はまだしっかりしている。弾力もある。だが、それが売り物にならないことだけが、確かな現実だった。
若い頃、この蔵が空になるたびに冬支度の算段を立てた。青苧が売れれば馬が買えた。槍が買えた。城を修繕できた。家臣に褒美も与えられた。空になることが、富の循環だった。
今は、動かない。
「……去年は」
盛氏は、低く呟いた。
「この蔵の前に上方商人の荷車が列をなし、荷札が足りなくなり、問屋の者たちが城まで泣きついてきたほどであった」
背後に控える勘定方の家臣が、深く頷いた。顔が、薄暗い光の中で沈んで見える。
「はっ……。あの頃の活気は、もはや夢幻のようでございます」
だが、今はどうだ。
蔵の前には荷車の一台もなく、人っ子一人いない。富の源泉であった青苧が、ただの動かない山へと変わってしまった。盛氏は、しばらくその山を見つめていた。それから、ゆっくりと踵を返した。
重い足取りで評定の間に戻った盛氏を待っていたのは、さらに厳しい報告の連続であった。
勘定方が、畳の上に幾通もの書状を広げた。紙の端が、わずかにめくれている。
「……堺の商人衆や、越前の商人どもへの接触はどうなっている」
盛氏の低く震える声に、勘定方は額の汗を拭いながら答えた。
「あらゆる手立てを講じております。関銭を一時的に免除し、青苧の買い取り値を平年より下げて提示しても、彼らは首を縦に振りませぬ。門前払いする問屋すら出始めております」
「申せ。奴らの言い分は何だ」
「『甲府を通さぬ荷は、買い手が付きませぬ』と。武田手形の通らぬ品は扱いづらい、とのことにございます」
盛氏の奥歯を噛み締める音が、静まり返った広間に響いた。扇子を握る手に、力がこもる。
蘆名家が代々蓄えてきた金銀も、上方の商人たちは受け取ろうとしない。
「津川の関は、どうなっておる。あれから何日も経つというのに、まさか一人の行商人も通らぬわけではあるまい」
「……誰も、通りませぬ」
勘定方の声が、沈んでいた。目を伏せたまま、答えを続ける。
「阿賀野川の水運は干上がっております。ですが、関所を維持するために国境に置いた兵たちには、毎日飯を食わせねばなりませぬ。一文の関銭も入らぬまま、城の米蔵から運び出される兵糧だけが、消えていく有様にございます」
勘定方は、野帳を開き、数字を並べた。
「春の時点では、城内の備蓄米は半年分を超えておりました。今は、二月分を切っております。青苧が売れぬ以上、上方から新たな米を買う銭もありませぬ。商人たちから借り入れている借財の利息も、膨らんでおります。……入る銭より、出る銭が多い状態にございます」
盛氏は、扇子を握りしめたまま、沈黙した。広間の空気が、重く沈む。
関所を押さえたはずだった。水運の喉首を握ったはずだった。
だが、銭は入らない。兵糧だけが出ていく。
引くことも、進むこともできない。
関所を放棄して兵を引けば、これまで費やした金子も兵糧も無駄になり、弱腰を見せた蘆名に対して周辺の国人衆は一斉に牙を剥くだろう。だが、維持し続ければ、内側から干上がる。
盛氏は、目を閉じた。
盛氏が深い苦悩に沈んでいると、広間の外から騒々しい声が響いてきた。
「お通しくだされ! 御屋形様に直接申し上げたき儀がござる!」
小姓たちが制止するのも聞かず、縁側に上がり込んできたのは、阿賀野川沿いの国人衆からの使者であった。
通された使者の身なりは埃に塗れ、草鞋は泥にまみれている。その目は、何日もまともな飯を食っていないかのように窪み、血走っていた。かつての従順さは微塵もない。息が、荒い。
「御屋形様! お約束が違いまするぞ!」
使者は挨拶もそこそこに、床を叩いて声を荒げた。
「調略の折りの追加の金子が、いまだ一向に届きませぬ! その上、阿賀野川の商いが止まったことで、我らの家中は冬を越せませぬ。いつになれば、関銭の分け前を下さるおつもりか!」
無礼な態度に、盛氏は怒りで顔を赤く染め、扇子を畳に叩きつけた。扇子の骨が、乾いた音を立てる。
「控えおろう! この蘆名に向かって、下郎が金子の催促か! 関所を守り、国境を固めるのが貴様らの役目であろうが!」
「腹が減っては、関も守れませぬ」
使者は盛氏の怒号にも一歩も引かず、血走った目で睨み返した。声が掠れている。
「銭が来ぬなら、我らにも考えがございます。このまま座して飢えるくらいならば、兵を引いて関所を捨てるまで。……あるいは、別の主に鞍替えすることも辞さぬ覚悟にございますぞ!」
使者は続けた。
「すでに、村から逃げ出す百姓が出ております。馬を売った家もございます。鎧を質に入れた者もおります。このままでは、関を守る人間すら居なくなりまする!」
「貴様ッ!」
盛氏の傍らに控えていた家臣たちが、一斉に立ち上がり、太刀の柄に手をかけた。床が、わずかに軋む。使者は一瞬怯んだものの、その目に宿る敵意と絶望は消えなかった。
斬るのは容易い。この不敬な男の首を刎ね、逆らう村ごと焼き払う武力は、蘆名には十分にある。
だが、斬ってどうなる。
彼らを斬れば、越後国境の守りは崩れ、奪った関所は維持できなくなる。さらには、他の国人衆までが一斉に離反し、会津は乱れるだろう。
「……刀を収めよ」
盛氏は低く命じ、家臣たちを制した。
「……下がれ。金子は追って遣わす。早まるな」
使者は舌打ちをすると、頭を下げることもなく踵を返し、荒々しい足取りで去っていった。足音が、廊下に長く残る。
襖が閉まった後、控えていた勘定方の家臣が、低く囁いた。
「今月の兵糧すら、もはや賄えませぬ」
盛氏は己の膝を強く握りしめた。関節が白く変色するほど力を込めても、心の内の震えは止まらなかった。
すでに、津川の番所では三十人が持ち場を離れたという報告も上がっていた。数字が、野帳の端に小さく記されている。
その日の夜。
黒川城の奥書院には、灯明が一つだけひっそりと灯されていた。炎が、小さく揺れる。壁に長い影を落とす。
盛氏は独り、胡座をかいたまま、座した。膝の上に置いた手が、動かない。
あの箱の中の手形を受け取れば、商人どもが戻るのかもしれぬ。
だが、分からぬ。
それが何を意味するのかまでは、盛氏にも分からなかった。
武力で負けるならば、まだ分かる。
だが、これは何だ。
灯明の炎が、一瞬、揺れた。
「……まだだ」
盛氏は、暗闇に向かって低く呟いた。
「まだ、蘆名は倒れぬ」
だが、その声は虚しく夜の空気を震わせただけだった。
解決策などどこにもない。それでも、数十年にわたり会津の民を背負い、武将として生き抜いてきた盛氏の意地が、ここで膝を折ることを許さなかった。肩の力が、わずかに落ちる。
城の眼下に広がる会津盆地に、秋の冷たい夜霧が音もなく降り下りていく。霧が、田畑の輪郭を溶かし、遠くの山々を淡く隠していく。城下の灯も、点々と小さく見えるだけだ。
城下から聞こえていた荷車の音は、もう何日も聞いていなかった。夜更けになっても、川舟の灯は一つも見えなかった。




