第百七十四話:蘆名一喝
第百七十四話:蘆名一喝
会津盆地を吹き抜ける風が、にわかに冷たさを増していた。
黒川城の眼下に広がる豊かな田園は秋の収穫期を迎え、本来ならば一年で最も活気に満ちる時期である。稲穂が風に揺れ、刈り入れを待つ百姓の姿が点々と見える。しかし、蘆名家の本拠たるこの城の内に限っては、重く湿った沈鬱な空気が垂れ込めていた。廊下を歩く侍の足音さえも、どこか控えめに響く。
阿賀野川水系の関所を奪い、水運の喉首を握ったはずだった。
だが、待てど暮らせど商人は来ない。関銭は一文も落ちず、上方からの鉄砲も、鍛冶場への銭も滞り始めている。奪った関所を維持するための兵糧ばかりが、蔵から音を立てて消えていく。青苧の出荷も滞り、城内の銭回りが日に日に悪くなっていた。夜ごと勘定方が帳面を広げ、数字を確かめては顔を曇らせる。
なぜ誰も来ない。
なぜ銭が減る。
なぜ佐竹は動かぬ。
その答えを、盛氏はまだ掴みきれていなかった。ただ、何かがおかしいことだけは、肌で感じていた。奥書院の障子を揺らす風さえ、いつもより冷たく感じられた。
「……甲府から、使者が参っただと」
奥書院で報告を受けた盛氏は、深く刻まれた眉間の皺をさらに険しくした。
ついに武田が動いたか。だが、軍勢を率いて国境へ攻め寄せてきたという報告ではない。使節団だという。
「いかほどの兵を連れておる」
「はっ。それが……槍を持った兵は一人もおりませぬ。数十台の荷車と、甲冑も着けぬ文官めいた者たちばかりにございます。荷車に積まれているのは、書状や帳面ばかりの様子」
盛氏は目を細めた。
舐められている。奥州の覇者たるこの蘆名を、武田勝頼は兵を差し向ける価値もない相手と見なしているのか。
「……して、使者の名は何と申す」
「それが……」
報告に上がった近習は、信じられないものを見たかのように声を震わせた。
「元・上杉家当主候補、上杉景虎と名乗っております」
盛氏の目が、大きく見開かれた。
上杉景虎。北条氏政の実弟であり、越後の政変で敗れ、甲府に身を寄せているはずの男。敗軍の将として、とうに誇りを失って朽ち果てているはずの男ではないか。
それが、なぜ武田の使者として会津に現れる。
「……通せ。評定の間に案内しろ」
盛氏は低い声で命じ、自らも重い腰を上げた。帯刀の柄に触れた指先が、わずかに冷たかった。
評定の間には、蘆名家の重臣たちがずらりと居並び、殺気立った視線を入城してくる使者へと向けていた。畳の目が、彼らの緊張で張り詰めているように見えた。
だが、静かに襖が開き、広間の中央へと進み出た上杉景虎の姿を見た瞬間、彼らの放っていた殺気は、得体の知れない戸惑いへと変わった。
景虎は、絹の直垂姿であった。腰には護身用の短刀が一振りあるのみ。
だが、その歩みには一切の隙がなく、背筋は冷たい氷の刃のように伸びきっている。かつて越後を二分した武将としての荒々しい覇気はない。代わりに、底知れぬ静謐さと、感情を排した冷徹さが、その身を包んでいた。広間の空気が、彼の足音一つでわずかに澄む。
景虎は盛氏の数歩手前で静かに座し、深くも浅くもない、正確な一礼をした。
「東国大取次、上杉景虎にござる。蘆名盛氏殿におかれましては、健勝の由、大慶に存ずる」
東国大取次。
聞き慣れぬ役職名に、盛氏は鼻で笑った。
「越後で居場所を失った男が、今は甲府の使者か。して、その大層な使者殿が、この会津へ何をしに来た。我らに向かって降伏の使者でも気取るつもりか」
盛氏の言葉には、意図的な侮蔑が込められていた。武将としての誇りを傷つけ、相手を感情的に揺さぶるための老獪な威圧である。重臣たちもそれに同調し、嘲笑を含んだ冷たい視線を景虎に浴びせた。誰かが膝を進める音が、微かに響いた。
景虎の眉が、ほんの一瞬だけ動いた。
胸の奥に、雪の中で閉じた蔵の門が、かすかによぎった。
だが、すぐに表情は元に戻った。
「使者として参った」
景虎の声は、秋の湧き水のように澄み、そして冷たかった。
その言葉に、盛氏の顔から嘲笑が消えた。
「……我らを、従わせる気か」
地鳴りのような声。蘆名の意地が、その一言に凝縮されていた。
「越後の混乱に付け込み、阿賀野川の関所を奪ったことへの咎めであろう。だがな、奪った関所はまだこちらの手にある!
会津の兵は一兵も欠けてはおらぬ! 武田がどれほど商いを取り仕切ろうと、この蘆名が容易く膝を屈すると思うな!」
一喝。
歴戦の猛将が放つ覇気が、評定の間の空気をビリビリと震わせた。障子がわずかに震える。
だが、景虎は瞬き一つしなかった。
ただ、かすかな憂いだけがその瞳をよぎった。
「違う」
景虎の短い一言が、盛氏の覇気をあっさりと切り裂いた。
「従わせるつもりならば、兵を連れて参ります。ですが、我々は槍一本、弓一張すら持たずに参った。兵ではなく、これを持ってきたのです」
景虎は、背後の従者に顎で合図をした。
従者が恭しく進み出て、盛氏の御前に一つの木箱を置いた。蓋が開けられる。中には、分厚い帳面が数冊と、武田の印が押された手形の束が、整然と納められていた。
一冊の表紙には、小さく「会津産青苧買上帳」と記されている。紙の匂いが、わずかに漂った。
「お預かりした物を、届けに参った」
盛氏は、木箱の中の手形を睨みつけた。
勝頼は何を企んでいる。
攻めもせず、脅しもせず、なぜ手形など持って来る。木箱の蓋の影が、畳の上に長く伸びていた。
勘定方の一人が、目を伏せた。
盛氏もまた、何も言わなかった。広間の空気が、さらに重く沈む。
「私も、そう思っていた」
景虎は、それだけを言った。
盛氏の背筋を、冷たいものが走った。
だが、老将はすぐにそれを振り払った。
「……口の減らぬ男よ」
盛氏の声が、低く、しかし力強く響いた。
「商いで国は守れぬ。飢えた時に民を守るのは兵だ。関所を捨てろと言うなら……国境も捨てろと言うに等しい。武士から戦を取れば、何が残る。誇りか。名か。それとも、ただの札か!」
最後の一語で、声が怒りに変じた。
評定の間が、一瞬、完全な沈黙に沈んだ。
重臣たちも、息を殺して主君の言葉を聞いていた。誰かの喉が、小さく鳴った。
景虎は、すぐに反論しなかった。
一瞬だけ、視線を伏せた。
あの時、自分も同じ言葉を誰かにぶつけられた気がした。
「……今でも、完全に間違っているとは言い切れぬ」
それだけを言って、景虎は沈黙した。沈黙が、広間に長く残る。
盛氏は、黙って木箱を見下ろした。
一枚の手形を、ゆっくりと手に取った。紙の感触が、指先に冷たく触れる。
隣に控えていた勘定方の家臣が、その手形を見た瞬間、帳面へ視線を落としたまま動かなくなった。
喉が、小さく鳴った。
盛氏は手形を箱に戻し、顔を上げた。
「帰れ」
今度は怒号ではなかった。低く、重い、奥州の覇者としての一喝であった。声が、畳の目を震わせる。
「奪った関所は、まだ我が蘆名の手にある。会津の武士は、武田の算盤になど屈せぬ。二度とその面を見せるな」
景虎は、あえて反論しなかった。
怒りもせず、落胆もせず、ただ静かに盛氏を見つめ返した。
「……承知いたしました」
景虎は、手をつき、深く一礼した。
「数日、城下の客館にとどまります。……どうか、民が飢える前に、お考えくだされ」
景虎はそれだけを言い残すと、木箱をそのまま御前に残し、静かに立ち上がって評定の間を後にした。
襖が閉まる。
足音は、乱れることなく遠ざかっていった。廊下の木の軋む音だけが、長く残った。
静寂が戻った評定の間。
盛氏は、荒い息を吐きながら、畳の上に置かれた木箱を睨みつけていた。
追い返した。武士の矜持は守った。大名としての体面は保たれた。
夕陽が障子を赤く染め始め、木箱の縁に長い影を落としている。
だが、盛氏の膝の上に置かれた両手は、微かに、しかし止めることのできない震えを帯びていた。
商いで国は守れぬ。
兵が、民を守る。
そう信じてきた。
盛氏は、木箱から目を逸らさなかった。
誰も触れない。
しかし、誰も目を逸らせない。
障子の赤い光が、木箱の縁に落ちていた。




