第百七十三話:処遇評定
第百七十三話:処遇評定
甲府の盆地に、微かな秋の気配が混じり始めていた。
朝夕の風は肌を刺すような冷たさを増し、見上げる空はどこまでも高く澄み渡りつつある。城下の大路を行き交う荷車の列は、秋の収穫を見越した大商いによっていっそうの活気を呈していた。荷を引く牛馬の嘶き、米俵や塩俵を担ぐ人夫たちの汗の匂い、そして武田手形を懐に収めた商人たちが相場を競い合う威勢の良い掛け声。今や甲府の町全体が、算盤玉の音と、脈打つような経済の熱気にすっぽりと包み込まれていた。
だが、躑躅ヶ崎館の奥書院に隣接する広間――評定の間に限っては、外の喧騒が分厚い壁によって嘘のように断ち切られ、ひどく張り詰めた空気が満ちていた。
上座には、武田勝頼。
下座には、内藤をはじめとする実務に通じた者たちが居並んでいる。その末席に、役職を持たぬ小山田信茂の姿があった。病に伏す高坂昌信が、なおも彼をこの席へ送り込むのを、勝頼は黙って許している。
小山田は、高坂から「お前が言えばいい」とだけ言われてここにいる。古い理屈を口にすることに、彼自身はもうほとんど自信を持てていなかった。それでも、高坂が彼に託した役目だけは、果たさねばならなかった。
真田昌幸は涼しい顔で広間の中央に座し、手元の分厚い帳面を開いていた。
「……以上が、会津の現状にございます」
昌幸の平坦な声が、静寂の広間に響き渡る。
「蘆名盛氏は、越後の混乱に乗じ、阿賀野川水系の関所を強引に掠め取りました。当家の定めた商流から外された関所を通る商人は、もはや一人もおりませぬ。結果として蘆名は、一文の関銭も落ちぬ空箱のために兵を置き、自ら奪った関所の維持費によって、見事なまでに己の首を絞め上げております。このまま放っておけば、秋の収穫を待たずして会津の蔵の銭は完全に尽き、遠からず内側から自滅いたしましょう」
昌幸の報告が終わるや否や、小山田信茂が膝を一つ進めた。声は低かった。
「……ならば、好機ではありませぬか」
彼は一度言葉を切り、周囲の視線を掠めるように見渡してから続けた。
「蘆名は、我らが取り込んだ越後へ自ら牙を剥き、国境を侵した。敵対行為にございます。敵が自らの欲で自滅の淵にある今、精鋭を差し向け、黒川城を包囲すべきでは。……会津を潰せば、他国への見せしめにもなりましょう。蘆名を許せば、伊達が試すやもしれませぬ。武を見せねば、国はまとまらぬと思う者もおりまする。皆が陣代様のように算盤を理解しているわけではございませぬ」
それは、かつての戦国武将として正しい軍略であった。
敵の隙を突き、弱り切ったところを叩き潰す。それでこそ領土を広げることができる。同席していた者たちも、微かに頷いた。
だが、昌幸は表情一つ変えることなく、手にしていた帳面をパタリと閉じた。
「小山田殿。会津が潰れれば、どうなります」
「……何?」
「会津は奥州南北を結ぶ結節点にございます。喉首が潰れれば、食い詰めた百姓や浪人が溢れ、伊達も最上も佐竹も道連れになりましょう。当家が築いた東国の商流が、傷みまする」
「……ぐ」
小山田は言葉に詰まった。古い理屈を出してみたものの、昌幸の返す言葉に、彼はもう強く反発する力を持っていなかった。
昌幸は懐から一通の書状を取り出し、上座の勝頼へ向けて恭しく掲げた。
「取次として、越後国境の陣に到着しておられる上杉景虎殿からの早馬にございます」
昌幸が、書状の文面を読み上げる。
『放置すれば、会津は越後になります。どうか、処遇の許可を』
広間に、身を切るような重い沈黙が落ちた。
その時。
パチン。
上座から、算盤の玉を弾く乾いた音が響いた。
勝頼の前には帳面が三冊置かれていた。
越後の米価。
青苧の荷札。
阿賀野川流域の取引量。
どの帳面にも、蘆名家の名は記されていなかった。
記されているのは米価と荷札と取引量だけだった。
それまで一切の沈黙を保ち、手元の数字の羅列から目を離さなかった勝頼が、ゆっくりと顔を上げた。
その漆黒の双眸が広間を静かに見渡すと、小山田も、そして昌幸でさえも、水を打ったように静まり返った。
「討てば、終わる」
勝頼の声は、どこまでも平坦であった。
「だが、残せば奥州が残る」
勝頼は、己の傍らに置かれた東国の広大な絵図面を見下ろした。
「ならば、飲み込むしかあるまい。奪うためではない。落とさぬためにだ」
小山田が、微かに震える声で問うた。
「……陣代様。では、降した蘆名を、いかに処遇なされるおつもりで……。会津を没収し、直轄地となさるのでございまするか」
「家を残す」
勝頼は、間髪入れずに断言した。
「領地も奪わぬ。城もそのまま使わせる」
居並ぶ者たちの表情が、わずかに強張った。
越後で既にやったことだ。
家を残し、領を奪わず、組み込む。
誰もが、その結末を知っている。
だからこそ、今度も同じだと分かった瞬間に、言葉が出なかった。
「ただし、私戦だけは終わらせる」
勝頼の眼光が、剣呑に細められた。
「他国との境界争いも、武力行使も、これより一切を禁ずる」
その一言に、広間の空気がさらに沈んだ。
領地も残る。
城も残る。
家名も残る。
だが、私戦だけは許されない。
残されたものの中身が、根本から変えられる。
それが、勝頼の言う「組み込む」の中身であった。
誰もが、すでに知っている処遇の重みを、改めて思い知った。
昌幸が、深く頭を下げた。
「……御意にございます。直ちに、越後国境の景虎殿へ下命の飛脚を飛ばしまする」
評定は終わった。
小山田は、もはや何も言えなかった。高坂に言われて古い理屈を出してみたが、結局、何一つ変えられなかった。
高坂殿なら、何と言っただろう。
目の前で算盤を弾く若き当主の姿に、彼は得体の知れない重圧だけを感じて、深く平伏するしかなかった。
数日後。
阿賀野川のほとり、越後と会津を隔てる国境の陣。
上杉景虎は、甲府から夜を日に継いで駆けつけた飛脚から、一通の書状を受け取った。
武田の菱紋が押されたその封を切り、川面を撫でる冷たい秋風に煽られる文面に目を通す。
『家を残す。領を奪わぬ。組み込め』
勝頼の極端に短い、しかし絶対的な意志が込められた下命であった。
景虎は、書状を静かに折りたたみ、絹の直垂の懐に収めた。
足元では、阿賀野川の急流が岩を噛み、白く泡立てて流れている。川の対岸には、深い緑から徐々に色づき始めた会津の山々が連なっている。見渡す限り、陽光を反射する武具の光も、鬨の声を上げる軍勢の姿もない。ひどく静かな国境の風景だ。
だが、あの山の向こうで、会津の蔵は日に日に軽くなっているはずだ。
自分は、最初からそのために来た。
盛氏を組み込むために、この国境まで来ている。
評定の結果を待つまでもなく、勝頼の意図は最初から同じだった。
家を残し、領を奪わず、私戦だけを終わらせる。
越後で自分自身が受けたのと同じ処遇を、今度は自分が運ぶ側に回っている。
一年前なら、自分も盛氏と同じ選択をしただろう。
あの冬、自分もまた面子のために兵を動かそうとしていた。
あのままなら、越後も会津と同じだった。
勝頼は越後を奪わなかった。
生き残る道だけを残した。
今は違う。
景虎は、冷たい秋の風を正面から受けながら、最初の役目が待つ黒川城を目指して、静かに鹿毛の馬を歩ませた。
背後では、荷車の列がすでに車輪を軋ませていた。
槍も弓も持たぬ、帳面と武田手形だけを積んだ列だ。
革箱の中で、封印された手形の束が微かに音を立てる。
携えるのは、敵の命を奪う刃ではなく、生き残るためのただ一つの選択肢。
誇りを捨て、理に屈するか。
それとも、武士としての面子を抱いたまま、国ごと飢え死にするか。
荷車の車輪だけが、静かに回っていた。




