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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百七十二話:目算破綻

第百七十二話:目算破綻


 会津盆地に、初秋の風が吹き始めた。

 朝夕の空気は心地よい涼を帯び、黒川城の眼下に広がる広大な田園風景は、深い緑から徐々に黄金色へとその姿を変えつつある。秋の収穫期を迎えんとするこの豊かな大地こそが、蘆名家が代々血を流して守り抜いてきた至宝であった。


 蘆名家当主・盛氏は、奥書院の縁側にどっかりと腰を下ろし、通り抜ける秋風に白髪交じりの頭を撫でられながら、手元の白磁の杯を静かに傾けていた。


 杯に満たされた濁り酒が、喉の奥を熱く焼け焦がしながら胃の腑へと落ちていく。

 気分は悪くなかった。

 いや、ここ数ヶ月、常に己の首を絞め上げるように付きまとっていた重苦しい胸のつかえが、ようやく綺麗に下りたような、確かな安堵の中にいた。


 越後国境へ仕掛けた国人衆への調略は、見事に功を奏したのだ。

 阿賀野川水運の要衝である津川周辺の関所をはじめ、沼沢周辺の三箇所の関所を、蘆名軍は一兵の血も流すことなく手中に収めた。家督争いで疲弊しきっていた越後の隙を突き、百両もの黄金をばら撒くことで国境の喉首を完璧に押さえたのである。


 関所を物理的に押さえた以上、上方と越後、そして奥州を行き来する大商人たちは、必ずそこを通らざるを得ない。荷を積んだ船や車が通れば、否応なしに関銭が落ちる。そして何より、上方市場からの買い叩きに遭い、蔵で埃を被って滞っていた青苧の商流も、国境を掌握した蘆名の意のままに動かすことができるはずであった。


 秋の収穫を前にして、蔵の銭が枯渇し、兵や民を食わせられなくなるという最悪の事態は、この起死回生の一手によって見事に回避されたのだ。

 国境警固のために派兵した兵たちの兵糧代や、調略に用いた金子など、これから転がり込んでくる関銭の上がりに比べれば、ほんの微々たる投資に過ぎない。数日もすれば、勘定奉行が顔をほころばせ、木箱に山と積まれた銭の報告にやってくるはずであった。


「……やはり、戦国を生き抜くのは武家の力と、果断なる決断よ」

 盛氏は杯を空にし、満足げに太く長い息を吐き出した。

 越後の混乱に乗じた火事場泥棒だと、他国からいかに誹られようと構うものか。きれいごとでは国は保てぬ。泥に塗れ、悪名を被ってでも、国と民を守り抜き、家臣たちに飯を食わせる。それこそが、当主としての真の責務なのだ。

 奥州の覇者として君臨し続けてきた老将の顔には、揺るぎない確かな矜持が戻っていた。


 だが、その穏やかな安堵の時間は、突如として破られた。


 ドタドタドタッ、と。

 廊下を、慌ただしい足音が無遠慮に近づいてくる。武家の城において、しかも当主の居室の近くでこれほど乱れた足音を立てるなど、通常であれば許されざる狼藉である。

 足音のただならぬ気配に、盛氏は杯を置く手を止め、わずかに眉をひそめた。


 すっと襖が乱暴に開き、勘定奉行と数名の重臣たちが、まるで何かに追われているかのように転がり込んできた。彼らの顔は一様に血の気を失い、土気色に染まっていた。


「殿……っ、ご報告に、上がりました……!」

 勘定奉行の声が、肺の空気をすべて絞り出したかのように奇妙に裏返り、震えていた。そのまま畳に平伏し、激しく肩を上下させている。


「うむ。苦労であった」

 盛氏は彼らの異様な狼狽ぶりを、関銭の額が予想をはるかに上回ったことによる興奮だろうと鷹揚に解釈した。白磁の杯を盆に戻し、口の端を微かに上げる。

「して、いくら貯まった。この十日の上がりだ、数百両か。包み隠さず申してみよ」


 盛氏の余裕に満ちた問いかけに対し、勘定奉行は額を畳に強く擦りつけたまま、全身を小刻みに震わせ、沈黙した。

 異様なまでの間の悪さ。

 庭の木々を揺らしていた秋風が、ふと止んだ。

 やがて、勘定奉行は泣くような声を振り絞った。


「……一文も、入っておりませぬ」


 時が、止まったかのように思えた。

 盛氏は、膝の上に置いた己の手をじっと見つめた。己の耳が、老いによって言葉を聞き違えたのだと思った。

「……今、何と申した。一文も、だと?」


「はっ……。青苧を運ぶ船も、越後から入る行商人の群れも、誰一人として当家の関銭を納めておりませぬ。津川周辺の関所も、沼沢の関も、上がりは皆無。蔵は……空のままにございます」


 盛氏の眉間に、先ほどまでの余裕が消し飛び、深い亀裂のような皺が刻まれた。

 関所を押さえ、兵を置いているのだ。道を塞いでいるのだ。そこを通る者から関銭を取れぬ道理がどこにある。


「抜け道を使われているというのか。それとも、国境の警固に当たっている番頭どもが、我が目を盗んで私腹を肥やし、横領しておるのか。いずれにせよ、そのような愚かな……」

「違いまする!」

 勘定奉行が、悲鳴のような声を上げて盛氏の言葉を遮った。

「抜け道を使われているのでも、家臣の横領でもございませぬ! 誰も、通らないのです!」

「……何?」

「商人が、一人も……阿賀野川の関所を通りませぬ。荷車の一台、船の一隻、いや、背負子を背負ったただの行商人すら、当家が押さえたあの関所を通らないのでございます!」


 盛氏は、思わず床を蹴って身を乗り出した。

「誰も通らない、だと……? そんな馬鹿な話があるか!」

 怒声が奥書院に響き渡る。

 阿賀野川は、奥州と越後を結ぶ最大の動脈である。そこを通らずして、どうやって大量の荷を西へ運ぶというのだ。山を越えれば何日も余計に時が掛かり、輸送の費用だけで商人は赤字になる。商いの常識としてあり得ない。

「どういうことだ。商いそのものが、東国全体で止まっておるのか」

「いえ、それが……越後領内は、かつてないほどの凄まじい活気に満ちているとの報告にございます。ただ、彼らは当家が押さえた関所だけを、まるでそこに目に見えない壁でもあるかのように避けているのです」


 盛氏は眉をひそめた。

「なぜだ。商人を捕らえて、理由を聞け」


 勘定奉行の隣で、これまで黙って控えていた筆頭家老が、重々しく、ひどく疲労した声で口を開いた。

「……『武田手形』にございます、殿」

「手形?」

「はっ。今や東国の大商人たちは、上方衆も含め、皆一様にあの『武田手形』のみで商いを行っております。甲府の印が押された紙切れを持たぬ者は、まともな商いができぬ仕組みにされております。手形を持つ商人たちは、甲府が定めた流通の筋以外を通ることを、固く禁じられているのです」


 盛氏の脳裏に、氷の刃を突き立てられたような冷たい悪寒が走った。

 つまり、武田勝頼は、阿賀野川という古来からの道を捨て、手形という帳面の筋と連動した、全く別の流通路を独自に作り上げてしまったということか。


「当家が奪い取った津川の関は、武田の定めた商いの筋から完全に外された、ただの寂れた道になってしまったのでございます。甲府の庇護を持たぬ道など、野盗に襲われる危険もあり、商人は誰も通りませぬ。通らぬ以上……今後も一文たりとも期待できませぬ」


 盛氏の荒い呼吸が、静かな部屋に不気味に響いた。

 道というものは、土地に紐づく不動のものだと、盛氏は信じて生きてきた。

 土地を奪い、街道の首根っこを押さえ、柵を作れば、そこを流れる富は必然的に己の手に入る。それが何百年と続いてきた武士の常識であり、戦の根本であった。


 だが、今の商人たちは道を見ておらぬ。武田の帳面だけを見ておるのだ。

 帳面の筋から切り離された関所は、いくら物理的に堅固であろうと、ただの空き地に過ぎない。

 盛氏が火事場泥棒のようにして意気揚々と奪い取ったのは、中身の詰まった金庫などではなく、完全に空っぽになった、ただの無用な木箱だったのだ。


「馬鹿な……」

 盛氏の乾いた唇から、絞り出すような呟きが漏れる。

「では、我が方が国境に派遣した兵どもは、何をしているのだ」

「……誰も通らぬ無人の関所の前で、ただ徒らに槍を構え、毎日莫大な兵糧を食い潰しております。調略に用いた金子も、まったく回収の目処が立ちませぬ」


 赤字だ。

 血の出るような、一方的な赤字である。利益を得るどころか、空箱の関所を維持するための兵糧代が、毎日会津の蔵から飛ぶように消えていく。

 関所を放棄して兵を引けば、調略に使った金子もこれまでの兵糧もすべて無駄になり、他国の混乱につけ込んだという恥知らずな悪名だけが残る。周辺の国人衆は蘆名を見限り、権威は完全に失墜する。

 だが、このまま意地を張って維持し続ければ、一文の利益も生まない空箱のために、会津の国力そのものが内側から干上がっていく。


 退くこともできない。進むこともできない。

 盛氏は、自らが放った起死回生の一手によって、自らを巨大な袋小路に追い込んでしまったことを、遅まきながら悟った。


「……常陸の佐竹へ出した使者はどうなった」

 盛氏は、わずかに残された希望の糸に縋るような思いで問うた。

 常陸の佐竹義重。鬼義重の異名をとる猛将であり、反北条の急先鋒だ。彼に書状を送り、共に兵を挙げて越後国境や上野方面へ圧力をかければ、武田も東国の商流を戻さざるを得なくなるはずだ。


 だが、顔を上げた筆頭家老の顔は、完全な絶望に染まっていた。


「使者は、昨夜戻りました。義重殿からの返答は……『今は動けぬ』の、一点張りにございます」

「なに? なぜだ! あの血の気の多い鬼義重が、同盟の義を捨てて我らを見殺しにするというのか!」

「義重殿もまた、上方から鉄砲や硝石を大量に買い付けており、その決済の多くをすでに武田の商いに頼っております。ゆえに、今兵を動かせば商いが立ち行かなくなると、家中で危惧する声が上がっている由にて……」


 盛氏は、完全に言葉を失った。

 同盟国すら、武田の商いを手放せず、蘆名を見捨てたのだ。

 刀を交えたわけではない。矢の一本も射掛けられてはいない。国境を越えて敵兵が押し寄せてきたわけでもない。

 それなのに、奥州の覇者である自分が、手足を縛られ、物理的に一歩も軍を動かせなくなっている。


 盛氏は震える手で、自らの脇に置かれていた東国の絵図面を引き寄せた。

 阿賀野川の国境に、自らが力強く書き込んだ黒い丸。

 権益の象徴。富の源泉。蘆名の未来。

 そう信じて疑わなかったその黒い丸が、今は会津の血を際限なく吸い尽くす、口を開けた底なし沼のように見えた。


 関所は押さえた。

 道も押さえた。

 兵も置いた。

 なのに銭が落ちない。

 理屈が分からない。


 どこかに見落としがあるはずだった。

 このまま終わるはずがない。

 必ず、突破口があるはずだ。


 だが、その見落としが何なのか、誰にも分からなかった。


 夕暮れが迫っていた。

 縁側の外では、初秋の風がさらに冷たさを増して吹き抜けていく。

 誰も通らない虚ろな関所。減り続ける兵糧。孤立無援の同盟国。


 盛氏は、絵図面の上に両手をつき、深々と頭を垂れた。

 黒川城の奥深くに、刀で斬れぬ敵への焦燥が、冷たい夜の闇と共に音もなく降り積もっていった。

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