第百七十一話:活路妄執
第百七十一話:活路妄執
奥州に覇を唱える名門・蘆名家の本拠、黒川城。
夏の風が吹き抜ける会津盆地は、青々と広がる田と深い山の緑に抱かれ、豊かな実りを感じさせる威容を保っていた。城の眼下には、幾筋もの川が盆地を潤し、活気に満ちた城下町が広がっている。誰の目にも、蘆名家は盤石であり、奥州の要として揺るぎない力を持っているように見えた。
だが、その堅牢な城の奥深くに位置する評定の間だけは、外の眩しい陽光とは裏腹に、息苦しいほど重く澱んだ空気に支配されていた。
上座に腰を下ろしているのは、蘆名家当主・盛氏。
幾多の合戦をくぐり抜け、伊達や佐竹といった強敵たちと渡り合い、謀略と武勇によって周辺諸国を従えてきた奥州屈指の老獪な戦国大名である。白髪の混じる頭と、深く刻まれた眉間の皺、そして巌のように微動だにしない巨躯が、彼が背負ってきた過酷な時代と絶対的な権力を物語っている。
盛氏は、手元に置かれた何枚もの木簡と書状を、猛禽のような鋭い眼光で睨みつけていた。
「……もう一度、言ってみよ」
低く、地鳴りのような盛氏の声が響く。
広い評定の間には、蘆名家を支える重臣たちがずらりと並んでいたが、誰一人として咳払い一つ発する者はいない。蝉の鳴き声だけが、開け放たれた縁側の向こうから無遠慮に響いていた。
下座に平伏していた勘定奉行が、額に脂汗を滲ませ、微かに肩を震わせながら絞り出すような声で報告を繰り返した。
「はっ……。上方市場における当家の青苧の引き合いが、前年より三割……いえ、今月に入ってからは四割近く落ち込んでおります。堺の今井宗久ら、会合衆を通じた大商いも日増しに滞りを見せており、蔵には出荷できぬ青苧の束が山のように積まれたままにございます。このままでは、秋の収穫を待たずして、当家の蔵の銭が心許なくなる恐れが……」
盛氏は、無言のまま手にしていた軍扇を畳に置いた。
パタリという乾いた音が、静まり返った評定の間に不気味に響く。
青苧と漆。それは豊かな会津の自然が育む特産品であり、阿賀野川の水運を用いて越後を経由し、日本海から上方へと流れる蘆名家の最大の財源である。それが売れない。いや、売れないのではない。上方商人たちが、意図的に買い叩き、あるいは買い取りそのものを渋り始めているのだ。
「原因は何だ。凶作でもなければ、海が荒れているわけでもなかろう」
盛氏の問いに、勘定奉行は何度も言葉を飲み込みながら答えた。
「それが……上方から東国へ入る『銭』そのものの流れが、どうも不自然に滞っているように思われます。代わりに、越後や信濃の国境付近では『武田手形』なるものが、本物の銭と同じように商人の間で飛び交っておりまして……。我が領内にも、その手形で商いを行おうとする流れ者の商人が現れ始めております。上方の商人どもは、武田手形を持つ取引を優先し、それ以外の商いには露骨に難色を示し始めているとの噂にございます」
盛氏は目を細めた。
武田手形。
最近、東国の商人たちの間でまことしやかに囁かれている、甲斐の武田が発行しているという紙切れだ。実体のないただの札が、黄金や明銭と同じ価値を持って商流を席巻しているという。
盛氏は、自らの脇に置かれた文箱から、一枚の金子を取り出し、指先でその冷たい重みを確かめた。
豊かな土壌が育む米がある。蔵には蓄えた銭もある。古き良き武士の価値観の中で生きてきた盛氏にとって、ただの墨が塗られた札が、これら実体ある富を凌駕するなどということは、得体の知れない妖術のようにしか思えなかった。
武力で敗れたわけではない。自国の領土が奪われたわけでもない。兵の数も、城の堅固さも、昨日と何一つ変わっていないのだ。
それなのに、見えない泥沼に足を踏み入れたかのように、確実に会津の国力――銭が吸い取られている。
「馬鹿げたことを申すな!」
血気盛んな若手の武将が、たまらず膝を叩いて声を荒げた。
「紙切れが国を潤すなど、あり得るはずがございませぬ!武田の商人が姑息な真似をしておるのならば、国境を固め、怪しい商人をことごとく捕縛すればよいのです!あるいは、交易路を断ち、関所を押さえて対抗すれば済むことにございます!」
「愚か者」
盛氏の一喝が、若武者の声を叩き斬った。
「商人を斬って済む話なら苦労はせぬ」
盛氏の正確な指摘に、若武者は顔を真っ赤にして俯いた。
見えない敵。刀の届かない敵。それが武田勝頼のやり方なのだと、盛氏は肌で感じ取っていた。
「……殿」
重苦しい沈黙を破り、筆頭家老が膝を一つ進めて身を乗り出した。その顔には、長年盛氏と共に会津を支えてきた老臣としての、悲痛な覚悟が滲んでいた。
「このまま座して、武田の毒が回るのを待つわけにはいきませぬ。銭が回らねば、上方から鉄砲も硝石も買えませぬ。何より、秋の凶作に備える備蓄米すら用意できなくなりましょう。この黒川城に籠もる兵を、そして会津の民を食わせられなくなりまする」
盛氏は黙って目を閉じた。
家老の言う通りだ。武士の誇りや家柄だけでは、人は食えない。国を維持するためには、銭と米が必要なのだ。己がここで決断を誤れば、蘆名家は内側から干上がり、飢えた民の反乱や家臣の離反によって自壊する。
「……どうする」
盛氏の短い問いに、家老は懐から越後国境の絵図面を取り出し、畳の上に広げた。そして、震える指先で一点を力強く指差した。
「西にございます」
家老の声が、評定の間に響き渡る。
「幸い、越後は家督争いで疲弊しきっており、国境の警固は手薄も手薄。今こそ、阿賀野川の要衝である津川の関所と、その周辺の『沼沢』を押さえる絶好の好機にございます」
「……」
「当家の青苧が上方へ向かう命綱、阿賀野川。その国境の権益を強引にでも我が手中に収め、水運の喉首を完全に支配下に置けば、嫌でも商流は会津へ戻りましょう。奪った関所からの関銭も、当家の莫大な収入となりましょう。越後の混乱に乗じるのは気が引けまするが、もはや背に腹は代えられませぬ」
火事場泥棒のような真似をしろと言うのか。
盛氏の胸の奥で、奥州の覇者としての矜持が、ギリギリと痛みを伴って軋んだ。
他国の内乱という不幸に乗じて、同盟の義を反故にし、国境を掠め取るなど、名ある武将の振る舞いではない。かつて共に酒を酌み交わし、轡を並べたこともある越後の亡き将たちの顔が脳裏をよぎる。
だが、目を開いた盛氏の瞳には、野心とは異なる、切羽詰まった暗い炎が宿っていた。
これは、他国を侵略し、領土を広げるための華々しい戦ではない。
自国を守り、家臣と領民を飢えさせないための、ひどく泥臭く、剥き出しの「生存本能」であった。
義理や体面を重んじて国を滅ぼす当主など、ただの無能である。己が悪名を被ることで数万の民が食えるのならば、地獄に落ちる覚悟などとうの昔にできている。
「……やむを得まい」
長く重い沈黙の果てに絞り出された盛氏のその一言に、評定の間の空気が一気に動いた。
「津川周辺の主要な関所、ならびに沼沢周辺の越後国人衆に、惜しみなく金子をばら撒け。一人残らず調略し、阿賀野川の要衝を我が方へ寝返らせよ。越後が疲弊しきっている、今しかない。血を流す必要はない。銭の力で、必ず権益を奪い取れ」
盛氏の指示は、老獪な戦国大名として極めて合理的かつ正確なものであった。
自らの血を流さず、敵の隙を突き、蓄えた銭の力で国境の急所を押さえる。中世の武将としての能力の極みとも言える、見事な決断であった。家臣たちは息を吹き返したように平伏し、即座に工作の手配へと駆け出していった。
工作は、盛氏の予想通り、いとも容易く成功した。
家督争いで疲弊と混乱の極みにあった越後の国境付近の国人衆は、蘆名の放った間者が提示した百両もの黄金にいとも簡単に靡いた。彼らもまた、食うために必死であったのだ。
半月ほどで、蘆名軍は一兵も損なうことなく、越後国境の関所を三つ手中に収め、阿賀野川水運の要衝を物理的に制圧したのである。
吉報を受けた日の夕暮れ。
盛氏は、奥書院の縁側から、茜色に染まる会津の空を静かに見つめていた。
手には、津川周辺の関所を掌握した旨を知らせる書状が強く握られている。夕日が、盛氏の白髪交じりの頭と、皺の刻まれた顔を赤く染め上げていた。
「……これで、よい」
盛氏は、誰に聞かせるでもなく、心の底から深い安堵の息を吐き出した。
道を押さえた。急所を握った。
関所を物理的に支配した以上、上方へ向かう商人はそこを通らざるを得ない。道を通れば関銭が落ちる。青苧の商流も蘆名の意のままになる。これで、会津の銭枯渇の危機は脱した。冬を越す米も、戦に備える鉄砲も買える。
土地を奪い、道を扼すれば、富が得られる。
それが、幾多の死線を潜り抜けてきた蘆名盛氏の、疑いようのない「戦国の常識」であった。
彼は悪人ではない。ただ、自らの国と民を守るために、古き良き武士の論理に則って、己の為すべき最善の手を打ったに過ぎないのだ。
しかし。
茜色の空を見上げる老将は、まだ気づいていなかった。
奪った道を通る商人が、もう存在しないことに。
関所を手に入れても、そこを通る荷がなければ銭は落ちないことに。
夜風が、会津の盆地を吹き抜けていく。
遠くの山々が闇に沈み始め、城下にはぽつぽつと灯りが灯り始める。
奥州の老将はまだ、知る由もなかった。




