第百七十話:大使出立
第百七十話:大使出立
真夏の刺すような陽射しが、甲府の町を白く焼き尽くさんばかりに照りつけている。
大路を吹き抜ける熱風は、土ぼこりと共に、大量の荷を積んだ牛馬の汗の匂いを運んできた。
躑躅ヶ崎館の正門前に、一つの長い列が連なっていた。これから奥州・会津へと向かう、上杉景虎の使節団である。
だが、その威容は、かつての戦国武将が出陣する際のそれとは根本的に異なっていた。
風にはためく幟旗には上杉の笹竜胆も北条の三つ鱗もなく、ただ簡素な武田の菱紋が染め抜かれているだけだ。供回りの者たちは甲冑を身に着けず、槍や弓といった長柄の武器も持っていない。代わりに彼らがうず高く荷車に積み込んでいるのは、漆塗りの長持に収められた膨大な数の「帳面」と、厳重に封印された「武田手形」の束であった。
それは武力で敵国をねじ伏せるための軍陣ではなく、血を流さずに国を呑み込むための、見えざる経済の軍勢であった。
景虎は、列の先頭で鹿毛の馬に跨っていた。
彼自身もまた甲冑を纏わず、絹の直垂に身を包み、腰には護身用の短刀を一振り差しているだけである。己の身体を覆う鉄の重みがないことが、今の景虎にはひどく自然に感じられた。
手綱を握る指先には、もはや武将としての熱い血の昂りはない。あるのは、まだ半ば理解しきれていない新しい役目への、静かな緊張だけであった。
館の楼上から、その出立の様子を静かに見下ろしている眼があった。真田昌幸である。
照りつける太陽の下、音もなく整然と進み始めた荷車の列と、その先頭を行く景虎の背中を見つめながら、昌幸は薄い唇の端を僅かに歪めた。
「もう戦場を見る目ではありませんな」
誰に言うともなく、ぽつりと呟く。
昌幸は、己と勝頼が仕掛けた試練を越えた景虎の背中を見送りながら、静かに息を吐いた。
幾日の行程を経て、景虎の列は信濃を抜け、越後の領内へと足を踏み入れた。
景虎にとって、越後は己の人生のすべてを懸けて戦い、そしてすべてを失った場所である。
あの冬、己が率いる兵たちが飢えと寒さに震え、次々と倒れていった凄惨な記憶が、国境の山々を見るたびに生々しい痛みとなって蘇りそうになる。
だが、景虎の目に映った現在の越後の姿は、その凄惨な記憶を根底から覆すものであった。
街道は綺麗に均され、かつて軍事的な関所があった場所はことごとく姿を消している。代わりに、絶え間なく行き交う荷車の列が、まるで太い動脈を流れる血のように越後の大地を活気づけていた。
武田の経済封鎖によって一度は窒息しかけた国に、再び荷が流れ始めていた。
まだこれから復興するであろう集落もある。それでも荷車は戻り始めていた。村々からは麦を打つ音が響き、宿場は上方から流れてきた品々を商う者たちの活気で満ち溢れていた。
(これが……理の力か)
馬上からその光景を眺めながら、景虎は深く息を吐き出した。
己が当主の座を巡って国を二分しようとし、民を苦しめようとしていた時には、決して見ることができなかった景色。誇りや大義名分を捨て、ただ「人を飢えさせない」という一点にのみ執着した勝頼の仕組みが、この越後を蘇らせている。
日暮れ前、一行は阿賀野川に近い国境の宿場に到着した。会津との境に位置するこの宿場もまた、物流の拠点として凄まじい活気を呈していた。
数日前から武田の使節が通るとの触れが出ていたらしく、帳場に立っていた老いた宿の主人が、景虎の顔を見るなり、びくりと身体を震わせた。かつて越後の政変の折、この地を訪れた「上杉景虎」の顔を、その老人は覚えていたのだ。
老人の横にいた若い下男が、景虎のただならぬ気品に気づき、「あ、あれはひょっとして……」と無邪気に駆け寄ろうとした。
しかし、老主人は鋭い動作で下男の腕を掴み、背後に引き留めた。
「これ、粗相のなきようにしろ」
主人は声を落として下男を厳しく制すると、自ら進み出て、土間の板敷に膝をつかんばかりの勢いで深々と頭を下げた。
「武田の使節様と伺っております。何卒、ごゆるりと」
その言葉を聞いた瞬間、景虎の足が微かに止まった。
老人の声には、恐れも、敗軍の将に対する侮蔑もなかった。あるのは、己の商いを根底から支える巨大な武田の経済網を背負う者に対する、純粋な畏怖と敬意だけであった。
もはや人々は、己を上杉景虎としてではなく、武田の理を運ぶ者として見ている。
それが不快ではない自分に、景虎はわずかな戸惑いを覚えた。
かつてなら、上杉の名を忘れられることなど耐えられなかったはずだった。
景虎は一瞬言葉を失ったが、すぐに己の裡に残っていた最後の未練のようなものが、音を立てて凍りつき、砕け散っていくのを感じた。
「……大儀である」
景虎はただ一言、短く抑揚のない声で返し、黙って会釈だけをして奥の座敷へと歩みを進めた。その歩みには一切の迷いがなく、背筋は冷たい刃のように伸びきっていた。
翌朝。宿場を発った景虎の一行は、ついに越後と会津の国境へと到達した。
阿賀野川の急流が谷底を白く泡立てて流れ、その対岸には蘆名盛氏の支配する鬱蒼とした山々が連なっている。
景虎が国境の橋を渡ろうとした時、その手前で一行の足を止める者たちがいた。
数騎の警護を従え、街道の中央に静かに馬を進め出てきた男。越後を預かる上杉景勝であった。
かつて、上杉の家督を巡り、互いの首を狙い合った宿敵であり、景虎にとっての義理の兄弟である。
その景勝もまた、武将としての甲冑を脱ぎ捨て、直垂姿であった。その顔には、勝利者としての驕りは微塵もなく、むしろ越後という一国を預かる為政者としての、深く刻まれた疲労と重い覚悟の色が滲んでいた。
景虎は馬を進め、景勝の数歩手前で手綱を引いた。二人の間に、張り詰めた沈黙が落ちる。風が阿賀野川の水しぶきを運び、二人の間を通り抜けていく。
武士としての生き様を賭けた越後の政変。その当事者二人が、今はただ国を預かる者として向かい合っていた。
遺恨を語る言葉も、過去を清算する刃も、もはやここには存在しなかった。
景勝が、静かに口を開いた。
「越後は任せよ」
たったそれだけの一言であった。
景虎は、一瞬だけ言葉に詰まった。喉の奥からこみ上げてくる熱いものを強引に呑み込み、馬上で居住まいを正す。
「……頼んだ」
交わされた言葉は、本当にそれだけであった。景勝が道を譲るように馬を脇へ寄せた。
景虎は黙って顎を引き、馬の腹を蹴った。荷車の列が、車輪を軋ませながら国境の橋を渡り始める。
すれ違う瞬間、二人は互いの顔を見なかった。
阿賀野川の風が吹き抜けた。
二人は振り返らなかった。
橋を渡りきった景虎は、一度も振り返ることなく、最初の役目が待つ会津の深い森の中へとその姿を消していった。
同じ頃。甲府の躑躅ヶ崎館、奥書院。武田勝頼は、上座に置かれた一枚の巨大な絵図面を静かに見下ろしていた。
東国全域を描いたその図面には、国と国とを隔てる国境の線が墨で引かれている。だが、勝頼の目には、その線を軽々と越えて無数に伸びる、見えざる太い線――武田手形と商流が結ぶ「街道」の血脈だけが鮮明に映っていた。
「見事な出立であったと、出浦より知らせが」
下座に控えていた真田昌幸が、手元の文を畳みながら静かに報告した。
「景虎殿の目は、すでに蘆名をどう生かすか、その一点のみを据えております。会津がどう応じるか、見物ですな」
勝頼は絵図面から目を離さず、ただ短く応じた。
「人は加わらぬ。道が、加わるのだ」
昌幸は、絵図面を見つめ続ける勝頼の横顔を、畏怖の入り交じった目で見上げた。
「……殿は、いつまで先を見ておられるのですか。十年先か、あるいは百年後のことまで考えておられるのですか」
昌幸の問いに、勝頼は初めて絵図面から顔を上げた。
その瞳の奥には、天下人としての覇気も、大業を成し遂げようとする野心もない。ただ、深く暗い疲労の色だけがあった。
「百年後のことなど、知らぬ」
勝頼はぽつりと呟いた。
「ただ――次の飢えだけは、見たくない」
それ以上は語らなかった。
昌幸は、その沈黙の奥にあるものを、敢えて追わなかった。
甲府の空は高く、夏を告げる入道雲が、東国の山々の向こうで静かに湧き上がっていた。




