第百六十九話:使節任命
第百六十九話:使節任命
白々と夜が明け、初夏の強い陽光が客館の庭に差し込み始めていた。
庭先の松の葉に降りた朝露が、きらきらと眩い光を反射している。
だが、薄暗い部屋の中でただ独り座り込む上杉景虎の周囲だけは、いまだに分厚い夜の闇が淀んでいるかのようだった。
甲斐の忍びを束ねる出浦盛清が、影のように現れ、そして音もなく消え去ってから、どれほどの時が流れただろうか。
景虎の膝の上には、徹夜で睨み合い、その意味を読み解いたと錯覚していた渋紙張りの帳面が、重々しく乗せられたままである。
指先には、一晩中擦り続けた墨が黒々とこびりつき、爪の間にまで入り込んでいた。傍らの畳には、会津の狸・蘆名盛氏の動きを予測するために狂ったように書き殴った反故紙が、無惨に引き裂かれて散乱している。
『三月前』
出浦が最後に残したその無機質な声の残響が、景虎の耳の奥にこびりついて離れない。
蘆名盛氏が越後の混乱に付け込み、阿賀野川水運の関所を強引に奪い取るという予測。それは武将としての知略の極みであり、寸分違わぬ正解であった。
だが、甲府の武田勝頼は、その盛氏の行動を「読んでいた」のではない。武田手形を流し、相場を操って会津の商流を絞り上げ、盛氏が阿賀野川へ手を伸ばすしかない状況を、三ヶ月も前に自らの手で「作って」いたのだ。
己が必死に手を伸ばして掴み取ったと思っていた未来は、あの男にとってはとうに終わった過去の事象に過ぎなかった。
景虎は、乾ききった喉を動かし、音のない息を吐き出した。
読みは、外していなかった。
だが、それだけだった。
自分は正解に辿り着いたはずなのに、勝頼は三ヶ月前にその先へ進んでいた。
見えていたと思っていたものが、実はほんの一角に過ぎなかったのかもしれない。
圧倒的な敗北感の底から、新たな疑問が黒々とした泉のように湧き上がってくる。
罠に嵌め、商流から孤立させ、飢えさせる。
そこまで周到に仕組んでいるのならば、なぜ勝頼は最後の「止め」を刺さないのか。
放っておけば、蘆名は秋を待たずに銭が尽き、内側から崩壊する。武田が一兵も動かさずとも、会津は内から崩れていくはずなのだ。
それなのになぜ、勝頼は昨日、己に帳面を投げ渡し「蘆名を落とせ」と命じたのか。
放っておいても潰れる敵を、なぜわざわざ今の段階で「落とす」必要がある。
カタリ、と背後の襖が微かな音を立てて開いた。
冷めた朝餉の盆を下げるために来た給仕役の小者かと思ったが、気配が違う。研ぎ澄まされた刃のような気配。
振り返る気力もなかった景虎の耳に、静かな声が届いた。
「……見事な敗北でございましたな」
真田昌幸であった。
縁側の端に音もなく腰を下ろした昌幸は、抜けるような青空を見上げたまま、悪びれもせずに言った。その声には、嘲りよりもむしろ、冷徹な観察者としての響きが強い。
景虎は、抵抗することなく、乾いた唇を微かに動かした。
「ああ。私はまだ、武将のままであった」
「ほう?」
「私は盛氏を見ていた。勝頼様は、盛氏など見ていなかった」
景虎は、己の墨に汚れた両手を見つめた。
「……だから、時を見誤った」
昌幸は空から視線を外し、景虎の青白い横顔を見た。
「左様にございます」
昌幸の声から、いつもの人を食ったような響きが消え、底知れぬ深淵を覗かせるような冷たさが混じった。
「敵がどう敗れるかなど、我らはとうの昔に見終えております。次に見るべきは……」
「敗れた後、どう生かすか、だな」
景虎がその言葉を先取りすると、昌幸は僅かに目を細め、静かに頷いた。
「我らは、灰の山を欲しておりませぬ。勝頼様がお望みなのは、その先です」
敵を倒すのではない。
敵だった者を、どう扱うか。
景虎の裡で、霧が少しだけ揺らいだ。
だが、まだはっきりとは見えなかった。
なぜ「今」落とすのか。
自壊する前に引き上げる、という昌幸の言葉の意味が、まだ完全には掴めていなかった。
「……お召しにございます」
昌幸が、廊下の奥を見据えたまま言った。
「本丸へ。勝頼様がお待ちです」
躑躅ヶ崎館へ向かう道すがら、景虎の目に映る甲府の町は、昨日までとはまったく違う色彩と重みを持って迫ってきた。
強い陽射しが、容赦なく大路を焦がしている。土ぼこりの匂いに混じって、牛馬のむせ返るような汗の匂い、そして様々な物資の入り交じった濃厚な匂いが鼻を突く。
絶え間なく行き交う何十台もの荷車。車輪が地面を削り、重々しい軋み音を上げる。肌脱ぎになった人夫たちが、汗を滴らせながら米俵や塩俵、青苧の束を担いで問屋の蔵へと運び込んでいく。
問屋の軒先では、各地から集まった商人たちが、控帳を開き、指で数字を示しながら激しく値段の交渉を行っていた。
彼らは、槍も刀も持っていない。
だが、昨夜自分を打ちのめしたものは、間違いなくこの町を流れる銭と荷だった。
景虎は、すれ違う商人たちを見るたびに、背筋に冷たい寒気を覚えた。
道行く武田の役人たちも、腰に刀を帯びてはいるものの、その手にあるのは武具ではなく、分厚い帳面と算盤である。
もし、己が越後の家督争いで意地を張り続け、あのまま泥沼の政変を長引かせていたとしたら。武田の商流から外れた越後は、今頃、今のような賑わいなどなかっただろう。そう想像しただけで、景虎の背中を冷たい汗が流れ落ちた。
恐ろしいはずだった。
だが、なぜか目を逸らしたくはなかった。
躑躅ヶ崎館、奥書院。
強い陽射しを遮るため、簾が深く下ろされたその空間は、外の熱気を忘れさせるほどひんやりとした空気に満ちていた。
壁際という壁際に、うず高く積み上げられた帳面の山。墨と紙の匂いが満ちている。
上座では、武田勝頼が前回と寸分違わぬ姿勢で、絶え間なく筆を走らせていた。パチン、パチンという算盤の玉を弾く音が、静寂の中で規則正しく時を刻んでいる。
景虎は、音を立てずに畳に膝をつき、深々と平伏した。
筆の音が止まった。
「面を上げよ」
平坦で、一切の感情を排した声。
景虎が顔を上げると、勝頼の漆黒の双眸が、己を真っ直ぐに射抜いていた。その瞳には、敗者を嘲る色も、試練を越えた者への労いの色もない。ただ、次に与える役目を定めるような、絶対的な統治者の底知れぬ光があるだけだった。
「準備は整った」
勝頼は、己の手元にあった分厚い書状と手形の束を、景虎の前に無造作に滑らせた。
「会津へだ」
景虎の息が、僅かに詰まった。
「蘆名盛氏のもとへ。そなたを取次とする」
取次。
景虎の呼吸が、微かに早くなった。だが、一つの疑問がどうしても拭えなかった。
「……なぜ、我なのですか」
景虎の声が、冷たい書院の空気に震えた。
「私は敗者です。上杉の家督を争った末に敗れ、誇りも名も失い、身一つでこの甲府へ送られた男です。そのような者が会津へ赴いても、あの老獪な盛氏が容易に首を縦に振るとはおもえませぬ」
「違う」
勝頼の冷酷な声が、景虎の言葉を断ち切った。
「そなたは上杉家督を争った男であり、北条氏政の実弟だ」
勝頼は、初めて視線を景虎の目元から外し、遠く虚空を見据えるように言った。
「前にも言ったであろう。東国において、その血を軽々しく害せる者はおらぬ。蘆名とて同じだ。そなたが行けば、彼らは必ず言葉を交わさざるを得なくなる」
冷徹な血脈の利用。
だが、景虎にはそれが、自分という存在の価値を単なる血筋に還元されたとは感じられなかった。むしろ、己がこれまで縛り付けられ、呪いのように感じていた「血」が、人を殺すためではなく、人を生かすための武器になるのかもしれない——そう思いたかった。
勝頼は、再び景虎を見据えた。
「加えて。お前が、敗者だからだ」
景虎の肩が、微かに跳ねた。
「勝者の言葉は、追い詰められた敵を頑なにさせるだけだ。だが、敗北の味を知り、誇りが砕け散る痛みを知る者の言葉ならば、破滅の淵に立つ者の耳に届く」
景虎の胸の奥で、氷のように凝り固まっていた何かが、熱く融けていく感覚があった。
勝頼は、懐から白木の木札を取り出し、景虎の前に置いた。
そこには、見たこともない奇妙な二文字が、力強い墨跡で記されていた。
「……州牧……?」
乾いた喉から、絞り出すように漏れた。
「『州牧』、と呼んでいる」
勝頼はそれ以上語らなかった。
「そなたには、この使者となってもらう」
「行け」
景虎は、深く息を吸い込んだ。
冷たい書院の空気が、肺腑の底まで満たしていく。
昨夜までの徹夜の疲労も、敗北の痛みも、すべてが氷のように研ぎ澄まされていく。
もはや、腰に刀がないことに違和感はなかった。自分に与えられた武器は、目の前の帳面と、この木札。そして、武田が創り上げた巨大な商流の網だ。
上杉景虎は、静かに、だが力強く頭を下げた。
「御意」
まだ、分からない。
あの男が何を成し遂げようとしているのか。
自分が何を運ばされているのか。
ただ、巨大なものの入口に立たされたことだけは、確かだった。
外では、甲府の空を焦がすような強い陽射しが、容赦なく降り注いでいた。




