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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第十七話:静寂包囲

第十七話:静寂包囲


 躑躅ヶ崎館を包み込む冬の気配は、かつてのような出陣を待つ熱の帯びた猛々しさを伴ってはいなかった。甲斐の山々から吹き下ろす冷風が回廊を撫でる音だけがやけに響き、館全体を支配していたのは、薄氷を踏むような刺すような沈黙である。

 武田勝頼は、自室の黒漆の文机に向かい、朝から晩まで淡々と行政の書状に筆を走らせていた。そこには軍議を白熱させる形跡も、戦支度の喧騒も一切ない。勝頼が遠江の二俣城攻略に三月の刻限を宣言し、真田昌幸に密命を下してからというもの、彼自身の振る舞いは見事なまでに静まり返っていた。


 勝頼は軍事の一切を昌幸に委ね、武を誇る重臣たちとの対話を意図的に断ち切った。その代わりに彼が私室に集めたのは、これまで戦場で槍を交えたこともない、年若き下級の役人や文官たちであった。

 勝頼は彼らと膝を突き合わせ、駿河や信濃から上がってきた検地帳の精査に没頭し、さらには上方から招き入れた商人たちを交えて、甲州金の新たな鋳造計画や街道の関銭の整備について、連日のように細かな数字の議論を重ねていた。

 中原で万の民を統治してきた勝頼にとって、国を真に支える力とは、一部の猛将が振り回す槍の長さではなかった。米の収量と銭の流れを完全に掌握し、民の生殺与奪を数字の網の目で管理する冷徹な算術にこそある。個人の感情や武勇などという不確かなものを一切排除して、誰もが逆らうことのできない法と帳簿による統治。それこそが、強大な外敵を退け、はるか先まで揺るがぬ国となるのだ。


 だが、その不気味なほどの不動と、銭勘定に没頭する若き主君の姿を、死の淵にありながらもなお鋭い眼光を失わぬ猛虎が、館の最奥からじっと見つめていた。


「……昌信。四郎は今、何をしておる」

 薄暗い寝所に控える高坂弾正忠昌信に対し、武田信玄はひどく掠れた声で問いかけた。寝所に重く漂う薬草の香気と、信玄の喉の奥から絶え間なく漏れる喘鳴が、この甲斐の巨星の余命が幾ばくもないことを残酷なまでに告げている。

「はっ。若殿は本日も朝より、新たな貨幣の目方について商人らと議論を重ねておられまする。遠江に放った真田への援護はおろか、叱咤激励の書状一本すら認めるご様子はございませぬ。陣中の様子を尋ねる下働きすら出しておらぬようです」


 昌信の報告には、歴戦の智将らしからぬ、隠しきれない困惑と苛立ちが混じっていた。

 無理もない。武田の譜代重臣たちの間では、勝頼がかつての軍議で見せたあの底知れぬ覇気は、すでに一時の神懸かりか若気の至りに過ぎなかったのだという侮りが広がり始めていた。敵の堅城を前にして、将が甲府に引きこもり、算盤を弾くことに現を抜かしている。武士としての本分を忘れ、商人風情と銭勘定に明け暮れるとは何事か。そのような不満の囁きが、館のあちこちで蔓延していた。


 だが、信玄は重い瞼をゆっくりと閉じ、脳裏に焼き付いた息子のあの日の変容を反芻していた。

(四郎……。そなたは、このわしの疑念や家中の侮りすらも、すべて己の盤上の一手に組み込んでおるというのか)


 信玄の冴え渡る直感は、重臣たちの浅薄な評価とは全く異なる真実に辿り着いていた。勝頼があえて何もしないこと。それは決して戦から逃げているのではない。家中の不満と油断を意図的に誘い、自らの真意と水面下で進行している恐るべき事態を、完全に秘匿するための隠れ蓑なのだ。

 信玄は、自らが一生をかけて築き上げた武威の武田という巨大な城が、勝頼の沈黙という名の見えない楔によって、土台から一つ、また一つと音もなく解体されていることを本能で察知していた。


 もし息子が武を競い、戦場で覇を唱えようとしているのであれば、信玄はいくらでも助言を与え、あるいは軌道修正を図ることができた。だが、四郎が今行おうとしているのは、戦ではないのだ。自分がこれまで重んじてきた情や義理、主従の絆といった古い価値観を完全に無価値なものとし、血も涙もない数字と掟だけでこの世を縛り上げようとしているように見えるのだ。

 それは、これまでに対峙してきた上杉謙信や、今まさに天下へ手を伸ばそうとしている織田信長といった強敵たちのどれよりも、底知れぬ恐怖と深い絶望を信玄の魂に抱かせた。


 一方、勝頼は、父の重い監視の視線や、周囲の重臣たちの冷ややかな冷笑を肌で感じながらも、一片の揺らぎも見せることはなかった。

 彼の脳裏には、大陸での長き治世において、中原の荒野を完全に平定した際の鮮明な記憶が残っている。当時、新たなる法を敷く過程で最大の壁となったのは、外敵の強大さではなく、味方の古い家臣たちが抱く不信と反発であった。それを一切の刃向かいを許さずに克服するためには、途半ばでの言い訳や説得など何の意味も持たない。必要なのは、圧倒的な情報の独占と、誰もがひれ伏すしかない絶対的な結果による沈黙の強制である。


(父上。あなたはご自身の情の深さゆえに家臣を繋ぎ止め、そしてその情があるがゆえに、わしの冷徹な振る舞いに底知れぬ恐怖を抱いておられる。……それで良いのです。旧き武田の者たちがわしの行動を疑い、侮り、己の武功にあぐらをかいて目を塞げば塞ぐほど、わしが遠江に放った見えざる火種は、誰にも気付かれぬまま確実に敵の喉元を焼き尽くしていく)


 勝頼は手元の筆を静かに置き、障子越しに見える、雪を孕んだ鉛色の空をじっと見つめた。

 二俣城では今頃、昌幸の配下が蒔いた噂の種が、城兵たちの精神を確実に限界まで追いつめているはずだ。彼らが抱いた己だけは生き残りたいという醜い欲望は、もはや個人の不満の域を超え、城全体を呑み込む巨大な疑心暗鬼の渦となっていることだろう。

 城を落とすのは、物理的な兵の数ではない。勝頼の頭脳が描いた絵図面に従って、城内の人間関係が自らの重みと摩擦に耐えきれずに砕け散る、心理的な必然なのだ。


 勝頼にとって、父の疑念や宿老たちの嘲笑は、盤上の駒が立てる些細な雑音に過ぎなかった。彼はあえて、武を忘れ算盤に逃げた愚かな若者という残像を演じ切ることで、敵味方双方の目を完全に欺き、自らの真の刃を透明なまま保ち続けていたのである。


「昌信。四郎が軍議の席で三月と断じたあの刻限まで、あと幾日残っておる」

「はっ。あと三日を残すのみにございます。家中では既に、城が落ちる気配など微塵もない若殿の無様を笑い、約束通り若殿の首を諏訪明神へ捧げる神事の準備をすべきだなどと、不敬な皮肉を口にする者まで現れておりまする」


「……黙れ」

 信玄の低く響く一喝が、昌信の言葉を強制的に沈黙させた。

 信玄は、枯れ木のように痩せ細った手で自らの胸元をきつく掴んだ。病魔が五臓六腑を食い破る肉体の激痛よりも、自分の目の届かぬ深い闇の中で、実の息子がこの日ノ本の歴史そのものをまったく別の化物に造り替えようとしているという確信が、彼の誇りを激しく揺さぶり、苛んでいた。

 太陽がまさに西の空へ沈もうとする黄昏時であるが、武田という古き名門の家には既に、すべての者の熱を奪い去るような、凍てつく絶対者の夜の支配が差し込み始めているように、老いた猛虎には感じられたのである。


 本格的な冬の訪れと共に、躑躅ヶ崎館には不自然なほどの静寂が深く深く降り積もっていく。

 勝頼は一人、行灯の火だけが揺れる暗い書斎で、遠江からの知らせを待っていた。それは武士たちが鬨の声を上げて城壁を乗り越える音ではない。古き良き武家社会という名の分厚い皮が、彼が持ち込んだ容赦のない数理と謀略によって、内側からべりべりと剥ぎ取られる音であった。

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