第十六話:城塞自壊
第十六話:城塞自壊
遠江国の深い山々に抱かれた二俣城下には、表向きの静穏な空気が流れていた。天竜川を背後に控えたこの要害は、徳川家にとっても甲斐からの侵攻を防ぐ極めて重要な拠点であり、城門をくぐる者の監視は厳重を極めていた。
しかし、その厳戒態勢の中に、数名の行商人たちが違和感なく紛れ込んでいた。彼らは真田昌幸の指示を受け、出浦盛清が解き放った手練れの忍びたちであった。彼らが背負う荷籠に詰められているのは、珍しい茶葉や反物ではない。武田勝頼がはるか大陸の統治で極め尽くした、人の魂を内側から狂わせる見えざる火種であった。
その日の夕刻、城内の足軽たちが集う酒場の一角に、一人の男が座していた。
鈴木庄三郎。先の小競り合いで敵の首級を挙げる武功を立てながらも、家柄の低さを理由に手柄を上役に横取りされ、出世の道を閉ざされて燻り続けている男である。彼は目の前の濁酒を乱暴に煽り、周囲の喧騒に耳を塞ぐようにして、自らの不遇を噛み締めていた。
「まただ。また俺の手柄は、あの家柄ばかり立派な若造にかっさらわれた。俺だって、正当に評価されればもっとやれるはずなんだがな……」
庄三郎の口から漏れた独白は、酒場の騒ましさに消えるはずのものであった。しかし、その微かな恨み言を、隣席で静かに盃を傾けていた初老の行商人が鋭く捉えていた。行商人は庄三郎に目を向けることもなく、ただの独り言のように、しかし庄三郎の耳には確実に届く低い声で語り始めた。
「……哀れなことよ。この城の者たちは、とうに徳川の本陣から見捨てられているとも知らずに。戦になれば、上の者たちは真っ先に逃げ支度を整え、下働きの者たちだけが犬死にする定めだろう。だが、実にもったいない。お前様ほどの腕と才覚を持つ御仁ならば、己の力一つで上役を出し抜き、別の道を切り開けようものに」
庄三郎は、反射的に行商人を見た。普段なら聞き流すような世間の噂話に過ぎない。だが、今の彼には、その言葉が自らの傷口を的確に突き、心の奥底に隠していた自負を刺激する熱い言葉として感じられた。寝返りを持ちかけられたわけではない。武田という名も一切出なかった。ただ、命の危機という恐怖と、己の才覚を肯定される甘い囁きだけが、庄三郎の胸中に深く落とされたのである。
庄三郎が言葉を返そうとした時、そこにはすでに初老の男の姿はなかった。
翌日の朝、城内の広場で行われた武具検分。それが、庄三郎の心に根付いた火種を急激に燃え上がらせる一打となった。
「庄三郎、貴様の具足の紐が緩んでおる。これではいざという時に徳川の面汚しとなるわ。たるんでいるのではないか」
声を荒らげたのは、庄三郎よりも十も若く、しかし家柄だけは立派な侍大将であった。まさに庄三郎の手柄を自らの功績として握りつぶした男である。周囲の兵たちが冷ややかな、あるいは同情的な視線を送る中、庄三郎は地面に膝を突き、無言で歯を食いしばった。
その瞬間、脳裏に昨夜の行商人の声が鮮明に蘇った。
「上の者たちは真っ先に逃げ支度を整え、下働きの者たちだけが犬死にする定め」
庄三郎は、目の前で偉そうに見下ろしている若き侍大将を盗み見た。こいつは俺を叱責しているのではない。いざ城が見捨てられた時、俺を身代わりにして己だけが助かろうとしているからこそ、こうして普段から俺を蔑み、価値のない人間として扱おうとしているのだ。
昨夜までは不吉な囁きに過ぎなかった噂が、庄三郎の中で確固たる真実の宣告として形を結んだ。勝頼が予見した通り、日々の些細な不遇と理不尽こそが、最も確実な自壊の糧となったのである。主家への忠誠は、彼を理不尽な死へと縛り付ける忌まわしい鎖へと変質していた。
その夜、庄三郎は冷たい長屋の寝床の中で、激しい動悸に襲われていた。
目を閉じれば、暗闇の中に己の才覚だけで生き残りを図る自身の姿が浮かぶ。そこでは家柄など無意味であり、上役を出し抜く知恵だけが己を救う。一方で、目を開ければ、そこにあるのは古びた天井と、明日も繰り返されるであろう理不尽な差別の現実、そして見捨てられて犬死にするという圧倒的な恐怖であった。
忠誠心が、内側からじりじりと腐食していく音が聞こえるようだった。
裏切りへの忌避感は、次第に自分を使い捨てようとする世界への激しい怒りへと上書きされていく。庄三郎の手は、暗闇の中で無意識に枕元の太刀の柄を握りしめていた。額を伝う冷たい汗が、寝座を濡らす。
もしあの噂が真実なら。いや、間違いなく真実だ。家康の本陣からの使いはここ数日途絶えているではないか。城代も侍大将も、すでに己の逃げ道を確保しているに違いない。ならば、俺はどうする。黙って殺されるのを待つか。否、俺には戦場で敵の首を挙げる才覚がある。この力で、俺を犬死にさせようとする奴らを出し抜き、己の運命を切り開いてやる。
欲望という名の熱が、全身の血を沸騰させる。しかし、次の瞬間には周囲に露見すればその場で斬られるという恐怖の冷水が、彼の心臓を激しく収縮させる。この熱と冷気の絶え間ない往復が、庄三郎の精神を限界まで引き絞り、磨り減らしていった。彼は夜も眠れぬまま、狂わされた歯車のように思考を空回りさせ続けていた。
そして、この異常な精神状態は庄三郎一人に留まらなかった。
勝頼の仕掛けた見えざる火種は、城内の至る所で同時に発芽していた。博打の借銭に追われる足軽頭、女を巡る遺恨を抱く近習、些細な不始末で罰を受けた小者。彼ら一人一人の小さな不満が噂という恐怖を吸い込み、やがてそれは、誰が誰を疑っているのかさえ分からぬ、巨大な疑心暗鬼の霧へと成長していった。
数日も経たぬうちに、二俣城内の空気は異様なものへと変容した。
すれ違う際の視線が不自然に尖り、少しの立ち話すら密談ではないかと互いに腹を探り合う。ふとした言葉尻を捉えて激怒する者が増え、誰もが就寝時にも刃を手放さなくなった。上役の命令に対しては表向き従順を装いながら、その背中を憎悪と疑念の目でにらみつける。
外見こそ鉄壁の威容を保っていた二俣城であったが、その内部では、兵たちの精神が勝頼の指先一つで丁寧に分解され、互いを食い合う獣へと変貌させられていたのである。彼らを突き動かしているのは、もはや敵対する武田への恐怖ではない。身内から見捨てられ、裏切られることへの極限の恐怖と、己だけは生き残るという生への異常な執着であった。
物理的な破壊よりも遥かに残酷で確実な、人の心の崩壊。
遠く甲斐の躑躅ヶ崎館に座す勝頼は、もはや二俣城の戦況報告を聞いてさえいない。彼は暗い部屋の中で、ただ行灯の火を見つめ、万象を支配する理の働きを確信していた。
刃を交えずして敵を壊滅させる。若き絶対者が放った人生のやり直しという名の甘く恐ろしい誘惑は、夜の帳の中で城内の人間関係を根本から食い破り、堅牢な城塞を音もなく内側から崩落させ始めていた。




