第十五話:人心絡繰
第十五話:人心絡繰
躑躅ヶ崎館の一角、夜の闇に沈む勝頼の自室には、水を打ったような静謐と、息を詰まらせるほどの重圧が満ちていた。
行灯の揺らぐ火を見つめる勝頼の横顔には、二十六歳の若き武将が抱きがちな功名への焦燥など、微塵も存在しない。彼はこの数日、軍議の場にも姿を見せず、自室にこもりきりで脳内に蓄積された膨大な「帝王としての記憶」を整理していた。かつてはるか中原の都において、数多の反乱分子や異民族の暴動を沈静化させてきた、国を統べるための緻密なる理法。それを、この極東の日ノ本の状況に合わせて、一寸の狂いなく微調整する作業に没頭していたのである。
不意に、部屋の隅の闇が音もなく揺らいだ。
気配を完全に殺していたはずの出浦盛清が、天井裏から舞い降りるように畳の上に降り立つ。それに続くように、奥の襖が静かにすべり、真田源太左衛門尉昌幸が滑り込むように入室してきた。
二人の目元には、不眠不休で草の者を動かしてきた深い疲労の色が刻まれていたが、それ以上に、尋常ならざる熱気と興奮が全身から立ち昇っていた。
「……五日。若殿が与えられた七日の刻限を待たず、お約束通りに参上つかまつりました」
昌幸の声には、己の才覚を誇示する不敵な響きと、それ以上に、眼前の主君に対する底知れぬ畏怖が入り混じっていた。
「ほう。七日と言ったものを、わざわざ五日で仕上げてみせたか」
勝頼は文机から顔を上げ、冷ややかに口の端を吊り上げた。
「おぬしなりの矜持の表れというところということだな。よかろう、見せよ」
昌幸の合図を受け、盛清が懐から一枚の和紙を取り出し、恭しく勝頼の机上に広げた。
そこに記されているのは、遠江・二俣城の石垣の高さや堀の深さでも、備蓄された兵糧の正確な石高でもない。城内に籠もる敵将たちの血縁や派閥、そして日々の暮らしの中に潜む「心の綻び」を、おびただしい数の線で結び合わせた、異様なる絵図面であった。
勝頼の冷たい眼差しが、和紙の上の文字を一つ一つなぞっていく。
『鈴木庄三郎、博打の負け銀二貫あり。遊郭での揉め事が露見し、上役の勘当を極度に恐れている』
『足軽頭の権平、他国に囲った女への仕送りが滞り、陣中で同輩から借銭を重ねている』
『城代・大沢基胤の近習、己の家柄の低さゆえに昇進の道が絶たれていると嘆き、酒宴の席で常に上役への恨み言を口にしている』……。
それは、二俣城内にどろりと沈殿している、人間の見苦しき業と澱の集大成であった。
「……見事だ。昌幸、そして盛清よ。これこそが、わしが欲していた『人の心の絵図面』だ」
勝頼は和紙を手に取り、そこに記された負の感情の連鎖を、まるで極上の細工物を眺める鑑定士のような冷徹な目で見つめた。
「日ノ本の武将たちは皆、城というものを、強固な石と木で組み上げられた巨大な塊だと信じ込んでいる。だが、こうして見れば、城などというものは『人の心の脆さ』という名の、極めて切れやすい細糸で編み上げられた頼りない籠にしか見えぬものとなる。この糸を一本、急所のところで丁寧に引き抜いてやれば、いかに巨大な要塞であろうとも、一瞬にして自重に耐えかねて崩れ落ちるのだろう」
勝頼は昌幸を近くへ呼び寄せると、絵図面の上の一点、鈴木庄三郎の名を指し示した。
「さて昌幸。この庄三郎という男の糸、そなたならばいかにして引き抜く」
昌幸は一瞬、言葉を飲み込んだ。
つい先日までの己であれば、間違いなく黄金を積んで直接寝返りを促すか、あるいは他国にいる家族を人質に取って脅迫するという、武家社会にありふれた調略の定石を口にしていたはずだ。だが、それは既に勝頼から否定されている。そのため、昌幸はすでに勝頼が求めているであろう答えを、この数日の間考えていたのである。
「……恐れながら。先日お教えいただいた通り、直接寝返りを持ちかけるような愚は犯しませぬ。この庄三郎の親族に草の者を近づけ、『家康はすでにこの城を見捨てる算段だ。庄三郎の上役も、己の保身のために配下である庄三郎の首を差し出すつもりでいるぞ』と、まことしやかな噂を吹き込みます。借銭で首が回らず、元より上役の顔色を窺って怯えているこの男は、己の命が理不尽に奪われるという恐怖から必ず疑心暗鬼に陥り、上役に対して奇妙な振る舞いを始めましょう。その自己防衛の動きこそが、城内の疑念を連鎖させる最初の火種となりまする」
昌幸は、己の理解の深さを示すように自信を持って答えた。
しかし、勝頼の口から漏れたのは、冷ややかな一言であった。
「ようやく及第点だな」
勝頼の無機質な声が、昌幸の思考を鋭く射抜く。
「日ノ本における謀の極致としては、それで十分に城は傾くであろう。だが……ただ命の危機で脅し、恐怖を煽るだけでは、人は時としてその場に竦み上がり、何一つ動けなくなるか、あるいは夜陰に乗じて単に一人で逃亡するだけで終わってしまうやもしれぬ。城内全体を巻き込むほどの強烈な自壊の渦を作り出すには、恐怖という猛毒の中に、もう一つ『自負』という名の甘い蜜を混ぜ合わせてやらねばならぬのだ」
「自負、にございますか」
昌幸と盛清は、顔を見合わせて息を呑んだ。
勝頼は、かつて中原で反乱軍を、一兵も殺さずに自軍の手駒へと造り替えた際に用いた、人心操作の理法を静かに説き始めた。
「武士という生き物はな、己の生きた証が何一つ残らず、無価値な泥のように世から忘れ去られる『忘却』を何よりも恐れる。ゆえに、ただ見捨てられるぞと脅すだけでは不完全なのだ。草の者に、こう囁かせよ。……『このままではお前は犬死にだが、天はお前を見放さなかった。お前だけが、この恐るべき裏の算段に気付くことができたのだ。お前の才覚があれば、上役を出し抜き、己の手で運命を切り開くことができるはずだ』とな」
勝頼の言葉の響きに、昌幸は背筋に氷柱を突き立てられたような凄まじい戦慄を覚えた。
「相手に、『他人に踊らされているのではなく、己自身の意志で道を選び取った』という錯覚を与えるのだ。人は、他者から命令されたことや脅されたことには本能的に反発し、迷いを生じる。だが、己の頭で閃き、己の意志で選び取ったと思い込んだ道には、一切の疑いを持たずに盲目的に突き進むものだ。庄三郎は、恐怖から逃れるためではなく、『己の才覚で生き残るため』に、積極的な狂気をもって上役を排除しようと動くはずだ。その主体的で狂信的な動きこそが、城内の空気を一変させる決定的な毒となる」
勝頼が語る策は、単なる嘘や化かし合いの次元を遥かに超えていた。
それは、人間の自尊心と生存本能、そして業の深さを極限まで数式のように計算し尽くした、「人の魂を内側から操るための絡繰」そのものであった。
(……恐ろしい。これほどまでに、人の心を血の通わぬ臓物のように解体し、意のままに組み替えてしまうとは)
昌幸は、主君の瞳の奥に宿る底冷えのするような冷徹な理の光に、抗いがたい畏敬の念を抱いた。
信玄は、強大な武威と情の熱によって敵を溶かし、味方を束ねた。武勇で圧倒し、恩賞で報いるという、いわば人の情念に根ざした「覇者」の戦いであった。だが、目の前に座すこの若き後継者は違う。人の感情の脆さを完全に見透かし、精緻な理という名の冷気で、敵の魂の根元を腐らせていく。力でねじ伏せるのではなく、法則で縛り上げるのだ。
「昌幸、そして盛清よ。これより二月の間、二俣城に対し、ただ、この絵図面に記された者たちの耳元へ、絶え間なく見えざる『風の音』だけを送り届けよ」
勝頼は和紙を畳の上に置き、昌幸と盛清を真っ直ぐに射抜くような目で見つめた。
「城内の空気を、わしの声や武田の脅しではなく、奴ら自身の『欲望』と『絶望』で埋め尽くしてやるのだ。……三月の刻限が訪れる時、二俣城の堅牢な門は、我らが外側から打ち破ることなく、内側に渦巻く疑心暗鬼の圧力に耐えきれず、自ら崩壊して開け放たれるであろう」
「……御意にございまする」
昌幸は、深々と平伏するしかなかった。
だが、その胸の奥底には、恐怖を遥かに凌駕する狂気的な歓喜が沸き立っていた。今まさに、古い常識が解体され、誰も見たことのない冷徹な理がこの日ノ本を塗り替えていく様を、己が最も近くで見届けることができ、さらにその執行役を担えるということなのだ。
「この終わりの始まり……真田源太左衛門尉昌幸が、しかと形にしてご覧に入れまする」
昌幸と盛清が音もなく退出した後の薄暗い部屋で、勝頼は再び行灯の揺らぐ火を見つめた。
彼が見据えているのは、単なる二俣城の無血開城という目先の勝利ではない。この城の自壊という「毒」がいかにして周囲の国人衆へ伝播し、古き情に依存する武家社会を内側から腐らせていくか。そしてその焼け跡の上に、誰が死んでも、誰が裏切っても決して揺るぎもしない「鋼の法治国家」をいかにして打ち立てるか。
若き帝王による孤独なる歴史の上書きは、今、静かに、しかし確実な一歩を踏み出したのであった。




