第十四話:疑網連鎖
第十四話:疑網連鎖
真田昌幸の歩みは、躑躅ヶ崎館を出てもなお止まらなかった。春の凍てつく夜気を切り裂くように歩き続け、ようやく己の屋敷へと戻った時、胸の奥に張り付いていた重苦しい圧迫が、ようやく具体的な形を持ち始めていた。それは、偉大なる先代・信玄から受けたことのある、魂を食らうような猛虎の威圧とは本質的に異なるものであった。
恐怖ではない。理解でもない。
勝頼の言葉、視線、そして天井裏に潜んでいた出浦盛清の存在を看破したあの冷徹な一瞥。その全てが、中世の武士が重んじる情や義という不確かな糸ではなく、一厘の狂いもない鋼の鎖で繋がっている。人を動かすのではない。人と人との間に流れる数理を動かすのだ。
昌幸は座敷に入るや否や、具足を脱ぐ間も惜しんで筆を執った。行灯の火を最大まで引き上げ、白紙の上に記し始めたのは、敵兵の名ではない。彼がこれまでの諜報で得ていた、遠江の国人衆の断片的な系図と、勝頼が先刻の密談で「正解」として提示した数人の不満分子の名であった。
「……なるほどな。勝頼様が示されたのは、完成された図ではなく、引き抜くべき『最初の糸』か」
呟きと同時に、部屋の隅の闇が音もなく沈み込んだ。真田の影を司る出浦盛清が現れたのだ。この男もまた、その貌には隠しようのない戦慄が張り付いていた。
「もう一度、来ると思うておったぞ。盛清、そこに座れ。これより、我らの知る忍びの術を、根底から書き換える必要がある」
昌幸は机上の系図を指し示した。それはまだ、虫食いのように空白の多い網の目であった。
「あの方は言外に示された。狙うのは城という石の壁ではない。人と人とが日常の澱の中で結んでいる、この『縁の結び目』なのだとな。盛清、我ら透波はこれまで、標的を一人の大身に定め、その自尊心を揺さぶることで内応を誘ってきた。だが、それはあまりに情緒に頼りすぎた凡策であったのだ」
昌幸は、勝頼から授けられた「人の脆弱性の数理」を、自らの言葉で翻訳し始めた。
「もう一度言う。五日のうちに調べ上げろ。誰が誰と博打の借金で繋がっているか。誰が誰の女を寝取ったか。主従という縦の線などどうでも良い。見るのは、この網の『太さ』だけだ。一箇所を突けば、網全体が連動して締まる。その急所を特定せよ」
盛清の呼吸が、わずかに変わった。職人としての直感が、主君が語る「構造」の恐ろしさを察知したのだ。
「真田様……それでは、我らは敵を調略するのではなく、敵の組織そのものを自壊させるための操作員になれと仰せなのですか」
「左様だ。噂を流す標的は誰でも良い。狙うのはその男の『周囲』だ。周囲の目が変われば、本人の振る舞いは必然的に変わる。本人は何もしておらぬのに、疑われる側に立たされる。すると人は、無意識に己を守る動きを始める。その自己防衛の動きこそが、また新たなる疑いを呼ぶのだ。……盛清、疑心暗鬼は伝染せぬ。疑念に対する反応が伝染するのだ」
盛清の表情が凍りついた。自らの隠密術が、勝頼という巨大な脳髄の指先として組み込まれていく事実。
「城内で不自然な視線が増え、余計な言葉が減り、密談が疑われる。そうなればもう終いだ。誰が正しく、誰が誤解かなど、もはや関係のないことよ。勝頼様は、寝返りなど最初から求めておらぬ。選択肢を与える策は、救済の余地を与えるという点で、既に甘いのだ」
昌幸は筆を置き、行灯の火をじっと見つめた。
「勝頼様は、お前が天井裏に潜んでいると知りながら、あえてあの話を続けられたのだ。あれは余裕などではない。最初から、お前の耳さえも、自らの策を動かすための装置の一部として組み込んでおられたのだ。我らが聞き、我らが動き、我らが結果を出す。そこまで含めて、すでにあの方の掌の上にあるのだぞ」
盛清は深く頭を下げた。忍びとしての自尊心を根底から破壊され、代わりに人ならざる上位存在への心服がその魂に刻まれた。
「……恐ろしきお方にございますな」
「だからこそ、面白い。武功も家柄も、情緒も要らぬ世が来るぞ。理を回せる者だけが、次の千年に連れて行かれるのだ。行け、盛清。五日だ。弱みは見るな。ただ、関係の太さだけを調べ上げろ。わしがそれを、この不完全な網に組み込み、逃れられぬ『死の規矩』に仕上げてやる」
「はっ」
気配が消えた。昌幸は一人、机上の不完全な網を見下ろした。窓の外からは、甲斐の山々を渡る風が、一つの時代の断末魔のような音を立てて吹き抜けていた。
「城とは石ではないな……人の結び目だ」
その結び目に、ほんの小さな綻びを入れるだけでよい。あとは勝手に絡まり、勝手に締まり、勝手に息が詰まる。
「勝頼様……。これはもはや、戦ではありませぬな」
昌幸の口元に、野獣のような不敵な笑みが浮かぶ。
「崩れるように、仕向けるだけの処理にございますれば」




