第十三話:龍影戦慄
第十三話:龍影戦慄
退室を許す微かな衣擦れの音が、昌幸の耳には、分厚い城門が固く閉ざされる響きのように聞こえた。
平伏していた昌幸は、意識して止めていた呼吸を静かに吐き出し、ゆっくりと面を上げた。文机の前に座す勝頼は、すでにもう昌幸を見てはいない。手元の木簡を整理するその指先の動きは、ただひたすらに正確で、いっそ冷ややかなほどであった。
昌幸は音を立てぬよう立ち上がり、深々と一礼してから、静かに障子を閉めて部屋を辞した。
一歩、薄暗い回廊へ踏み出した瞬間、甲斐の冷たい夜風が汗ばんだ項を撫でた。その刺すような冷たさで、ようやく自らの肉体が生きて現世に繋ぎ止められていることを実感する。背筋を、一筋の冷たい汗が這うように流れ落ちていった。
(……何であったのだ、今のあの時間は)
昌幸は暗い廊下を歩みながら、自らの掌を見つめた。指先が、まだ微かに震えを帯びている。
これまでの短い人生においても、彼は幾人もの傑物や豪将と対峙してきたはずだった。偉大なる御館様である信玄の前に平伏した際も、その猛虎のごとき覇気に身を竦ませたことはある。だが、先ほど若き後継者から放たれていたものは、戦場を駆ける武人の凄みや、名門の当主が帯びる威厳といった類のものではなかった。
信玄と対峙した時の恐怖は、巨大な牙を持つ獣に正面から睨み据えられ、いつ喉笛を食い破られるかという生々しい死の予感であった。対して、勝頼から放たれていたものは、底なしの暗い淵を覗き込んだような、あるいは遥か天空から名もなき蟻を見下ろされるような、隔絶された冷たい威圧であった。そこには怒りも憎しみもない。ただ己という存在が、あらかじめ敷かれた巨大な絵図面の上の、一粒の石として算段されているのだろうという、身の毛のよだつ圧倒的な格の違いがあった。
「出浦よ……。おのれの主は御館様か、それともこの昌幸か。隠れておらんで、降りてこい」
昌幸が頭上の闇に向かって低く囁くと、音もなく、一人の黒い影が梁の上から舞い降りた。武田家の透波を束ねる頭領の一人、出浦盛清である。
盛清は武田に仕える忍びであると同時に、信濃国の北信地方に地盤を持つ国衆でもあった。同じ信濃の土脈に通じる真田家、とりわけ謀略の才に長けた三男坊の昌幸とは、気脈を通じる仲である。
武田家中において、甲斐出身の譜代家臣たちは絶対的な権力を握っており、信濃や上野から従った外様の国衆たちを、どこか値踏みするような目で見下している。名将と謳われる昌幸の父の幸隆でさえ、外様としての苦労は絶えない。ましてや家を継ぐあてもない三男坊の昌幸は、己の才覚一つでこの乱世を泳ぎ切るため、己の小遣いを削ってまでこの透波の頭領に銭を握らせ、御館様の目や耳すらもすり抜ける裏の目として、密かに取り込んでいたのだ。
しかし、死地を幾度も潜り抜けてきたはずのその盛清が、今はかつてないほどに顔を蒼白にさせ、浅い呼吸を繰り返していた。
「……真田様。あのお方は、もはや人ではございませぬ」
盛清の声には、感情を殺す忍びとしての冷静さを欠いた、根源的な畏怖が宿っていた。
昌幸は足を止め、闇の中に立つ盛清の顔を覗き込んだ。
「どうした。屋根裏で夜風にあてられでもしたか。あるいは、若殿の言葉の奇々怪々さに、透波の肝まで縮み上がったとでも申すか」
「言葉の恐ろしさもさることながら……某の潜む気配など、あのお方には初めからすべて筒抜けでございました」
昌幸の口元から、微かな笑みが消えた。
「なに。日ノ本随一と謳われるお主ほどの透波が、あの若殿に気付かれていたと申すか。お主の隠形は、御館様でさえ容易には見破れぬはずだぞ」
「はい。某も自らの技には誇りを持っております。息を殺し、衣擦れ一つ立てず、心音すらも静めておりました。だが、真田様に手足となる忍びを動かせと命じられたあの一瞬……。行灯の火が小さく爆ぜた時、あのお方の冷ややかな眼が、天井板の木目の隙間越しに、梁の上に伏せる某の双眸を真っ直ぐに射抜いたのでございます」
盛清は、自らの肩を抱くように身を震わせた。
「咎めるでもなく、忍びの存在に驚くでもなく、殺気を放つわけでもございませぬ。ただ、そこにおるな、ならば真田の駒として存分に働けと、遥か高みから見下ろすかのように……。あのお方の眼には、某が潜んでいることなど、とうの昔から算段のうちであったように思えました。いえ、某だけではございませぬ」
盛清は一歩、昌幸へと身を寄せ、声を極限まで落とした。
「おそらくあのお方は、武田譜代の宿老たちも、我ら信濃の外様も、等しく情け容赦のない盤上の算石としか見ておられませぬ。武田の血脈や古き恩義への未練など、あの冷たい瞳には微塵もございませんでした。ただ、己に、使えるか使えないか。それだけで人の値打ちを量っておられる」
昌幸は絶句した。
熟練の忍びの気配を察知する歴戦の武将はいる。だが、己の密談を天井裏で立ち聞きされていることに気付きながら、一切意に介さず、逆にその忍びの存在ごと自らの策の内に取り込み、あえて泳がせていたというのか。
昌幸はふと、闇に沈む館の奥、勝頼の部屋がある方向を振り返った。
彼の眼底に、恐るべき幻影がこびりついている。
勝頼の背後に立ち昇っていたのは、甲斐の山々を根城とする猛虎すらも容易く噛み砕き、日ノ本の空を黒雲で覆い尽くすほどの、巨大なる龍の姿であった。
あの龍の眼には、もはや身内の裏切りや小細工など、取るに足らぬ景色なのだ。武家社会が積み上げてきた名誉や忠義といった生き様が、あの静かな吐息の前では、無意味な塵芥へと化していく。
「……武田の後継ぎなどという、小さな器ではないぞ。あのお方は、この乱世そのものを根こそぎ作り変えようとしておられるのだ」
昌幸の口から、ひび割れたような独白が漏れた。
勝頼が今宵下した密命は、武田の領地を一つ二つ広げるといった卑近な戦の話ではない。この国にはびこる古い武士の常識を完全に解体し、かつてない冷徹な法治の国を打ち立てようとしているのだ。
だが、恐怖の底で、昌幸の胸の奥には狂おしいほどの歓喜の炎が燃え上がり始めていた。
甲斐の譜代たちが、古き忠義や戦場での武功ばかりを振りかざして威張る時代が終わるのだ。血筋の良し悪しや、家柄の重みではなく、ただ純粋な知恵と才覚、そして理を冷徹に回せる者だけが重用される新たな国。
ならば、名門の三男坊として日陰を歩むしかなかった自分にとって、これほど痛快で、血の沸き立つ絵図面があろうか。
「盛清よ、恐れることはない。むしろ我らにとっては、千載一遇の好機ぞ」
昌幸の瞳に、夜陰に光る山猫のような獰猛な光が戻った。
「あのお方が求めているのは、槍の長さや赤備えの突撃ではない。人の心の綻びを突き、敵を内側から崩壊させる見えざる謀だ。遠江の城に草を放て。標的の者には直接裏切りを持ちかけるな。ただ、家康はすでにこの城を見捨てている、早々に身の振り方を考えねば犬死にするぞという噂を、最も近しい者の耳から吹き込め」
盛清は忍びとしての本能で、さきほど聞いたその策の陰惨さに既に息を呑んでいたのだ。
「城内に疑心暗鬼の種を蒔き、自ら互いを食い破らせるということにございましたな」
「そうだ。外からの力で叩き潰すのではない。人心そのものを自壊させるということだ。それが、若殿が我らに求めた最初の手柄となる」
昌幸は深く息を吐き、自らの内にあった武田の将としての常識を、この夜を境に完全に捨て去る決意を固めた。
自分はもはや、古い恩義で縛られた一介の家臣ではない。歴史の新たな筋書きを力ずくで書こうとするあの男の手足として、運命を共にするという関係に身を投じたのだ。
その重みは、偉大なる信玄から受ける期待よりも遥かに重く、そして狂おしいほどに甘美であった。
「行くぞ、盛清。若殿が望まれた心の綻び、七日以内、いや五日に洗い出せ。城を内側から食い破る見えざる火種は、既に放たれたのだ」
昌幸は力強く一歩を踏み出し、深い夜闇の中へと身を翻した。
その後ろ姿は、もはや信玄の覚えめでたき若き知将のものではない。
主君の深き闇を預かり、敵を内側から崩壊させる、最初の暗躍者の背中であった。




