第十二話:城塞自壊
第十二話:城塞自壊
畳に額がめり込むほど深く平伏した真田昌幸の背を見下ろしながら、勝頼は文机の上に広げられた遠江国の絵図面へと静かに視線を落とした。
昌幸が先刻まで仄めかしていた探り合いの笑みはすっかり鳴りを潜め、代わりに、これから放たれる主君の真意を微塵も取りこぼすまいとする、猟犬のような凄絶な緊張感がその背中から立ち昇っている。
「昌幸、面を上げよ。……これより、実働に移るぞ」
昌幸がゆっくりと顔を上げると、そこには行灯の揺らぐ炎に照らし出された若き世子の、底知れぬほど凪ぎ切った双眸があった。勝頼は、二俣城と墨書きされた城郭の図をじっと見据えたままである。
「徳川の将が守るこの城。昌幸、そなたならばいかにして落とす」
昌幸は即座に、己の頭の中で幾度も構築してきた戦国の理を淀みなく吐き出した。
「二俣城は天竜川を背にし、北を険しき山々に囲まれた天険の要害。正攻法を以てするならば、まずは背後の山を制し、城に引き込まれた水の手を断つのが定石にして上策にございます。……されど、それでは時がかかりすぎまする。若殿が公言された三月で落とすとなれば、城内の不満分子を密かに煽り、黄金や恩賞を餌に内応を持ちかけるしか手はございませぬが……」
「及第点だ。……この日ノ本にはびこる、古き戦の定石としてはな」
勝頼の冷淡な一言が、昌幸の言葉をぴしゃりと遮った。
「黄金で寝返りを促す調略は、相手に裏切りの『覚悟』を強いる。ゆえに土壇場で踏みとどまられることもあれば、逆にこちらが寝首を掻かれる危うさもある。わしが求めるのは、そのような相手の腹積もりに依存する博打ではない」
昌幸の眉が、わずかに跳ねた。
草の者を放ち、敵将の人心に付け入る調略は、昌幸にとっても最も得意とする十八番である。だが、勝頼の口から漏れ出る言葉の論理は、これまでの武家社会における謀略の次元を遥かに超え出ようとしていた。
「備蓄された兵糧の数や、並べた槍の長さなど、わしに言わせれば戦の表層を飾るだけのものに過ぎぬ。昌幸、七日以内に調べ上げろ。あの城の守将の配下で、『博打の借銭』や『出世への不満』、あるいは『女を巡る見苦しき怨み』など、些細な『綻び』を抱えている臆病な男をな」
勝頼は懐から、小さく折り畳まれた一枚の和紙を取り出した。そこには、過去に宮廷で官僚を冷徹に管理し、意のままに操るために極め尽くされた、人心操作の理法が記してある。
「その男をあぶり出したならば、直接寝返りを持ちかけるな。わしの名も決して出すな。ただ、その男の最も近しき者に草の者を近づけ、こう『噂』を吹き込め。……『家康の本陣では、すでにこの城を見捨てる算段がついている。早々に身の振り方を考えておかねば、犬死にするぞ』とな」
昌幸は、その言葉の響きに、背筋に氷柱を突き立てられたような戦慄を覚えた。
勝頼が狙っているのは、意図的な裏切りではない。標的となる男の心の奥底に沈殿している不満や恐怖を利用し、「疑心暗鬼の種」を植え付けることなのだ。人は、不確かな噂と命の危機を与えられれば、己を守るために勝手に周囲を疑い始める。その疑念は必ず城内に伝染し、味方同士で腹を探り合い、やがて些細なことで刃傷沙汰を起こすようになる。
(恐ろしい……。調略ではなく、人心そのものの『自壊』を狙うというのか)
昌幸は、自らの裡で誇っていた智謀という名の慢心が、勝頼が突きつけてきた合理的な理の前に、音を立てて砕け散っていくのを感じていた。
偉大なる信玄公の采配は、確かに神懸かり的であった。だが、それはあくまで軍と軍がぶつかる戦場を支配する力である。対して、眼前に座すこの若き後継者が行おうとしているのは、人の心理の脆弱性を算術のように弾き出し、敵を内側から崩壊させる、冷酷なまでに洗練された謀であった。
「城という箱は、外からの力には強いが、内側からの『疑念』にはひどく脆い。そなたの手足となる忍びを即座に動かせ。……いいか、昌幸。わしが求めているのは、血を流し、武勇を誇示して得られる勝利などではない。あらかじめ敷かれた理によって、必然的に導き出される結末なのだ」
勝頼はそう言い切ると、手にしていた木簡を黒漆の天板の上に、かちり、と硬い音を立てて置いた。
その鋭い音は、この日ノ本を長らく支配してきた力押しの武の時代が終わりを告げる、静かなる葬送の鐘のようにも昌幸の耳には響いた。
「昌幸。……そなたならば、この疑心暗鬼の種をいかにして城内へ蒔き、いかにして大樹に育てるか。その表裏の才覚、しかと見せてもらうぞ」
昌幸は、武者震いによって小刻みに震える己の両手を必死に畳へ押し付けながら、再び深く頭を下げた。恐るべき策を突きつけられながらも、抗いがたい歓喜が体の奥底から激しく湧き上がってくる。
自分は今、誰も見たことのない新しき戦の理の、最初の目撃者であり、それを世に放つ最初の執行者になろうとしているのだ。
「御意。……この真田源太左衛門尉昌幸、若殿の描かれた絵図面、しかと形にしてご覧にいれまする」
肚の底から絞り出された昌幸の低い返答が、静まり返った座敷に重く響いた。
行灯の火が夜風にふっと揺れ、二人の影が壁面で、うねる巨大な龍とそれに付き従う猛虎のように重なり合う。
遠江の二俣城へと放たれる、城を食い破る見えざる火種が、いま、勝頼の指先から静かに落とされたのであった。




