第十一話:暗夜密約
第十一話:暗夜密約
夜の静寂を切り裂くように、奥の障子が音もなくすべった。
座敷に足を踏み入れたのは、真田源太左衛門尉昌幸である。武士特有の無骨な足取りとは程遠い、まるで闇夜に溶け込んで獲物の隙を窺う山猫のような、粘りつく足捌きであった。
昌幸は勝頼の数歩手前で歩みを止めると、恭しく、それでいて不敵な色を隠そうともせぬ笑みを浮かべて平伏した。
「……夜分に恐れ入りまする。先ほどは廊下にて、誠に背筋の凍るようなお言葉を賜りましたゆえ、居ても立ってもおられず参上つかまつりました」
昌幸の声には、己の身の程を弁えつつも、主君の真意を探り当てようとする探針のような響きが混じっている。
彼にとって、先刻の軍議で見せた勝頼の豹変、そして廊下ですれ違いざまに投げかけられた「利を見れば義を忘れる」という故事は、あまりにも魅惑的であったのだ。
現在の昌幸は、信濃の国衆である真田家の三男坊に過ぎない。長兄の信綱、次兄の昌輝という武勇に秀でた兄たちが健在である以上、本家の家督を継ぐ見込みは薄い。御館様・信玄の近習として目をかけられてはいるものの、このままいけば、いずれはどこかの城将として使い潰されるか、兄たちの陰に隠れて一生を終える身だ。己の裡で渦巻く底知れぬ智謀を持て余し、何者にもなれぬ焦燥感を常に抱えていたのである。
だからこそ、勝頼の口から飛び出した「三月で城を落とす」という大風呂敷が、単なる若気の至りなのか、それとも誰も思いつかぬ恐ろしい計略の端緒なのか、どうしても見極めたかった。もし後者であるならば、何者でもない己の才を売り込み、その壮大な盤面に一枚噛ませてもらおうという、強烈な野心に突き動かされてやって来たのである。
勝頼は、文机に積まれた木簡から視線を上げることなく、静かに口を開いた。
「昌幸。そなたが確かめに来たのは、わしの張った虚勢の『皮』の厚さか、それとも内側にある『まことの知』の正体か」
その声は、行灯の火を微塵も揺らさぬほど静かであったが、昌幸の鼓膜には、肚の底を直接鷲掴みにされるような重い響きとなって突き刺さった。
昌幸は、微かに眉を動かす。
「……さて、何のことやら。この昌幸、ただ若殿のあまりの神懸かりぶりに、身が震えただけにございます。お聞きしたあの御言葉、神仏の奇跡などではなく、この乱世の理を裏から操る、人の成せる『計略』の香りがいたしましたゆえ……この何者でもない三男坊の知恵が、少しでも若殿の描く絵図面のお力になれればと、這い出てまいった次第にございます」
自らの立場を卑下しつつも大胆に売り込む、不敵な物言い。相手がかつての勝頼であれば、不敬として一喝するか、あるいはその甘言にほいほいと乗せられていたであろう。だが、今の勝頼は、はるか大陸の宮廷で、数多の策士たちの舌先三寸を微笑一つで切り捨て、あるいは使いこなしてきた天子そのものである。
勝頼は、手にしていた木簡を卓上に音を立てて置くと、初めて昌幸の瞳を正面から射抜いた。
「面白い男だ。ならば、その『化かし合い』、わしが受けて立とう」
勝頼の口角が、わずかに吊り上がる。
「昌幸。三男坊の身でくすぶっているそなたが、ただ大人しく御館様に飼われているはずもなかろう。そなたほどの才と野心があれば……たとえば上野の国境あたりで、密かに北条の草の者を調略し、独自に探りを入れているのではないか。あるいは、父上が目をかけている吾妻の国人衆に対し、武田の名ではなく、己の才覚一つで密かに恩を売ろうとする小細工……その程度の裏の布石は、とうに打っておるのだろう?」
昌幸の表情が、一瞬にして凍りついた。
勝頼の言葉は、あくまで人物眼と経験則に基づく推論に過ぎない。だが、それは信玄の耳にすら入っていないはずの、昌幸が実際に水面下で進めていた独自の暗闘と、寸分違わず符合していたのだ。何者でもない自分が生き残るため、武田という巨木に縋りつつも、常に「次」の居場所を確保しようとする野心。それを、この若き主君は、己の思考の深淵から論理だけで導き出し、正確に暴いてみせたのである。
「……何故、そのように思われたので」
昌幸の喉が、引き攣ったように動く。
「何故、か。わしには見えるのだ、昌幸。そなたのように己の才を持て余した男が、いかなる闇を好み、いかなる毒を懐に忍ばせて歴史の裏側を歩こうとするのかがな」
(はるか大陸では、そなたのような『毒』を孕んだ謀臣は星の数ほどいた。わしはそれらをある時は容赦なく処断し、ある時は鎖を繋いで飼い慣らし、国の糧としてきたのだからな)
勝頼の全身から放たれる覇気が、肌を刺すような冷気となって座敷中に膨張し始めた。
昌幸は、己の呼吸が困難になるほどの重圧に息を呑んだ。目の前に座っているのは、やはりただの経験不足な若武者ではない。かつて数知れないほどの民の生殺与奪を握り、並み居る英傑たちを玉座の下に平伏させてきたであろう、測り知れぬ「格」の違いが見える。
昌幸の脳裏に、かつて信玄と対峙した時の記憶が過る。甲斐の虎と対面すれば、その鋭い牙に食い殺されそうな凄まじい威圧を感じた。だが、今の勝頼は違う。人という次元を遥かに超え、天の盤面を裏側から覗き込み、歴史という名の激流を指先一つで操ろうとする、得体の知れぬ上位存在のようである。
「昌幸。そなたの小賢しい策など、わしの前では砂の城に過ぎぬ。わしが求めているのは、わしの言いなりに尾を振るだけの飼い犬ではない。わしがこれから敷く非情なる大網を理解し、共にこの日ノ本の新たな歴史を創り出すことを愉しめる者だ」
勝頼の言葉が、昌幸の魂の深奥に、熱く、そして冷酷に突き刺さった。
昌幸の目に少しだけ残っていた不遜な探り合いの色は、完全に消え去っていた。得体の知れぬ恐怖は、限界を突破したところで歓喜の熱へと昇華される。己の底知れぬ知略を存分に吸い上げ、見たこともない天下の裏側へと連れて行ってくれる、途方もない「器」。それがいま、目の前で圧倒的な闇の光を放っている。
「……ありがたき幸せに存じまする!」
昌幸は、歓喜に声を震わせ、畳に額がめり込むほど深く平伏した。それは、形だけの主従の礼ではない。己のすべてを、この「正体不明の後継者」に捧げ、その猛毒を共に喰らうことを決意した瞬間の、心服の儀式であった。
「この真田源太左衛門尉昌幸、若殿の手足となり、存分に働いてごらんにいれまする。して……その、手始めの仕掛けとは何にございましょうか」
化かし合いは終わった。
勝頼は満足げに目を細め、卓上の木簡の一つを昌幸の眼前へと弾き飛ばした。
「さて、まずは三月で落とすべき遠江にある徳川の城だ。昌幸、城壁の厚さを測るような児戯は不要だ。……わしが求めるのは、人の心の『腐らせ方』だ」
行灯の火が、小さく爆ぜる。
漆黒の闇に包まれた躑躅ヶ崎館の一室で、中世の常識を根底から食い破る非情なる暗躍が、今まさに始まろうとしていた。




