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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第十話:表裏毒駒

第十話:表裏毒駒


 黒漆の天板に放られた木簡が、からり、と硬く冷ややかな音を立てて滑った。

 行灯の火が夜風に微かに揺らぎ、勝頼の彫りの深い顔立ちに濃い陰影を落としている。二十六という瑞々しい肉体の奥底に潜む和帝の魂が、静かに、されど背筋の凍るような速さで、これより始まる国造りの算段を巡らせていた。


(さて……この家を、外敵を寄せ付けぬ盤石の国へと造り替えるための、人成しの振るい分けを始めねばならぬ)


 勝頼は、卓上に無造作に積まれた木簡を、冷たい指先で一つずつ拾い上げ、整列させ始めた。そこに墨書きされているのは、かつて一度目の生において、己を最後まで庇い、あるいは共に泥濘へと沈んでいった宿老たちの名である。

 彼はまず、「山県三郎兵衛昌景」と記された木簡を手に取った。

 脳裏に、先刻の評定の間で力攻めを吠え猛っていた、あの小柄なる猛将の顔が浮かぶ。

 昌景。そなたの武辺は、はるか中原の戦場に並べ立てるならば、張文遠のごとき、己の身一つで戦局を蹂躙し得る凄まじい「個の矛」だ。

 だが、その強さはあまりに「人の情」に寄りかかり過ぎている。昌景が誇る赤備えの強襲は、兵たちの熱狂的な忠義と、死地への恐怖を精神力でねじ伏せることによってのみ成り立っているのだ。

 勝頼がこれから築き上げようとする国には、そのような移ろいやすい気炎は不要である。必要とされるのは、兵の一人に至るまでが均質に法に従って整然と動く軍陣だ。昌景は、その軍を動かすための鋭き「刃」にはなり得ても、大網を描く「采配の主」には決してなれぬ。


(馬場美濃守信春……。そなたは、荀文若にはなれぬな)


 次に「馬場信春」の名を指でなぞる。老練にして沈着、武田の知恵袋と称される男。だが、その知恵の底にあるものは、あくまで古き良き中世の「情け」と「経験の束」に過ぎなかった。彼は主君を慈しみ、家臣の命を徒に散らすまいと心を砕く。その優しさは、国という名の巨大な絡繰りを非情に回す上では、時として歯車を狂わせる「砂」となるのだ。

 信春が何より重んじているのは「武田の家」が存続することであり、今の勝頼が求めているのは「武田家そのものの作り変え」である。この途方もない目線の違いは、一度目の無惨な死を経験した者でなければ、とうてい埋め合わせることのできぬ深い溝であった。


 勝頼は、手元の木簡の束を、自らの物差しに従って三つの山に分け始めた。

 一つは「武を担う手足」。戦場の制圧のみを任せ、決して政には関わらせぬ者たち。

 一つは「法を回す種」。情に流されず、徴税や土木を掟通りに冷徹に執行させる、これから育て上げるべき文官の候補たち。

 そして最後の一山は――「己の猛毒を喰らわせるための劇薬」である。


 勝頼の指が、数多の宿老たちの下に埋もれていた、一際粗末な一本の木簡でピタリと止まった。

 「真田源太左衛門尉昌幸」。

 信濃の国衆である真田家の三男坊。長兄の信綱、次兄の昌輝という武勇に秀でた兄たちの影に隠れ、本来ならば真田の家督すら継ぐことはなく、一介の近習や将として終わるはずの身だ。一度目の生においても、この男がその恐るべき才覚を世に剥き出しにするのは、武田の家が没落の道を転げ落ちてからのことであった。


 その名を一瞥した瞬間、勝頼の口元が微かに吊り上がった。

 先刻の評定の間で、古参の者たちが一様に自らの変貌に得体の知れぬ畏怖を抱く中、ただ一人だけ、深淵を覗き込むような好奇の視線を向けてきた男。そして散会後、仄暗い廊下の陰から言葉を投げかけ、我が真意を値踏みしようと試みたあの若武者。

 あのひりつくような知恵比べの熱。あの異端の才が、父・信玄の定めた古き序列の下敷きとなって腐り落ちるなど、天下の損失に他ならない。だからこそ、勝頼はこの底に沈んだ木簡を、真っ先に泥の中から引き上げるのだ。


(昌幸よ。そなたの中に、わしはあの男の影を見ている。……陳公台よ)


 中原の荒野において、絶望的な劣勢に立たされながらも、卓上の計略だけで数万の敵軍を死地へと誘い込み、ついには帝国の礎を築き上げたあの痩身の策士。昌幸の全身から立ち昇る気配は、他の家臣たちがまとっている泥臭い「武士の薫り」とは明らかに異なっていた。

 それは、人の心が抱える業や暗部を地図として広げ、偽りと真実を巧みに織り交ぜて戦場に拭いがたい裂け目を作り出す、大陸の「謀臣」特有の甘く危険な毒の匂いであった。

 外様である真田は元々、武田という主家に無私の忠誠を誓っているわけではない。ましてや家を継ぐあてもない三男坊たる彼には、己の才覚を存分に使いこなし、見たこともない天下の高みへと引き連れて行ってくれる、途方もない「器」を渇望する強烈な飢えがあるのだ。


(ならば、わしがその飢えを満たしてやろう。……ただし、そなたが想像だにできぬほどの、この島国にはない非情なる法の下でな)


 勝頼は、昌幸の木簡を、己の懐に最も近い位置へと置き直した。

 一度目の己には、この劇薬を御し切るだけの肚の据わりが足りなかったのだろう。だが今の勝頼は、万の民を玉座の下に平伏させてきた天子である。古今無双の英傑も、神算鬼謀の策士も、あるいは天の意思でさえも、今の彼には、すべては使い潰すための駒の一つに過ぎない。


 行灯の灯火が、ぱちりと小さな音を立てて爆ぜた。

 勝頼は並べ終えた木簡の陣立てを眺め、酷薄な笑みを浮かべた。

 山県。馬場。内藤。高坂。穴山。小山田。

 かつて戦場に倒れ、若しくは、己を裏切って見捨てた者たちが、今、勝頼の新たな掟の枠組みの中に整然と閉じ込められている。彼らはまだ知る由もない。彼らが骨の髄まで信じ込んできた「武田の常識」が、若これから、根こそぎ解体されていくことを。


 ふと、勝頼は音もなく立ち上がり、闇の濃い廊下へと視線を向けた。

 障子の向こう、夜の静寂を縫うようにして、忍び足とも違う、確かな野心を孕んだ足音が近づいてくるのを、勝頼の耳は正確に捉えていた。

 おそらく真田昌幸だろう。呼びもせぬのに自らで我が領域に足を踏み入れてくるとは。よほどわしを見極めたいらしい。しかし、それでこそ、使える男とも言える。


「……入れ。待っていたぞ、昌幸」


 短く言い放った瞬間、勝頼の纏う空気は、瑞々しい二十代の若武者のそれから、万象を底知れぬ深みから見下ろす絶対者へと再び変容を遂げた。

 歴史の筋書きを力ずくで書き換えるための、苛烈なる国の立て直し。その最初の一打を叩き込むための最上の毒駒が、今、龍の伏す部屋の前へと辿り着いた。

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