第百五十四話:客将之座
第百五十四話:客将之座
障子の向こう側からは、途切れることのない車輪の軋みが、地を這うように館の奥深くまで響いてきていた。
それに混じって聞こえるのは、問屋役が厚い和紙の手形を読み上げるくぐもった声と、銭の束が木箱の底へ落ちる鋭い響きである。さらにその間隙を埋めるように、算盤の玉を弾く乾いた高い音が、まるで降り続く小雨のように甲府の町全体を包み込んでいる。
外の喧噪は、槍を合わせる鬨の声でもなく、陣太鼓の腹に響く音でもない。兵火の気配はなく、物を動かし、銭を巡らせ続けるための、規則正しく冷徹な鼓動であった。
「駿河口、塩五十俵! 赤札へ付け替えよ!」 「美濃和紙三十束、手形印改め!」 「相模より海草五駄、帳面へ記せ!」
荷車の軋む音は、一台が過ぎ去る前に次の車輪の音が重なり、決して途絶えることがない。積荷の重さによって車軸がたわむ低い音、空荷の車が石を弾く軽い音。馬がいななき、人足の掛け声が交差する。
甲府の町は、まるで一つの巨大な生き物のように呼吸をしていた。どこからか運び込まれた物資は、手形と銭を介して瞬時に別の所有者へと移り、赤や黒の札を付け替えられては、また別の国境へと向かって吐き出されていく。武田菱を染め抜いた暖簾が風に翻る音すら聞こえてきそうなほど、外の世界は異常なまでの熱を帯びて動いていた。
だが、その巨大な鼓動が響き続ける外の世界とは裏腹に、広間の中は深い水の底に沈んだかのような息苦しさに支配されていた。
上座には、武田勝頼が座している。
数歩隔てた下座には、上杉景勝と上杉景虎が、互いに僅かな隙間を空けて並び、その後ろに直江信綱と本庄秀綱が控えている。
勝頼がこの部屋に姿を現してから、どれほどの刻が流れたのか、誰にも定かではなかった。勝頼は入室するなり、一言の挨拶も交わすことなく上座に腰を下ろし、小姓が運び込んだ小さな文台の上に置かれた分厚い帳面に、視線だけを落としていた。
分厚い和紙がめくられる、擦れるような音がした。
勝頼の指先が、墨で記された数字の列を一つ一つ、ゆっくりとなぞっていく。その動きには一切の滞りがなく、時折、小筆を取って硯でしごき、朱を引き、また次の頁をめくる。
景勝も景虎も、口を開くことができなかった。
腰に刀はない。帯の間に挟まっているのは、布の余りだけである。武士としての最も重い証である刃を外された状態で、彼らは他国の主の前に並んで座らされていた。それは単なる非武装の強制ではなく、戦うという権利そのものを剥奪されたことを暗に示しているようであった。
景勝の膝に置かれた両手は、袴の布地を固く掴み、指の関節が血の気を失って白く変色していた。景勝の目は、勝頼の顔と、その手元にある帳面との間を彷徨っていた。
景虎は、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、瞬きすら忘れたかのように勝頼の顔を凝視している。額には脂汗が滲み、呼吸のたびに喉仏が小さく上下していた。彼の中に渦巻く焦燥と敵意は、分厚い氷の下に閉じ込められた炎のように、行き場を失ってくすぶっていた。
広間に差し込む西日が、徐々に角度を下げ、真新しい畳の目を斜めに照らし出している。空気中の微細な埃が、光の帯の中でゆっくりと舞い上がっては沈んでいくのが見えた。
硯から漂う墨の匂いが、新しい井草の香りと混ざり合い、部屋の空気をいっそう重くしていた。
「越前打ち刃物、十箱! 手形参百拾番!」 「駿河銭、百貫! 両替へ回せ!」 「信濃口より青苧二十駄! 蔵へ収めよ!」
外から、役人の声がひときわ高く響いた。青苧という言葉が耳に届いた瞬間、景勝の肩が強張った。
その声を合図にしたかのように、景虎がわずかに顎を引いた。唾を飲み込む音が鳴った。景虎は、一度深く息を吸い込み、それを細く吐き出してから、口を開いた。
「勝負は、決した」
その声は、広間の張り詰めた空気を震わせた。外の喧噪に負けぬよう声を張ったわけではない。だが、長く重く続いた息詰まる時間を打ち破るには、十分な重さを持っていた。
景虎は、真横に座る景勝を一切見なかった。真っ直ぐに、上座で帳面から目を離さない勝頼だけを見据えていた。
「御館の兵糧は尽きた。我を支持した者たちは散り、あるいは降った。越後の国主は、景勝に決まり申した」
勝頼は、帳面から目を上げなかった。朱筆の先が、和紙の上の数字の横に小さな印を付けただけである。木と筆の毛先が擦れる音が、広間に落ちた。
景虎は、構わずに続けた。
「我は敗者だ。この甲府へ呼び寄せられた理由が何であれ、刃を交える前に干上がった以上、決着はすでについておる。我に戦を続ける手立てはもうない。ならば、我は越後へ戻る」
その後ろで控えていた本庄秀綱が、衣を擦らせて息を呑む音がした。
敗れた者が、勝者の治める国へ戻る。それが何を意味するかは、その場にいる全員が知っていた。反逆の将として裁かれ、命を散らすこと。武士の理としては、それ以外に道はない。景虎は、自らの血をもってこの越後を二分した争いを締めくくる覚悟を、言葉の端々に滲ませていた。
「我が首をいかがするかは、景勝が決めること。それが、上杉の理にござる。これ以上の無用な引き留めは、御免被りたい」
景虎の言葉が終わると、広間は再び外の算盤の音だけに取り残された。
景勝は、顔を伏せたまま動かなかった。彼の膝の上にある両手は、先ほどよりもさらに固く袴を握りしめている。
勝者である景勝にとっても、景虎を越後へ連れ帰り、自らの手で裁くことは、当主として避けては通れぬはずであった。その最後の仕上げを行わねば、一度の鬨の声も上がらぬまま終わったこの争いの意味が宙に浮いたままになる。城下は困窮し、蔵を空にし、青苧を腐らせてまで手に入れた勝利である。形はどうあれ、越後の内側で決着をつけねばならない。それが、戦国を生きる大名としての唯一の筋道であった。
勝頼の指が、帳面の頁をめくった。
重い和紙が重なり合う鈍い音が響き、勝頼は筆を硯の縁でしごいた。余分な墨が硯の海へと落ちる黒い雫の音が鳴った。
勝頼は、景虎を見なかった。
視線を帳面から上げ、下座で俯く景勝の頭頂部へと向けた。
その目は、感情の全くこもっていない、そこにある数を数え上げるような暗く冷たい色をしていた。怒りも、憐憫も、あるいは野心すらも読み取れない。深い淵のような眼差しであった。
「帰してはならぬ」
広間の空気が、一瞬にして凍りついた。
勝頼の声は、決して高くも大きくもなかった。帳面に書き込む数字を読み上げるのと同じような、平坦で起伏のない響きであった。
だが、その短い一言が畳の上に落ちた瞬間、景勝の肩が跳ねた。景勝の後ろに控える直江信綱の衣が、擦れる音を立てた。
景勝は、ゆっくりと顔を上げた。
その双眸には、理解の及ばぬものを見るような戸惑いが浮かんでいた。勝者であるはずの自分が、敗者を連れ帰る自由を剥奪された。上杉の人事に、武田が一言で介入したのである。景虎は北条の血筋でもある。勝手に留め置けば、北条が黙っているはずもない。だが勝頼は、その先に待つ北条との軋轢すら意に介さぬように、その一言を落とした。
反論は、できた。
上杉の当主として、それは我が家の内儀であると撥ね付けることはできたはずだった。
だが、ここで口を開けば、それは武田の裁定に抗う者として立ち塞がることになる。それが何を意味するかを思った瞬間、景勝の喉は深く閉ざされた。
一言でも逆らえば、越後に入る米と銭の道が完全に絶たれる。武田の商流から外れた隣国がどうなるか、景勝はすでに理解し始めていた。刀を抜かずとも、武田には景勝の首を締め上げる圧倒的な力が備わっている。
景勝の唇が震え、言葉が張り付いて出てこない。指先が、畳の縁を削るように強く押し付けられた。
「な……」
先に声を絞り出したのは、景虎であった。 景虎の背筋が強張り、畳についた両の拳が小刻みに震えていた。
「帰してはならぬ、と申されたか」
勝頼は答えない。再び視線を帳面へ落とし、筆の先で何かをなぞっている。
「我は敗れたのだ!」
景虎の声が、ついに広間の中で張り裂けるように響き渡った。
それは、武士としての誇りを根底から踏みにじられた者の、怒りというよりも悲鳴に近い響きであった。
「我を裁くのは、上杉の当主である景勝の役目であろう! 我が越後へ戻って腹を切らねば、御館で空腹に耐えた者たちの無念はどこへ行く! 誰がこの争いの終わりを告げるのだ!」
景虎は、体を前のめりにし、勝頼に向かって身を乗り出した。後ろで本庄秀綱が「殿」と短く制する声を上げたが、景虎の耳には届いていないようであった。
畳を掴む景虎の手の甲に、青筋がはっきりと浮き出ている。
「当主と決まったのは、景勝だ! 我ではない! ならば我は、勝者に裁かれねばならぬ! それとも武田は、上杉の家中にまで口を挟み、生殺与奪のすべてを奪うと申すか!」
景虎の問いかけは、鋭利な刃のように勝頼へ向けられた。
景虎にとって、戦とはそういうものであった。勝てばすべてを奪い、負ければすべてを失う。敗者として死を賜ることこそが、最後に残された武将としての誇りであった。それを奪われるということは、自分の生きてきた理そのものを否定されることに他ならなかった。戦うことすら許されずに敗れた意味すらも、塵芥のように扱われている。
勝頼の手が止まった。
筆を硯の上に置く。木と石が触れ合う、小さな音が鳴った。
勝頼は、顔を上げた。
その視線は、激昂する景虎の顔を捉えているようでいて、実はそのさらに奥にある何もない空間を見つめているようであった。
「そうか」
勝頼の口から漏れたのは、その一言であった。
肯定でもなく、否定でもない。同情も、嘲りも、そこには一切含まれていなかった。明日の天候の報告を聞いたときのような、あるいは帳面の端に記された米の数を確認しただけのような、ひどく無関心な響きであった。
景虎の呼吸が、荒く乱れた。
喉の奥から、くぐもった呼気が漏れる。景虎の両目は大きく見開かれ、目の前の男の顔を睨みつけていた。
激しい怒りも、理路整然とした反論も、何も返ってこない。虚無だけが投げ返された。武田の権威を示すための見せしめか、北条への牽制としての駒か、あるいは景勝を操るための人質か。どのような理由であれ、理由さえあれば景虎は納得できた。恨むべき相手として、勝頼を睨むことができる。
だが、この「そうか」という一言には、その理すら存在しなかった。
「違うと申すか……!」
景虎は、歯を食いしばり、言葉を絞り出した。額には脂汗が滲み、畳を掴む指の爪が白く欠けそうになっていた。
「我が越後へ戻らねば、争いの火種は残ったままとなるだろう! 我をここで生かしておけば、必ずまた上杉は割れるのだ! それでも構わぬと申すか!」
勝頼は、動じなかった。
彼の視線は、もはや景虎から外れていた。
見つめた先は、自らの手元にある帳面の頁である。勝頼は小筆を取り直し、墨をたっぷりと含ませると、先ほどまでなぞっていた数字の横に、するすると朱を引き始めた。
目の前で絶叫する男のことなど、視界の端にすら入っていないような無機質な動作であった。
一拍ののち。
筆を滑らせたまま、勝頼は言った。
「……さあな」
景虎の問いに正面から応えることを放棄した、ひたすらに冷え切った響きであった。
景虎の命の行く末すらも、外で数えられている米俵や布の反物以下のことであるかのように、勝頼は一度も顔を上げなかった。
景虎は、口を半ば開けたまま、それ以上の言葉を継ぐことができなかった。
振り上げた拳の行き場を失い、渾身の力で放った矢が、霧の壁に吸い込まれて消えてしまったような感覚であった。
勝頼は、景虎の存在を敵としてすら扱っていない。処断すべき相手でも、利用すべき人質でもなく、甲府に置いておくべき何かとしてしか見ていない。
自分が、武士として扱われていない。
その事実が、景虎の背筋に冷たいものを這わせた。
なぜだ。なぜ我はここにいる。なぜ腹を切ることを許されぬ。
問いは幾つも浮かんだが、それをぶつけるべき相手は、帳面の中の数字しか見ていなかった。
広間の隅では、小姓が新しい行灯に火を入れようと、擦り木を回していた。
火打石の音が響き、やがて油を吸った灯心に、小さな黄色い炎が灯った。その炎が揺れるたびに、景勝と景虎の顔に落ちる影が、生き物のように蠢いた。
景勝も、無言であった。
彼は、勝頼の「帰してはならぬ」という宣告を、抗うことのできない楔として受け止めていた。
景虎を裁く権利を奪われた。その一事をもって、自らの当主としての権限が一瞬にして消え失せた事実が、景勝の肩に重くのしかかった。景勝の視線は、行灯の火影が這う畳の目から動かない。
勝頼の真意は分からない。なぜ殺さぬのか。なぜ越後へ帰さぬのか。北条の怒りを買ってまで、武田は何を企んでいるのか。その尺度が全く見えなかった。
反逆者を裁くという大名として当然の振る舞いすら許されない。得体の知れない強大な力が、自らの首元に刃を突きつけることもなく、締め付けている。その正体のわからない恐怖だけが、景勝の腹の底に冷たく沈殿していた。
景勝は、奥歯を強く噛み締め、顎の筋肉を震わせながら、黙り込むしかなかった。
兄弟でありながら、そして一度も刀を交えることなく勝者と敗者に分かたれた宿敵でありながら、景勝と景虎は今、全く同じ種類の空白を抱えていた。勝頼から明確な答えを引き出せなかったという事実だけが、二人の間に重く横たわっている。
直江信綱は、景勝の背後で、目を伏せていた。
信綱の呼吸は浅く、衣の下で身震いをしている。春日山の評定の場で、彼が喉の奥から絞り出した問いの答えが、目の前で形を成しつつあるように思えた。
勝者は、勝者としての権利を振るうことができない。
敗者は、敗者としての死を与えられない。
勝頼は何も説明しない。何も語らない。「帰してはならぬ」と命じ、「そうか」「さあな」とだけ答えた。
刀を抜くことすら許されずについた勝敗の意味が、勝頼の広げる帳面の上で、無言のままに処理されている。
信綱の視線は、行灯の揺らぐ光を茫然と追いかけていた。
勝頼は、再び帳面を引き寄せた。
次の頁に目を移す。
もう、景虎の顔を見ることはなかった。景勝へ向けて言葉を継ぐこともなかった。
彼にとって、この会談はすでに終わっていた。景虎を甲府に留め置くという事実だけが確定し、それ以上の議論は不要であった。
「……信濃口、木曾檜二十本! 帳面へ記せ!」 「甲斐金、五十両! 受け取り印!」
外から、再び問屋役の声が聞こえた。
荷車の車輪が軋む音が、広間の空虚を容赦なく引き裂いていく。
勝頼が、不意に帳面を閉じた。
重い和紙が重なり合う鈍い音がして、筆が置かれる。
勝頼は無言のまま立ち上がると、振り返ることなく、広間の奥の障子へと歩いていった。
足袋が板間を擦る足音が遠ざかり、やがて障子が閉められる音がした。
広間には、景勝と景虎、そして二人の家臣だけが残された。
行灯の火が、小さく爆ぜた。油の燃える匂いが漂う。
外では、算盤の玉の音が、まるで彼らが失った時間を数え上げるかのように、絶え間なく鳴り続けていた。手形が交わされ、銭が落ち、荷車が動く。
景虎は、畳の目をじっと見つめたまま、動くことができなかった。
この甲府において、自分が何者であるのか。答えのない問いだけが、外の冷徹な鼓動とともに、いつまでも広間の中に響き続けていた。




