第百五十五話:上杉存続
第百五十五話:上杉存続
勝頼の足音が廊下の奥へと完全に消え去った後も、広間には重い沈黙が澱のように沈み込んでいた。
障子を一枚隔てた外側からは、相変わらず甲府の町が脈打つ音が容赦なく入り込んでくる。車輪が軋み、馬が嘶き、銭の詰まった箱が板の間に置かれる鈍い響き。算盤の玉が幾つも弾かれる乾いた音の連なりが、広間の空気を微かに、しかし絶え間なく震わせている。
先ほどまでこの部屋の空気を支配していた「さあな」という短く平坦な声が、景勝の耳の底に何度も反響していた。
勝頼の顔には、殺意も、勝者の傲慢も、他国を組み伏せる歓喜の影すらなかった。ただ目の前にある帳面の数字だけを追い、越後の覇権を巡る争いさえ、米の収穫量や布の反数と同列の、些末な項目のように扱っていた。
はぐらかされた。
景勝の喉の奥が、乾いた音を立てた。否定も肯定もされず、己の問いそのものが空中に放り出されたような感覚が、腹の底に重く滞っている。景勝の両手は、袴の膝の上に置かれたまま、微動だにしなかった。指の関節が白く浮き上がり、分厚い布地に深い皺を刻んでいる。
御館との戦。本来ならば刃を交え、血で雪を赤く染める大戦になるはずだった。しかし、見えない銭と荷の動きに首を絞められ、一度の鬨の声も上がらぬまま、争いは静かに窒息した。上杉の兵は一人も欠けていない。春日山城の石垣も健在だ。その果てに、景勝は越後の当主という座を確かに掴んだ。
だが、血に濡れた軍配の代わりに彼が握らされたのは、売り先を失って腐りゆく青苧の異臭と、空になった金蔵に鳴る虚ろな風の音だけだった。
そして今、唯一残されていたはずの「勝者として敗者を裁く権利」すらも、勝頼の一言によって奪われた。「帰してはならぬ」。その宣告は、刀を突きつけられたわけでもないのに、景勝の手足を縛り上げ、見えない巨大な檻の中へ閉じ込めていた。理不尽への怒りを爆発させようにも、その矛先を向けるべき相手は、すでにここにはいない。
景勝は、喉の奥で冷たい息を呑み込んだ。畳の目を這う行灯の光が、その強張った横顔を赤く照らし出している。
数歩隔てた下座では、景虎がうつむいたまま、石像のように固まっていた。
彼の両手は畳の上に突き出され、指先が新しい井草を掻きむしるように曲がっている。額からは玉のような汗が滲み出し、鼻筋を伝って畳へ落ちた。小さな染みが一つ、また一つと広がっていく。
景虎の喉仏が、苦しげに上下した。
敗れた。いや、刀を交える前に戦う意味を奪われたのだ。死を賜ることこそが、最後に残された武士としての誇りであったはずだ。その死をもって、彼に従い、飢えに耐えた者たちの無念を背負い、争いの幕を引く。
だが、それすらも許されなかった。
勝頼のあの目は、景虎を越後国主の反逆者として見ていなかった。ただ、そこに置いておくべきもの。甲府という巨大な仕組みの中に組み込まれた、名もなき一つの歯車。
足先から血の気が引き、冷え切っていく。自分だけが、この部屋から――いや、この戦国の世から、完全に切り離されたようだった。景虎の口が、微かに開いた。だが、意味のある言葉は何も紡がれず、ただ擦れたような呼気だけが漏れ出た。
直江信綱と本庄秀綱は、主君たちの背後に控えたまま、衣擦れの音一つ立てなかった。
信綱の目は、畳の一点をじっと見つめていた。彼の耳には、甲府の喧噪が、まるで一つの巨大な算盤が弾かれているかのように鳴り響いていた。荷車が動き、銭が落ちる。あの無機質な音こそが、血を流さずに上杉の喉元を締め上げた正体だ。たとえ今、刃の届く間合いで勝頼の首を刎ねたところで、外の算盤が止むわけではない。その絶望的なまでの巨大さが、信綱の背に冷たい粟を生じさせていた。
やがて、景勝がゆっくりと顔を上げた。
行灯の火が揺らぎ、彼の顔の半分を深い影が覆う。
景勝の視線は、虚空を漂ったのち、隣に座る景虎へと向けられた。
かつて春日山で、同じ毘沙門天の旗を見上げた日の面影は、もう残っていなかった。共に関東へ馬を走らせ、同じ雪の冷たさを知る男。だが今、彼の目に映っているのは、行灯の光に照らされた、酷く痩せこけた男の横顔であった。
二人の間に横たわるものは、もはや憎しみではない。同じ得体の知れない力によって宙吊りにされ、自己の存在理由を奪われた者同士の、静かな空白だけだった。
景虎の呼吸は乱れ、肩が微かに震えている。
景勝は、膝の上に置いていた手をゆっくりと解いた。
袴の皺を掌で何度かなで下ろす。分厚い布の擦れる音が、広間の静寂の中に小さく響いた。彼は、体を少しだけ景虎の方へ向けた。そして、ゆっくりと、深く頭を下げた。
直江信綱が、息を呑む音がした。本庄秀綱もまた、信じられないものを見るように目を見開いた。
景勝の額が、畳の縁に触れるすれすれで止まる。 彼は、そのままの姿勢で、口を開いた。
「……謙信公の、もう一人の子よ」
その声は、低く、しゃがれていた。
戦わずして、勝敗の意味すらも共に奪われた二人。景勝の口から出たのは、二人がかつて同じ父を持ち、同じ武士としての理を生きていたという、ただ一つの事実だけであった。
景虎の肩が、びくりと跳ねた。
うつむいていた顔が、ゆっくりと持ち上がる。
景勝は、頭を上げた。その双眸には、もはや敵意も、侮蔑もなかった。あるのは、凍てつく日本海の風に似た、重く冷たい覚悟の色だけであった。
「越後の国主は、景勝が継ぐ」
景勝の声には、迷いがなかった。だが、そこには誇らしさの欠片もなかった。
「……されど、越後の外に、もう一つの上杉の名が残る。おぬしは、甲府の客将として生きられよ。……それが、当主たる我の、最後の裁きだ」
景虎の唇が、微かに震えた。
何かを言い返そうとしたが、言葉は形にならなかった。景虎は、唇を強く噛み締めた。その歯の隙間から細い息が漏れる。彼は、景勝の目を見つめ返したのち、初めてその視線を逸らした。
景虎は、ゆっくりと目を閉じた。深く、長い息が、彼の口から吐き出される。
それきり、景虎は何も言わなかった。
先ほどまでの、行き場のない怒りと焦燥に満ちた沈黙から、全てが失われた後に残る、静かで重たい沈黙へ。それは、二人の間に存在した「戦」というものが、完全に息の根を止められた瞬間であった。
景勝は、静かに立ち上がった。
直江信綱が、その後を追うように無言で腰を上げる。景勝は、振り返ることなく、広間の障子を開けた。
廊下へ出ると、夜の風が頬を打った。外の町からは、相変わらず荷車の音と算盤の音が、途切れることなく響いてくる。
景勝の足取りは、鉛のように重かった。彼が向かう先は、廊下の奥、先ほど勝頼が消えていった執務の間である。
途中、渡り廊下に差し掛かったところで、景勝はふと足を止めた。
至る所で焚かれた篝火により、夜更けでありながら城下町が見える程度には明るい。夜空は冷たく澄み渡り、冬の風が吹き抜けていくが、眼下の町からはむせ返るような熱気が立ち上ってきていた。
絶え間なく行き交う荷車の列。重い荷を積んだ車輪が石畳を軋ませる音が、腹の底まで響いてくる。その隙間を縫うように歩く商人たちの衣には、紅や藍が惜しげもなく使われていた。
風に乗って、聞き慣れた越後訛りの大声が景勝の耳に届いた。 「越後の青苧、十駄! 支払いは武田の印付き手形にて頼む!」
越後の商人が、越後の品を売り、武田の朱印が押された和紙の手形を、まるで宝のようになでさすりながら懐へ収めている。その顔には、戦の恐怖も、明日の飢えへの不安もない。
広場の片隅では、大鍋からもうもうと白い湯気が立ち上っていた。味噌と米の炊ける濃厚な匂いが、冬の冷気とともに鼻腔をくすぐる。炊き出しの列に並び、木椀に盛られた熱い粥を掻き込んでいる者たちの中には、越後特有の粗末な麻の単衣をまとった流民たちの姿があった。
城は落ちていない。武士は一人も死んでいない。だが、越後はもはや、武田という巨大な心臓を通らねば、自ら呼吸することすらできない体になっていたのだ。
景勝は、欄干を握る手に力を込めた。古い木の表面が、ぎしりと鳴った。
彼は深く息を吸い込み、冷たい空気を肺の奥まで満たすと、再び執務の間へと歩き出した。
小姓に取り次ぎを頼むと、ほどなくして襖が開かれた。
部屋の中には、濃厚な墨の匂いと、古い和紙の埃っぽい匂いが満ちていた。文台の向こう側で、勝頼は先ほどと全く変わらぬ姿勢で、分厚い帳面に小筆を走らせていた。景勝が部屋に入り、敷居を跨いでも、勝頼は顔を上げなかった。筆の先が和紙を擦る音だけが、等間隔で鳴り続けている。
景勝は、文台から数歩離れた畳の上に、静かに座を下ろした。冷たい畳の感触が、袴越しに膝へ伝わる。両手を揃え、指先を揃えて畳につく。
これ以上意地を張れば、誇り高き武士たちが槍を抱えたまま雪の中で餓死する。
景勝は、奥歯を噛み締めた。顎の筋肉が硬く張り詰め、こめかみに青筋が浮かぶ。ゆっくりと、息を吸い込む。そして、腹の底から絞り出すように、言葉を口にした。
「……米を、貸していただきたい」
その一言は、掠れていた。だが、部屋の空気を確実に震わせた。
文台に向かっていた勝頼の手が、一瞬だけ止まった。筆の先から、墨の雫がぽたりと落ちる。
勝頼は、顔を上げなかった。視線は帳面の数字に落としたまま、筆を硯の縁で軽くしごいた。微かな木と石の触れ合う音。
そして、勝頼は、感情の一切こもっていない平坦な声で、短く応えた。
「良い」
それだけだった。
条件を並べ立てることもなく、恩着せがましい態度を取ることもない。
勝頼は再び筆を動かし、次の頁へと視線を移した。分厚い和紙がめくられる重い音が、執務の間に響いた。
外の喧噪が、障子の隙間から微かに漏れ聞こえてくる。
荷車が動き、銭が落ちる。
パチン、と算盤の玉が一つ弾かれた。
その乾いた響きは、一つの時代が閉じられる音のようであった。
景勝は頭を下げたまま、動かなかった。




