第百五十三話:兄弟再会
第百五十三話:兄弟再会
冷たい雨が何日も降り続いたのち、春日山城に武田からの使者が訪れた。
空には鉛色の雲が幾重にも厚く垂れ込め、本丸の黒々とした屋根瓦を打つ重い雨音だけが城全体を包み込んでいる。
眼下に広がる城下町に、人の姿はない。軒並み雨戸が固く閉ざされ、隙間から灯りが漏れることもない。町屋の竃から炊煙が上がることもなく、雨に濡れた板屋根がただ鈍く光っている。水かさを増した堀の茶色い泥水が、土手を越えて道に溢れ出していた。
道端には、車輪を外されたままの大八車が四台放置され、泥にまみれて黒く腐りかけている。
その奥に並ぶ土蔵群は、重厚な扉が半ば開きかけ、中は底まで見通せるほどの伽藍堂であった。風が吹くたびに、外れた蝶番が甲高く軋む音だけが響く。蔵の前の水たまりには、誰にも拾われないまま泥に沈んだ古い越後銭が数枚、無造作に転がっていた。
使者は具足も帯びず、濡れた蓑を脱ぐこともなく、供もわずか二人だけであった。
出迎えた徒士が槍の柄を握りしめて立つ前を通り抜け、玄関の濡れ縁に進み出た。使者の足袋から滴る雨水が、黒光りする床板に小さな水たまりを作っていく。
使者は懐から油紙に包まれた書状を取り出し、差し出すと、それ以上の口上を述べることもなく深く一礼した。そして、すぐに背を向けて立ち去っていった。
取り次いだ小姓の手の中で、和紙はまだ雨の湿気を吸って重くなっていた。
もたらされた書状には、宛名と日付、そして短い一文のみが記されていた。
『甲府へ参られよ』
書状が置かれた評定の間には、上杉の重臣たちが居並んでいた。直江信綱、甘粕景持、色部勝長をはじめとする面々は、その短い文面を見下ろしたまま無言であった。
広間の外では、雨垂れが縁側の板を等間隔に打ち据えている。
誰一人として、声を上げなかった。
灯明の火影が隙間風に揺れ、書状の上に落ちる自らの影を微かに歪ませている。誰もがただじっと押し黙っていた。
景勝は書状を見つめたまま、微かに、規則的な呼吸を繰り返していた。腰の刀の柄に手を伸ばす気配はなかった。
景勝は、静かに頷き、書状を文箱の中へ収めた。
文箱の木蓋が閉まる小さな乾いた音が、広間の静寂の中に響いた。重臣たちは、一斉に深く頭を垂れた。誰も、その決断を諫めようとはしなかった。
評定の間を出て、景勝は本丸の廊下を歩いた。
雨漏りを受けるための古い桶が、数間おきに置かれている。天井の板の隙間から滴り落ちる水滴が、規則的に桶の底を打っていた。桶の周りの床板は水気を吸って黒く膨張している。かつては日々磨き上げられていた板間には、乾いた泥と埃がこびりついたままであった。
城内を歩く足軽たちとすれ違う。頬の骨が鋭く浮き出ている。小袖は色褪せ、ほつれた袖口から細い手首が覗いていた。
すれ違いざまに景勝へ頭を下げる動作は緩慢で、身に着けた具足が不格好に擦れ合う鈍い音がした。腰に差した刀の柄巻きは汗と手垢で黒ずみ、所々擦り切れている。すね当てを固定する紐は細くすり減り、泥にまみれていた。
かつて越後中の年貢や青苧の取引を記録していた勘定方の詰所は、戸板が外れかけていた。
部屋の隅には和紙の束が積まれていたが、長雨の湿気を吸って重くひんやりと沈み込んでいる。硯に残っていた墨はとうに乾ききってひび割れ、筆は毛先が固まったまま無造作に転がっていた。計算に用いられていた算木は床に散らばり、誰の足にも踏まれないまま埃を被っている。
城の修繕を担っていた番匠たちの作業場からも、槌の音は消え果てていた。土間には腐りかけた木屑が散乱し、鉋や鑿といった道具類は雨風に晒されて赤錆に覆われている。炉には火の気もなく、灰は冷たく湿っていた。
三の丸の奥に位置する兵糧蔵の群れへ足を向ける。
白漆喰の剥がれ落ちた厚い土壁に守られた蔵の重い観音扉は、錠を下ろされることもなく、大きく半ばまで開け放たれていた。かつては昼夜を問わず厳重に配置されていたはずの見張りの番兵の姿は、そこにはない。足を踏み入れると、ひんやりとした湿った空気が鼻をつく。
広大な蔵の床板には、俵の重みでついた丸い跡が幾つも並んでいるだけであった。板の隙間には、わずかな米ぬかの白い粉と、黒ずんだ埃だけが固まっている。天井まで積み上げられていたはずの越後米の俵はなく、古い縄の切れ端が隅に丸まっているだけであった。隅の柱をかじる鼠の姿もなく、足音一つ聞こえない。完全に空洞と化した蔵の中では、屋根を打つ外の雨音が、不気味なほど大きく反響し続けていた。
馬屋へ足を向ける。三十頭を繋げるはずの馬屋には、わずか三頭の馬が立っていた。
馬の肋骨がはっきりと浮き出し、毛並みは光沢を失って土気色をしている。飼葉桶の中には、雨水でふやけた藁が張り付いているだけだった。馬番の男が、どこからか拾ってきた雑草を無言で馬の口元へ差し出している。馬はそれに口をつけようともせず、濡れた鼻面を揺らして低く嘶いた。馬屋の床には、乾いた糞と泥が踏み固められたままであった。
数日後、景勝は直江信綱らごく少数の供回りだけを連れて、春日山を発った。
見送りは、ごく身内の者だけであった。本陣を示す旗印を掲げることも、槍の列を揃えて行列を組むこともなく、ひっそりとした出立であった。城門を警護する足軽たちは、所々赤く錆の浮いた槍を立てたまま、無言で景勝一行を見送った。
一行は信濃へ向けて南下した。
峠を幾つも越え、川を渡り、宿場での逗留も最小限にとどめられた。馬の蹄が泥を跳ね上げる音だけが、山道に響いていた。その道中、景勝は馬の背に揺られながら、沿道の風景をただ黙って見ていた。
街道の両脇に広がる田畑は、水が引かれた形跡すらなかった。畦道は所々崩れ落ち、田には雑草が腰の高さまで生い茂っている。稲の苗は一本も植えられておらず、長雨に打たれ続けた泥田の中に、古い鍬の刃だけが赤黒く朽ちて沈んでいた。
越後の領内を抜ける間、すれ違う農民たちは、道端に座り込んだまま一行の馬の足元を見つめるだけであった。
彼らの足元に置かれた竹籠の中には、山の斜面で剥がされた木の皮と、土に塗れた野草が数本転がっているだけである。農具を持つ者は誰一人としておらず、ただ空になった手を持て余していた。彼らの顔からは表情が抜け落ち、声を発する気力すら奪われているようだった。
街道沿いの宿場町に入っても、軒を連ねる旅籠の戸板は固く打ち付けられたままであった。宿場の入り口にある高札場は根元から傾き、風雨に晒された高札の文字は読み取れない。かつて馬借たちが荷を下ろした問屋場の前には、雑草が膝の高さまで生い茂っていた。木枠の障子は破れたまま放置され、内部の暗がりが覗いている。
宿場の中心にある広場には、竹組みの骨組みが地面に突き立てられたまま、雨風にさらされて白く変色していた。筵を広げる商人の姿もなく、銭の音も、客引きの声もない。広場の隅には、車輪の軸が折れた荷車が放置され、苔が生え始めている。
街道を遮る川に架かる板橋に差し掛かる。かつては人馬が頻繁に行き交っていたその橋は、中央の橋板が三枚にわたって抜け落ちていた。
橋桁を支える太い松の木材は水際で黒く腐り落ち、増水した茶色い濁流に洗われて白波を立てている。橋の手前の川岸には、修繕のために切り出されたはずの真新しい丸太が五本、縄で縛られたまま放置されていた。長雨に打たれ続けた丸太にはすでに青黒い苔が這い上がり、半分以上が泥の中に沈み込んでいる。
街道の辻には、馬借らしき男たちが数人、雨除けの笠を被ったまま身を寄せ合って座り込んでいた。
彼らの傍らには痩せた馬が繋がれているが、背に乗せるべき荷は一つもない。荷鞍は地面に投げ出され、泥にまみれている。男たちは無言のまま、ただ街道の先をぼんやりと見つめていた。
誰も彼らを襲ったわけではない。何も焼かれていない。ただ荷車が通らないだけの道が続いていた。
信濃を過ぎ、甲斐国境の関所が近づいた。
馬の足裏から伝わる道の感触が変わった。ぬかるんでいた街道の土は、砕石と砂を混ぜて固く踏み締められたものに変わり、両脇には水はけを良くするための深い溝が等間隔に掘られている。前方を遮るはずの山肌は所々切り拓かれ、道は緩やかな曲線を描いて先へと伸びていた。道の幅は以前よりも広げられ、馬が三頭並んで歩けるほどのゆとりがあった。
車輪の軋む低い音。馬のいななき。人足たちの掛け声。
峠の頂を越えた眼下の街道に、荷駄の列が続いていた。先頭は見えなかった。
どの荷車にも、米俵や塩俵、木箱、布の反物、海産物の詰まった樽などが積まれ、荒縄で固く縛られている。列は途切れることなく、土埃を上げながら前へ前へと進み続けていた。馬の首に結わえ付けられた木札が、歩調に合わせてカラカラと鳴っている。
関所の前では役人が立ち並び、次々と通行手形を検めていた。
「松本より米五十俵。手形番号、参百拾五」
声が響く。傍らに控えた者が広げた帳面にすかさず筆を下ろす。奥で別の役人が算盤を弾く。商人が懐から銭を取り出し、板敷きの上に数えて置く。ジャラリという音が響き、銭はすぐさま役人の手によって、背後にある武田菱の描かれた銭箱へと流し込まれていく。
朱肉を含んだ印が手形に押し付けられる。
「通れ」
関所を通過した荷車は、甲府へ向かう道へと進んでいく。周囲を警護する足軽たちは槍を持たず、六尺棒を手に持ち、列を誘導するだけであった。
宿場に入ると、軒を連ねる旅籠の提灯が揺れ、飯屋の釜からは白い湯気が立ち上っていた。荷を降ろした馬借たちが、飯屋へ吸い込まれていく。味噌の焼ける匂いと、魚を炙る匂いが立ち込めている。小銭の擦れる音。
道の両脇には、漆喰の土壁を持った蔵が宿場の外れまでどこまでも立ち並び、中には運び込まれたばかりの物資が積み上げられていた。道行く人々は皆それぞれの用向きに歩みを進め、商人たちは懐に和紙の手形をねじ込み、小走りに次の問屋場へと向かっていく。
甲府へ向かう街道沿いに整備された幾つもの問屋場では、途切れることなく荷の受け渡しが行われていた。
「駿府より塩三十俵。赤札へ付け替えよ」
手形を持った商人と、荷を管理する問屋役との間で短い言葉が交わされる。荷車に括り付けられた木札が外され、新たな行先を記した赤塗りの荷札が結わえ付けられる。
男たちが分厚い帳面を片手に行き来している。筆に墨を含ませ、積み上げられた米俵や木箱の数を数え上げながら、次々と帳面へ文字を書き込んでいく。その傍らでは、算盤の玉が弾かれる高い音が、雨だれのように絶え間なく響き続けていた。
積み上げられる荷は米や塩だけではない。美濃から運ばれた上質な和紙、越前から来た刃物、三河の木綿、遠江の茶。あらゆる産物が、木札に記された文字に従って、甲府からさらに別の国へと仕分けられていく。
道の脇には、鍛冶屋の炉から赤い炎が上がり、槌が鉄を打つ高い音が響く。木工職人が大鋸で板を挽き、木の香りが漂ってくる。修理を終えた車輪が次々と外に転がし出され、鉄の輪を嵌め込まれ、すぐに新たな荷車に組み込まれていった。
飯屋の大釜からは、湯気とともに白米の甘い香りが漂っている。釜の横には、信濃で採れた山菜、駿河から運ばれた干物、甲斐の味噌が並べられ、行き交う馬借たちの胃の腑に次々と収まっていく。食べた端から、男たちは土間で銭を払い、すぐさま次の荷車の縄を握る。
荷車が進み、別の荷車が来る。手形が渡され、銭が鳴り、荷札が付け替えられる。空になった荷車には別の物資が積み込まれ、再び別の国境へと向かっていく。その巨大な物流の回転が止まることはなかった。
景勝は、沿道の光景を黙って見つめ続けた。手綱の革の感触だけが、そこにあった。信綱もまた、口を開かぬまま、馬上でひたすら前だけを見据えていた。
甲府の館に着いたのは、縁側の床板に長く伸びていた西日もとっくに消え、日暮れから宵の口へと移り変わる時間帯であった。
門をくぐる際、案内の奉公人は多くを語らず、ただ深く一礼して黙って先導した。館の廊下は黒光りするほどに磨き込まれている。
すれ違う者たちの腰には、刀がなかった。
武田の家紋をあしらった直垂を着た男たちが、両手に和紙の束を持ち、足早に廊下を行き交っている。少し開いた襖の向こうからは、幾つもの算盤の玉が弾かれる音が漏れ聞こえてきた。彼らは皆一様に礼儀正しく頭を下げるだけで、他国の大名である景勝たちの顔を見ようとはしなかった。和紙が擦れる音と、筆が走る音と、算盤の音だけが、館の中に響いていた。
通されたのは、館の奥にある、飾りのない簡素な造りの広間であった。
上座には誰もいない。床の間には掛け軸もなく、花も生けられていない。飾り棚すらない。ただ、宵闇の気配が、わずかに開いた障子の隙間から忍び込んでいるだけであった。柱の木目も、新しい畳の縁も、飾り気のない質実なものであった。真新しい井草の匂いだけが、部屋に充満している。
景勝が部屋へ足を踏み入れたとき、そこにはすでに先客がいた。
下座寄りの位置に、一人の男が静かに正座していた。
上杉景虎であった。
その斜め後ろには、本庄秀綱が控えていた。二人とも、着物は越後から逃れてきた日のままのようであった。頬の肉は削げ落ちている。おそらくは、先の見えないままこの館で何日も待ち続けるしかなかった疲弊が、その静かな佇まいに色濃く滲んでいた。
景勝は、ゆっくりと部屋の中へ進んだ。足袋が擦れる音だけが響く。景虎と少し距離を置いた場所に、音もなく腰を下ろした。座る位置には、触れれば切れそうなほど微細な間合いが保たれていた。
信綱もまた、景勝の斜め後ろに無言で控えた。刀は、入室の際にすでに小姓へ預けていた。景虎たちもまた、腰に物は帯びていなかった。
四人が座すと、部屋には衣の擦れる音すら完全に絶えた。
外を渡る風の音が、障子越しに聞こえていた。部屋の影は濃さを増していた。
四人の間に横たわる畳の目は、行灯の光に照らされて数えることができるほどにはっきりと見えていた。
手水鉢に落ちる水音が、遠くで一つ鳴った。
誰も口を開かなかった。
廊下の奥から、足音が近づいてきた。
一人分の足音であった。足袋が板間を擦る、静かで規則正しい音。供を連れている気配はなかった。
障子が、静かに開かれた。
武田勝頼であった。
勝頼は、真っ直ぐに上座へ歩み寄り、静かに座した。
帳面も、筆も、そこにはなかった。装束は黒を基調とした地味なものだった。
その瞬間、部屋の空気が張りつめた。
景勝の呼吸が浅く止まり、景虎の膝に置かれた両手が青筋を立てて固く握りしめられた。直江信綱は深く目を伏せ、本庄秀綱の指先は畳の上でわずかに震えていた。
誰も、一言も発しなかった。
勝頼もまた、何も言わなかった。
広間は薄闇に沈み、五人は身動き一つせず、ただ互いの存在だけを静かに感じ合っていた。




