第百五十二話:勝者焦土
第百五十二話:勝者焦土
御館の乱と呼ばれるはずだった身内同士の争いは、ついに一度の鬨の声も上がらぬまま、ひっそりと終わりを告げた。
当初、春日山の評定では、御館へ一気呵成に攻め込むべしという声が大勢を占めていた。景虎方はすでに脆弱を晒しており、今を措いて好機はない。そう主張する者たちの膝は、いずれも前のめりに乗り出していた。景勝自身、その気になりつつあった。
だが、その膝は評定を重ねるたびに、少しずつ後ろへ引かれていった。誰も、もう出陣を口にしなかった。景勝側も兵站に支障をきたしており、兵たちは何日も前から槍の穂先を研ぎ澄まし、いつでも出立できるよう具足を傍らに置き、足半を新しく履き替える支度まで整えていたものの、それ以上に進むことは出来なかった。研ぎ石の上を滑る鉄の鈍い音と、刃こぼれを均す砥の粉の白さ、丁子油を含ませた布で刃を拭う独特の匂いだけが、城のあちこちに充満していた。壁に立てかけられた数十、数百の槍の穂先は、雲越しの鈍い陽光を反射して青白く光っていた。しかし、その槍が御館の門前に届く日は、ついに来なかった。
新たな動きの発端は、それから数日後であった。
真田昌幸が、単騎に近いごく少数の供回りだけを連れて、この春日山城へやって来た。
武具を帯びることもなく、まるで商家の番頭が帳面の検分に訪れたかのような、静かで、衣擦れの音すら立てない足取りであった。広間に集まった上杉の重臣たちを威圧するでもなく、見下すでもなく、ただ淡々と一つの事実と条件を告げた。
景虎はこれより武田が甲府へ引き取ること。
御館に残る者たちには一切の害を加えぬこと。
それを条件に、越後の国主は上杉景勝であると武田は認めること。
昌幸はそれだけを短く言い置いた。それは願い出でもなく、降伏の勧告でもなかった。置かれた書状の和紙は分厚く、墨の跡は乱れなく乾ききっていた。使者は用件のみを伝えると、供された茶の椀に手を伸ばすこともなく、長居することなく去っていった。
景勝は、その条件を呑んだ。
広間に居並ぶ重臣たちの中で、異を唱える者は誰もいなかった。金蔵の底はすでに空であり、兵に前渡しの銭を配ることもできず、城下の市は干上がっている。
そして昨夜、景虎は少数の供を連れ、御館を去った。
夜半、篝火の落とす赤黒い影の中を、輿にも乗らず、馬すら引かず、徒歩に近い姿で去っていったという。御館の門を潜る際、見送りの者はごく限られていた。残された兵たちは武具を地面に置き、ただ膝をついて頭を垂れていたという。門を出る間際、景虎が一度だけ立ち止まり、背後の城を振り返ったという話が、間者を伝って景勝の耳にも届いていた。だが、それが何を思っての振り返りであったのか、景勝には知る由もなかった。
主を失った御館へ入った景勝と家臣が見たものは、ただ冷え切った囲炉裏の白い灰と、主を失って壁に立てかけられたままの冷たい槍の列だけであった。
御館に残された者たちに害を加えることは、武田との約定により許されていない。彼らはそのまま許され、越後の内に吸収される。血を流す手立てはすべて封じられた。
景勝が春日山の本丸へ戻ったとき、迎える声はなかった。
門をくぐる景勝の前に、家臣たちが並んではいた。だが、誰一人として祝着の声を上げなかった。陣太鼓も鳴らず、勝鬨の法螺貝も吹かれなかった。ただ、列をなした者たちが静かに頭を下げ、兜の縅糸や具足の鉄札が擦れる乾いた音が響いただけである。彼らが頭を上げる頃には、景勝はもう門の奥へと歩みを進めていた。
並んだ家臣たちの顔に、笑みはなかった。深く頭を垂れる者もいれば、目の焦点をどこにも合わせず、ただ土間の小石を見つめて立ち尽くすだけの者もいた。石段を上る景勝の足音だけが、不規則に耳に響いた。
本来であれば、城は勝鬨に包まれ、鏡抜きの樽が割られ、祝着の言葉が飛び交い、祝いの酒が振る舞われるはずであった。しかし春日山の評定の間に、そのような空気は微塵も漂っていなかった。
景勝の腰にある刀は、鞘に収まったまま、一滴の血も吸ってはいなかった。黒塗りの鞘の光沢も、柄糸の手触りも、鍔の冷たさも、戦が始まる前と何一つ変わっていない。だが、廊を歩く足音も、床板を踏みしめる重さも、ただ空虚に響くばかりであった。
翌朝、景勝は供を数人だけ連れ、城下へ出た。
かつて市の立っていた通りは、底の抜けた桶のように静まり返っていた。踏み固められた土には、無数の足跡が乾いて重なり合い、亀甲のようなひび割れが幾筋も走っている。人の姿がないわけではない。だが誰も足を止めない。誰も声を張らない。商人が客を呼ぶ掛け合いも、荷を運ぶ人足が踏ん張る唸り声も、そこにはなかった。ただ、通りを吹き抜ける風が、乾いた土埃を巻き上げるくぐもった音だけが、耳障りなほど大きく聞こえた。
商家の軒先には、厚い板戸を下ろしたままの店がずらりと並んでいた。開いている店も、屋号を染め抜いた暖簾は出されず、奥は薄暗いままであった。
ある店先では、老いた主人が一人、框に腰掛けたまま、通りをぼんやりと眺めていた。通りかかった景勝と目が合っても、その主人は立ち上がろうとはしなかった。腰を浮かせることすらなく、ただ、座ったまま深く頭を下げただけであった。
景勝はゆっくりと歩き、一軒の問屋の店先で足を止めた。
深い軒下に、青苧の束が山のように積まれていた。幾つも、幾つも。荒縄で固く結わえられたまま、外の雨風の湿気を吸い、本来の青白い色を茶褐色に変えていた。誰も引き取らない。誰も値をつけない。積まれた荷は、ただそこに積まれているだけであった。
その青苧の荷の山は、通り一つ分を塞ぐほどの高さになっていた。かつては荷車が次々とやって来て、この束を次から次へと運び去り、代わりに莫大な銭や米を置いていったはずであった。
今は、荷車の轍すら、土の上にうっすらと古いものが残るばかりで、新しい跡は一つも見当たらなかった。荷の傍らには、以前使われていたはずの大きな分銅秤が一つ、放置されたまま真鍮の肌に赤錆を浮かせていた。
景勝はしばらく、その荷を見つめた。
束ねられた青苧の糸の一本一本が、空気中の湿気をたっぷりと吸い込み、重たげに垂れていた。荒縄が深く食い込んだ箇所からは、中の繊維が押し潰されたように変色している。近づくと、微かに饐えたような、水分の多い腐葉土にも似た匂いが鼻をついた。景勝はそれ以上近づかず、少し離れたところに立ち止まった。
供をしていた老臣が、ぽつりと小さく言った。
「もう、誰も買いませぬ」
景勝は何も答えなかった。湿った荷から目を離せずにいた。風が吹くたび、束ねられた荒縄の端がわずかに揺れた。その揺れだけが、通りの中で唯一の動きであった。
さらに歩くと、共同の井戸端に幾人かの女たちが集まっていたが、そこにもかつてのような世間話の笑い声はなかった。釣瓶を上げ下げする滑車の木が軋む音と、木桶に水が跳ねる音だけが、規則正しく響いていた。誰も言葉を交わさず、用が済むと、それぞれが黙って自分の家へと戻っていった。水を満たした重い桶から水がこぼれ、ひび割れた土に黒く吸い込まれていく。女たちの足取りにも、いつもの張りはなく、ただ淡々と、決められた動きをこなしているだけのように見えた。
景勝はその光景をしばらく眺めていたが、やがて何も言わずに、その場を離れた。
町の者たちは、景勝の姿を見ると、道の端に避けて深く頭を下げた。だが、その顔に喜ぶ色は微塵もなかった。ただ、領主に対して頭を下げるという染み付いた動作だけが、そこにあった。頭を下げた後、彼らはすぐにまた俯き、そのまま黙って自分の道を歩いていった。誰一人として、景勝に近づこうとする者はいなかったし、何かを訴えようとする者もいなかった。
すれ違う誰の足取りも重く、足裏を擦るような歩き方であり、急ぐ者は一人もいなかった。子を背負った女が一人、景勝とすれ違ったが、視線を合わせることもなく、ただ足早に去っていった。背負われた子の手はだらりと下がり、眠っているのか起きているのかすら判然としなかった。
景勝は幾度もその垂れた頭を見下ろした。
通りには、誰も笑っていなかった。
夕刻、評定の間に主だった家臣が集められた。
行灯の火は幾つも灯されていたが、その明るさが、かえって場の重さを際立たせているようであった。灯油の焦げる微かな匂いと、畳のいぐさの匂いが、広間の中に漂っていた。
家臣たちは、いつもの座順のまま並んでいたが、互いに視線を交わす者もなく、それぞれが自分の膝先や、畳の縁の模様だけを見つめていた。誰も先に口を開こうとしなかった。
上座に座る景勝の前に、家臣たちが並んだ。
膝の上に置かれた手だけが、それぞれの形で固まっていた。ある者は拳を強く握り込み、ある者は指を複雑に絡め合わせ、ある者はただ袴の上に平手を開いて置いたまま動かさなかった。
誰かが喉の奥で咳払いをしようとしたが、途中で飲み込んだのか、音にはならなかった。衣擦れの音すら立たない、異様な空間であった。灯明の炎が、時折小さく揺れ、家臣たちの黒い影を障子に揺らした。
「殿」
直江信綱の声が、静かに響いた。声を荒らげているわけでも、感情を込めているわけでもない。ただ平坦な声であった。
「城下の両替商の幾つかが、店を完全に畳みました。木戸に五寸釘を打ち、暖簾を下ろしております。武田の金しか受け取らぬという商いばかりで、越後の銭は、もはや誰も見向きもいたしませぬ。上方への支払いにも、越後の古い銭は突き返される始末にございます」
景勝は、顔を上げなかった。
信綱の報告に、力強さはなかった。手柄の話でもなく、景虎の残党をどう接収したかという話でもない。ただ、事実だけを淡々と積み重ねていくような口ぶりであった。
「街道の関所は開いております。木戸は下ろしておらず、橋も落ちておりませぬ。なれど、荷は一駄も入って参りませぬ。商人はおろか、近在の百姓すら、米や薪を売りに来なくなりました。市場は、もはや体をなしておりませぬ」
「なぜだ」
景勝は、ようやくそれだけを口にした。声はひどくかすれていた。
信綱は、すぐには答えなかった。しばらく手元の厚い帳面へ目を落としたまま、言葉を選んでいるようであった。
「分かりませぬ。誰かが商いを禁じたわけでもございませぬ。武田の兵が道を封鎖しているわけでもありませぬ。ただ、皆が、荷を出さぬのです。まるで、あらかじめ示し合わせたかのように、一斉に」
景勝にも、それ以上問い質す言葉は残っていなかった。
信綱は、手元の帳面を一つめくり、また静かに口を閉じた。
厚い和紙の擦れる音だけが、不気味なほど広間の中に響いた。傍らに控えていた別の家臣が、何か言おうとして口を開きかけたが、結局またつぐんだ。誰もが同じ重さを、それぞれの胸のうちに抱えているようであった。灯明の炎が、時折小さく揺れた。その揺れる音さえ、聞こえるように思えるほどの静けさであった。
信綱は、手元の帳面を文箱へ静かに置いた。木箱の蓋を閉める音が、小さく鳴った。
そして誰へともなく、あるいは床の木目を見つめたままの景勝に向かって、短く問いを放った。
「我らは、何に勝ったのだ」
その声は広間の中に低く響き、そして静かに消えていった。
重臣たちは、息を呑んだまま深く俯いた。信綱の問いを咎める者は、誰もいなかった。誰の顔も、行灯の薄明かりの中で、ただ青白く沈んでいた。
景勝は答えなかった。
ただ、自らの膝に置かれた刀の柄に指を置いた。
外では、いつからか冷たい雨が降り始めていた。
庭先の木々の葉を打つ雨音が、次第に強さを増していく。本丸の屋根瓦を叩く音も、次第に絶え間なくなっていった。
誰も口を開かなかった。
灯明の火影が、雨音に合わせるように微かに揺れ続けていた。
雨だけが、いつまでも降り続いていた。




