第百五十一話:甲府繁声
第百五十一話:甲府繁声
朝、景虎は障子の向こうから聞こえてくる音で目を覚ました。荷車の軋む音、人の呼び交わす声、馬のいななき、鍛冶屋の槌音、炊事の煙が立つ気配。どれも、御館ではとうに失われていた音であった。景虎はしばらく夜具の上で目を閉じたまま、その音の重なりを聞いていた。飢えた城の朝には、音がなかった。物見の交代を告げる声か、飢えを訴える呻きか、そのどちらかがあるばかりであった。ここでは違う。朝そのものが、当たり前のように賑わっている。
景虎は、夜具から身を起こし、しばらくその場に座したまま、音の一つ一つを聞き分けようとした。荷車の軋みには、幾つもの種類があった。重い荷を積んだものは低く鈍い音を立て、軽い荷を積んだものは高く乾いた音を立てる。それが幾台も、途切れることなく通り過ぎていく。馬の蹄の音がそれに重なり、時折、荷を運ぶ者たちの掛け声が混じった。景虎は、その音の厚みに、目眩に似た感覚を覚えた。籠城の間、景虎が聞き続けたのは、風の音と、遠くで鳴く鴉の声と、時折漏れる家臣たちの咳ばかりであった。それらの音は、いずれも乏しさを告げる音であった。ここにある音は、その正反対のものであった。
起き上がり、障子を開けると、庭の向こうから足音が近づいてきた。
「殿」
声のする方を見ると、本庄秀綱が立っていた。景虎は、その顔を見て、僅かに息を吐いた。安堵と呼べるほどのものではない。ただ、見知った顔がそこにあったというだけのことであった。
「秀綱か」
「はい」
「そなたも、この館に」
「昨夜、遅れて着きましてございます」
それだけの遣り取りであった。抱き合うでもなく、涙を見せるでもない。景虎も本庄も、感慨を口にするだけの余裕を持たなかった。ただ、互いの無事を確かめるように、しばらく黙って向き合っていた。本庄の顔には、げっそりと肉が落ちた痕跡が、いまだ色濃く残っていた。御館で共に耐えた飢えの跡である。だが、その本庄の顔にも、この館に漂う膳の匂いを嗅いだせいか、僅かな戸惑いのようなものが浮かんでいるのを、景虎は見て取った。景虎自身の頬にも、同じ痕跡が残っているであろうことは、あえて確かめるまでもなかった。
「殿は、もう外を歩かれましたか」
「いや、これからだ」
「それがしも、まだにございます」
景虎は、その顔をしばらく見つめた。飢えを共に耐えた者同士に特有の、言葉にせずとも通じるものが、確かにそこにあった。だが、その通じ合いすらも、この甲府という場においては、どこか頼りないものに感じられた。二人が知っているのは、飢えの理であって、この町を満たしている理ではなかった。互いの目に浮かぶ戸惑いだけが、唯一、確かに通じ合っているもののように、景虎には思われた。
やがて武田家の家臣が現れ、二人を城下へ案内する旨を告げた。景虎は、その申し出を断る理由を持たなかった。本庄と共に、館を出て、甲府の町へと足を踏み入れた。
最初に目に入ったのは、通りに並ぶ荷であった。米俵が積まれ、布の反物が並べられ、炭俵が幾つも重ねられている。魚を担いだ棒手振りが、威勢のよい声を上げながら通り過ぎていく。関所を思わせる木戸のところで、手形を確かめる役人の姿もあった。役人は、通りゆく荷の一つ一つに目を通し、帳面に何かを書き付けては、次の荷へと目を移していった。
「殿」
本庄が、低く声をかけた。
「何だ」
「人がおりますな」
「おるな」
「荷も動いております」
「動いておる」
「戦の最中でございましょう、これは」
「そのはずだ」
景虎は、その遣り取りの意味を、すぐには測りかねた。ただ、本庄の声にも、自分と同じ戸惑いが滲んでいることだけは、はっきりと感じ取れた。二人は、しばらく肩を並べて歩き続けたが、次に何を口にすればよいのか、どちらも分からずにいた。
通りを進むと、問屋とおぼしき店の前に人だかりができていた。中を覗くと、帳面をめくる商人がいた。若い手代が、荷札に何かを書きつけている。蔵の戸口からは、荷が次々と運び込まれ、また別の荷が運び出されていく。その流れは、途切れることがなかった。景虎は、その光景をしばらく見つめていたが、誰一人として、自分たちの姿に目を留める者はいなかった。
行き交う荷の量は、景虎の目にも異様に映った。
問屋の奥では、算盤の音が響いていた。景虎は、その音に誘われるように、店先へと近づいた。番頭らしき男が、山と積まれた荷札を前に、指先で珠を弾いている。数を数え、記し、また次の荷へと移る。その手つきに、迷いというものがなかった。
本庄が、その番頭に問うた。
「何を数えておる」
番頭は、顔を上げぬまま答えた。
「塩にございます。それと、油と、鉄の値も」
「一日に、これほどの数を」
「毎日のことにございます」
本庄は、それ以上を問わなかった。景虎もまた、口を挟むことができなかった。毎日、これほどの数が動いている。それだけは分かった。景虎は、それ以上を考えることをやめた。
「殿」
本庄が、しばらくして口を開いた。
「越後では、近頃こういう音を聞かぬようになりましたな」
景虎は、それに答えなかった。答えを持たなかったのではない。答えらしきものが胸の奥に浮かびかけたが、それを言葉にすることを、なぜか躊躇った。本庄も、それ以上を重ねて問うことはせず、ただ黙って店先を離れた。
布を商う店の前では、女たちが反物を手に取り、色合いを確かめていた。値の交渉らしき遣り取りが、笑いを交えながら交わされている。争うでもなく、怯えるでもない、ごく当たり前の光景であった。景虎には、それが何よりも異様に映った。戦のただ中にあるはずの国で、女たちが反物の色を選んで笑っている。その光景の意味を、景虎はどうしても掴むことができなかった。本庄も、その傍らで足を止め、しばらく無言のまま見つめていた。
「殿。あれをご覧じませ」
「見ておる」
「越後の女たちは、いつから笑うておりませなんだか」
景虎は、その問いに答えることができなかった。思い出そうとしたが、最後に女たちの笑い声を聞いた日がいつであったか、どうしても浮かんでこなかった。
その傍らの市の一角では、子供たちが数人、追いかけっこをして笑っていた。転んで泣き出した一人を、母親らしき女がすぐさま抱き上げて宥めた。それだけの、何でもない光景であった。御館では、いつからか子供の声というものを聞かなくなっていた。飢えた城に、笑う子供はいない。景虎は、その声を聞きながら、胸の奥に何かが引っかかるのを感じたが、それを言葉にすることはできなかった。
誰も、武田勝頼の名を口にしなかった。誰も、その仕組みを誇るでもなかった。ただ、目の前の仕事をこなしているだけであった。それが、景虎には、何よりも恐ろしく感じられた。称賛される主君であれば、まだ理解できる。だが、称賛すらされぬまま、これほどの仕組みの中で人々が生きている。
「殿」
本庄が再び口を開いた。
「これが、武田の力にございましょうか」
「分からぬ」
景虎は、それだけ答えた。それ以上の言葉を、持ち合わせていなかった。
二人は、しばらく無言のまま、町の外れまで歩いた。そこには、荷を積んだ舟が幾艘も並ぶ川岸があった。舟から荷を下ろす者たちの声が、川面に響いている。舟の腹には、米俵や炭俵、木箱の類が隙間なく積まれ、幾人もの人足が、汗を拭いながらそれを担ぎ上げていた。岸には、次の荷を待つ舟がさらに列をなしていた。本庄は、その光景を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「越後には、これほどの舟はございませなんだ」
「越後にも、川はあった」
「川はございました。舟が、これほど動いてはおりませなんだ」
景虎は、それ以上答えなかった。答える言葉が、見つからなかった。舟の一艘が岸を離れ、川下へと下っていくのを、景虎はしばらく目で追った。舟が完全に見えなくなっても、なお次の舟が岸に着き、荷が下ろされ、また積まれていく。その繰り返しに、終わりというものが見えなかった。越後の川を思い出そうとしても、これほど絶え間なく舟が行き交う光景は、どうしても浮かんでこなかった。
人足の一人が、荷を担いだまま、こちらへ軽く会釈をして通り過ぎていった。敵意も、警戒も、その顔には浮かんでいなかった。ただの通行人に向けるだけの、当たり前の会釈であった。景虎は、その何気なさに、かえって落ち着かぬものを覚えた。自分がここでは、誰でもない者として扱われている。その事実だけが、繰り返し胸に突き刺さってきた。
夕刻、二人は館へ戻った。廊を渡り、奥の一室へ近づくと、灯りの下に、文机に向かう勝頼の姿があった。帳面が積まれ、荷札が並び、書状が幾つも広げられている。戦勝を祝う宴の気配はなく、武具の飾りもない。ただ、机に向かい、筆を動かし続ける男の背中があるだけであった。
本庄は、その場に立ち尽くしたまま、動こうとしなかった。景虎が先に廊を進むと、ようやくその後に続いた。廊の途中、本庄が小さく息を呑む気配があった。景虎は振り返らなかったが、その気配の意味を、なんとなく察することができた。戦場において幾度も敵将と対峙してきた本庄でさえ、この場の空気には、勝手の違うものを感じているのであろう。
景虎は、その背を見つめた。勝頼は、顔を上げなかった。景虎の来訪に気付かぬはずはなかったが、それでも筆を止めることをしなかった。しばらくして、ようやく顔を上げた勝頼は、短く言った。
「町をご覧になられたか」
「見た」
「左様か」
それだけであった。勝頼は、それ以上を語らず、再び帳面へ視線を落とした。本庄は、その様子を見て、何かを言いかけたが、結局は口を閉じたままであった。景虎は、その様子をしばらく見つめていたが、やがて何も言わぬまま、その場を辞した。
部屋へ戻る廊すがら、本庄がぽつりと言った。
「殿。あの御方は、我らを恐れておりませぬな」
「恐れるはずもあるまい。我らはもう、討たれた身も同然だ」
「いえ」
本庄は、首を横に振った。
「討った相手を恐れぬのは、当然にございます。それがしが申しておるのは、そこではございませぬ」
「では、何だ」
「あの御方は、我らを見ておられぬのです。町の者と同じように」
景虎は、その言葉の意味を、すぐには測りかねた。本庄もまた、それ以上を説明する言葉を持たぬのか、そのまま口を閉じた。二人は、しばらく無言のまま、自室へと続く廊を歩いた。廊の途中、遠くから相変わらず算盤の音が聞こえてきた。夜になっても、その音は絶える気配を見せなかった。景虎には、その一言が何を意味するのか、まだ十分には分からなかったが、なぜか胸の奥に、小さな棘のように残った。
「殿」
自室の前で、本庄が足を止めて言った。
「明日も、町を見て回りとうございます」
「好きにせよ」
「殿は」
「我も、行こう」
それだけの遣り取りを交わし、二人はそれぞれの部屋へと戻った。部屋に入る間際、本庄が振り返り、もう一言だけ付け加えた。
「殿。今日見たものを、それがしはまだ、何一つ言葉にできませぬ」
「我もだ」
それだけを答え、景虎は障子を閉じた。
寝所に戻ると、景虎は障子を少しだけ開け、その音に耳を澄ませた。隣室からは、本庄の身動きする気配が、時折伝わってきた。眠れずにいるのは、景虎だけではないようであった。互いに声をかけることもなく、ただ、それぞれの闇の中で、同じ音を聞いている。
景虎は目を閉じた。御館で聞いていたのは、咳と、風と、鴉の声だけであった。ここには、荷車の音がある。算盤の音がある。子供の声がある。女たちの笑い声がある。しかし、荷車の音も、算盤の音も、女たちの笑い声も、景虎にはまるで別のものにしか思えなかった。
答えを急いで求めようとすれば、かえって遠のくような気もした。今日一日、目にしたものを一つ一つ数え直そうとしても、それらは景虎の内で、まだ一つの形を結ばずにいた。荷札も、算盤も、笑い声も、舟も、ばらばらのままそこにあった。それらを繋ぐ糸のようなものがあるのかどうかさえ、景虎にはまだ判じようがなかった。
景虎は、答えの見えぬまま、夜を過ごした。ただ、その音だけが、いつまでも絶えることなく、耳の奥に残り続けていた。




