第百五十話:甲府幽客
第百五十話:甲府幽客
北条もまた、この見えぬ檻の内にいる。氏政は来られぬのだ。ならば自分は、いったい何と戦い、何に敗れたのか。景虎がその答えの出ぬ問いに行き当たった、まさにその夜であった。刀を交えたことのない敵に敗れるという道理を、景虎はこれまでの生涯で一度も教えられたことがなかった。それでも今、その道理が、自分の身の上に、静かに、しかし確かに成り立っていることを、認めざるを得なかった。膝に置いたままの太刀に、指先を触れさせたまま動かずにいる景虎の前に、部屋の隅の暗がりから、ふと人の気配が生じた。
「お騒がせいたします」
景虎が目を凝らすと、そこにはいつからいたのか分からぬ男が、片膝をついて頭を垂れていた。装束から見て、御館の家臣ではない。物腰にも、他国の忍びらしい、風のように気配を薄くする心得が滲んでいた。灯りの届かぬ場所を選んで座しているのも、明らかに慣れた者の所作であった。
「何者か」
夜半にあるまじき問いであったが、景虎の声には、まだ刃の鋭さが残っていた。男はそれに動じることなく、静かに続けた。
「真田家より参りました。武田勝頼公が、御方様をお呼びにございます」
その一言を聞いた瞬間、景虎の中で、これまで幾晩も抑え込んでいたものが、一気に噴き上がった。武田勝頼の名を聞いて、まず頭に浮かんだのは、降伏という一語であった。負けた者に残された道は、武士の世界では限られている。戦って死ぬか、自ら腹を切るか、あるいは膝を屈して降るか。それ以外の道など、生まれ落ちてから今までの間、一度として教えられたことがなかった。
「我を降れと言うか」
絞り出すような声だった。これまでの日々、飢えに耐え、家臣たちの空虚な希望を黙って聞き続けてきた景虎の中に、唯一残っていた誇りが、そこに凝縮されているようだった。降るならば、この手で自ら決着をつけたほうがましだと、景虎は本気でそう思っていた。
しかし男は、その言葉に対して、ゆっくりと首を横に振った。
「違います」
男の声に、揺らぎはなかった。景虎は、その否定の意味を、すぐには掴めなかった。降伏でなければ何なのか。捕縛でもないと言うのか。男は、景虎の戸惑いを見透かしたように、続けて短く告げた。
「生きよと申しております」
その言葉は、これまで景虎が敵から向けられてきたどの言葉とも、種類が違っていた。恨みでもなく、憐れみでもなく、勝者の余裕でもない。ただ、生きよという、それだけの言葉であった。生きよとは、何をせよということなのか。誰のために生きよというのか。武士として死ぬことこそが、これまでの景虎にとって唯一の答えであった以上、生きよという言葉は、答えの手前で道そのものを塗り替えてしまうような、得体の知れぬ響きを持っていた。景虎には、その言葉の輪郭すら、摘み取ることができなかった。男はそれ以上を語らず、闇の中に姿を沈めた。
翌日、あるいはその次の夜であったか、同じ男が再び現れた。今度は、より具体的な言葉を携えていた。
「客として、甲府へお越しいただきたいとのことにございます」
「客だと」
景虎の声は、思わず大きくなった。喉の奥から、ほとんど反射のように出た声であった。自分は御館の主であり、上杉謙信の養子であり、越後の後継となるはずの男である。それが、敵国の客として招かれるというのか。捕らえられるのであれば、まだ理解できる。討たれるのであれば、それも理解できる。しかし、客として遇されるということの意味が、景虎にはどうしても掴めなかった。客というものは、本来、対等な間柄にある者同士が用いる言葉であるはずであった。降した相手を客と呼ぶなど、これまでの戦の作法のいずこにも、そのような前例は聞いたことがなかった。
男は、景虎の激しい反応にも、表情を変えなかった。ただ静かに、同じ言葉を繰り返した。
「勝頼公は、そう申されました」
それだけであった。理由も、条件も、何も添えられていない。真田家の忍びというものが、いかに無用な言葉を発しないよう仕込まれているか、景虎はその態度から、いくらか察することができた。問いかけても、望んだ答えは戻ってこない。景虎は、しばらく黙っていたが、やがて別のことを問うた。この数日、胸の底に沈めていた問いであった。
「残る者たちはどうなる」
男は、初めて僅かに顔を上げた。
「生きます」
迷いのない答えであった。
「景勝が、それを許すと申すか」
「許させます」
「誰が」
「昌幸様が」
景虎は黙った。
真田昌幸。
その名は聞いたことがあった。
だが、その名がなぜここで出てくるのかは分からなかった。
景虎は、それを問おうとしたが、言葉にする前に、男が先に口を開いた。
「勝頼公は、人を説得いたしませぬ」
「ならば」
「人が、自ら選ぶ形を作ります」
それだけであった。男はそれ以上を語らず、景虎の問いを待つように、再び口を閉じた。
「御館に残る者は、景勝方へ引き渡されます。女子供には害を加えぬ旨、すでに話は付いております。家臣の帰参も、条件次第で許されるとのことにございます」
景虎は、なおも言葉を持たなかった。男は、その沈黙を待つように、しばらく口を閉じていたが、やがて静かに付け加えた。
「勝頼公は、人を数えられるのではございませぬ。家を数えられます。御館に残る者たちも、その数の内にございます」
景虎は、その言葉を胸の奥深くへ、そのまま落とし込むしかなかった。自分一人が生き延びることに、何の意味があるのかと問い続けてきた景虎にとって、この一言は、これまで見えなかった重さを持って響いた。御館に残る者たちの行末までが、既に別の場所で、既に別の誰かの手によって、静かに処理されている。そのことに、安堵よりも先に、底知れぬ薄気味悪さを覚えたのであった。
戦とは、勝った者が奪い、負けた者が失うものだと、景虎はこれまで信じて疑わなかった。しかし、この戦には、奪う側の勘定のなかに、負けた側の暮らしまでが、あらかじめ組み込まれていた。それがいかなる理によって成り立つのか、景虎には見当もつかなかったが、同時に、景虎の中で、何かが僅かに軽くなったのも事実であった。
小雨の降る夜、御館の裏手に、人の影がひそやかに動いた。景虎、先夜の男、そして数人の供――それだけの一団であった。松明はなく、声を上げる者もいなかった。物見の兵に見咎められることもなかった。それは、御館という城に、もはや誰かを追う力すら残っていないことを、何よりも雄弁に示していた。景虎の身の回りに残っていた家臣たちは、門の内側に立ち並び、無言のまま頭を垂れていた。その沈黙の中には、もはや絶望だけではない、別のものが混じっているように、景虎には感じられた。自分たちの行末が、既に定められていることを、彼らもどこかで知っているのかもしれなかった。誰も追いすがることなく、誰も涙を見せることもなく、ただ主の背が門の外へ消えていくのを、黙って見届けようとしているだけであった。景虎は、その静けさの中を歩きながら、自分がどのように扱われているのか、改めて考えていた。
道中、景虎の身には縄一つかけられていなかった。歩く速さも、休む間隔も、景虎自身の判断に委ねられていた。雨は降り続き、蓑を通して肩の辺りが冷え切っていたが、それを訴える者すらいなかった。捕虜であれば、これほどの自由が許されるはずはない。しかし、客として遇されているのだと考えれば、供された食事は粥ばかりで、酒肴の一つも出されず、歓待めいた言葉一つ交わされることもなかった。宿場に着けば、馬も、寝所も、あらかじめ整えられていた。誰の手配りかも分からぬまま、必要なものだけが、必要な時に、静かに用意されていた。捕虜でもなく、客でもない。ならば、自分はいったい、何として扱われているのか。答えは、いつまでも見つからなかった。道中は幾日にも及んだ。最初の宿場を過ぎる頃には、景虎はもはや逃げる気力すら残っていないことに、自ら気付かされていた。逃げようとすれば、この一団は止めるだろうか。それすらも、試す気になれなかった。声を交わすのは、常にあの最初の男だけであった。男は、必要な言葉以外は、決して口にしなかった。道の先に何が待っているのかを問うても、男はただ「まもなくにございます」と答えるだけで、それ以上を語ろうとはしなかった。
甲斐の国境を越えたあたりから、景虎はそれまでとは違う気配を肌で感じるようになった。国境の関所には番士が二人立っていたが、景虎の一団を見咎めることもなく、ただ一度、荷の確認を済ませただけで、あっさりと通した。関所の柱には、いつも通りの通行手形の控えが束ねられており、そこには何一つ、戦支度の気配も、警戒の色も見えなかった。越後や御館で過ごした日々には、常に静寂と欠乏の影が付きまとっていた。ところが、甲斐の地に入ってからは、街道の脇に商いの声が響き、荷車の軋む音が絶えることなく続いていた。宿場町の市には、魚や布、農具の類が並べられ、鍛冶屋の炉からは絶えず火の粉が立ち、槌を打つ音が谷間にまで響いていた。炊煙が幾筋も空へ立ち上り、その下で人々が、当たり前のように働き、笑い、言葉を交わしていた。
景虎は、その光景を、馬の背に揺られながら、ただ黙って見つめていた。飢えを知らぬ町の音というものが、これほどまでに耳に痛いものだとは、これまで思ってもみなかった。荷を積んだ馬借が、景虎の一団とすれ違う際、軽く会釈をして道を譲ったが、その顔には、警戒の色も、敵意の色も、何ら浮かんでいなかった。御館で聞き続けてきた沈黙と、この甲斐の喧噪との落差が、景虎の胸の奥に、言葉にならぬ重さを積み重ねていった。
同時に、御館で行き着いた、あの答えの出ぬ問いが、改めて胸の奥で形を持ち始めていた。北条もまた、この国と同じ道の上に立っていたはずであった。それなのに、氏政は動けなかった。この甲斐の地では、荷が滞ることも、市が沈黙することもない。であれば、氏政を縛っていたものと、この国を潤しているものとは、恐らく同じ根から生えているのだろう。景虎には、その正体まではまだ見えなかったが、二つの現象が同じ一つの力から発していることだけは、疑いようもなく感じ取れた。誰も戦支度を急いでいる様子はなく、誰も逃げ惑う様子もない。それなのに、この国はどこにも綻びが見えなかった。御館という一つの城が静かに乾いていったのと、この甲斐の国がこうして潤い続けていることとは、同じ天秤の両端に載っているのではないかと、景虎はふと思った。だが、その天秤を操っているものの正体までは、依然として見えてこなかった。
甲府の館に着いたのは、日も落ちかけた頃合いであった。門をくぐる際、景虎は一度だけ振り返り、自分が越えてきた街道の彼方を見た。そこにはもう、越後も、御館も、見えなかった。景虎は、案内の者に導かれるまま、幾つかの廊を渡り、やがて一室へと通された。灯りは控えめであったが、油の匂いは新しく、芯もまだ十分に長かった。壁には武具の類も、掛け軸の類も、格式を示すような装飾も、これといって見当たらなかった。ただ、文机が一つ、部屋の奥に置かれているだけであった。そこに、武田勝頼が立っていた。
勝頼は若かった。
そう見えた。
勝頼は、笑ってはいなかった。勝者の顔もしていなかった。ただ、静かにそこに立ち、景虎を見ていた。
景虎もまた、その視線を受けながら、しばらく何も言わなかった。
勝頼は、それ以上を語らなかった。ただ、短く一言、口にした。
「よう参られた」
景虎は答えなかった。
行灯の灯りが、二人の間で小さく揺れていた。
廊の外では、この館に着いて初めて耳にした荷車の軋む音が、遠くから微かに響いていた。夜も更けているというのに、その音はいつまでも絶えることなく続いていた。
景虎はその音を聞きながら、なお何も言わずに、勝頼の前に立ち続けていた。




