第百四十五話:商路断血
第百四十五話:商路断血
春日山城、評定の間には、地図もなければ軍配もなかった。畳の上に置かれているのは、ただ帳面が三冊。上杉景勝は、その帳面の背表紙を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。直江信綱が帳面の一冊を取り、表紙をめくると、紙が乾いた音を立てた。
「青苧は」
景勝が言った。短い問いだった。
「街道も、関所も、開いております」
信綱が答えた。指先が帳面の行を辿る。
「しかし、一駄も、届きませぬ」
沈黙が落ちた。燭台の炎がわずかに揺れたが、誰もそれを直そうとはしなかった。景勝は帳面へ視線を落とした。数字が並んでいる。荷駄の予定数、実績数、差引。実績の欄には、ゼロが並んでいた。三日前は二十七、二日前は九、昨日はゼロ、そして今日もまたゼロであった。橋は落ちていない。関所の柵も上がったままである。街道の土は乾いて硬く、歩くにも荷車を引くにも何の障害もない。それでも、荷は動かなかった。
信綱は、もう一冊の帳面を開いた。宿場ごとの馬借の数を記した帳面である。
「三十七軒のうち、荷を引き受けたのは」
信綱は、指で数を辿った。
「ゼロにございます」
景勝は、何も言わなかった。信綱は三冊目の帳面を開いた。金蔵の出納を記したものだった。数字は日を追うごとに減っていて、増える欄はひとつもなかった。景勝は三冊の帳面を一列に並べ直したが、並べ終えると、また何も言わなかった。信綱は帳面を閉じた。閉じる音だけが、やけに大きく響いた。
城下、青苧問屋の店先では、店主が空になった棚の前に座っていた。棚には木札が下がっている。品名と数量を記した札だが、数量の欄は墨で塗りつぶされ、何度も書き直された跡が残っていた。店主の手のひらには武田金が数枚握られ、指の間から鈍い光がこぼれていた。金はある。棚は空だ。店主は帳場の帳面を開いてみたが、仕入れの欄には十日前を最後に記入がなく、売上の欄も同じであった。店主は金を握ったまま通りを見た。荷車は一台も通らなかった。隣の油問屋も、米問屋も同じであった。通りに並ぶ店のどこにも、荷を積んだ車の音はなかった。
城下外れの馬借の溜まり場では、男たちが荷車の轅を地面に下ろしたまま、動かさずにいた。一人が縄を巻き直し、もう一人は馬の腹を撫でている。誰も荷を積もうとはしなかった。
「運べば、損をいたします」
年嵩の馬借が、誰へともなく言った。
「行きの荷はある。青苧は、腐るほどある」
「帰りの荷が、無い」
男はそれだけを言って、縄を巻く手を止めた。行きに青苧を運び、帰りに塩や米を積んで戻る。それが、これまでの商いの形であった。だが今、帰り荷の手形が切られない。武田の商流から外れた荷駄には、帰りの荷が割り当てられないのである。空荷で帰れば、道中の飼葉代も、宿場の宿賃も、すべて持ち出しになる。若い馬借が、荷車の下に敷いた筵に腰を下ろし、指を折って数えていた。
「一駄、往復十日。飼葉、五百文。宿賃、三百文。帰り荷が無ければ、丸ごと損になる」
「十駄運べば、いくら損をする」
「八貫は下るまい」
若い馬借は指を折るのをやめ、荷車の轅にもたれかかった。年嵩の馬借が空を見上げると、日はまだ高いところにあった。荷を積めば、今日のうちに次の宿場まで届けられる時刻である。それでも、誰も轅を持ち上げなかった。誰もそれを命じてはいない。誰もそれを禁じてもいない。ただ、帳面の上で、そういう仕組みになっていた。
「だから、誰も運ばぬ」
若い馬借が、一度だけ、轅に手を掛けた。持ち上げかけて、途中で止めた。年嵩の馬借が、それを見たが、何も言わなかった。若い馬借は、手を離した。
馬借は轅を地面に横たえたまま、腰を下ろした。
春日山城の武者溜まりでは、若い侍たちが具足を磨いていた。籠手を拭う布の音だけが、板間に響いている。一人が槍の穂先を陽に透かし、そのまま何も言わずに、槍を壁に立てかけた。それを見た別の一人が言った。
「出陣の触れは」
「まだだ」
「いつまで、磨くだけか」
誰も答えなかった。年嵩の侍が、具足の紐を締め直しながら低く言った。
「敵は、来ぬ。味方も、動かぬ」
「それでも、兵糧は減る」
板間の隅で、若侍の一人が腰の刀を鞘ごと持ち上げ、掌の上で重さを確かめるように二度、上下させた。誰もそれ以上は言わなかった。若侍は刀を鞘のまま腰へは戻さず、壁際まで歩くと、先に立てかけられていた槍の隣へ、そっと立てかけた。布を拭う音だけが、また板間に戻った。
村では、刈り取られたばかりの青苧が、束ねられたまま積み上がっていた。束の表皮はすでに乾き始めている。本来ならば、二日と置かずに問屋へ運ばれるはずのものであった。百姓の一人が束の一つに触れると、表皮が乾いた音を立てて崩れたが、誰も何も言わなかった。女房は竈の火を落とした。今日の分の飯を炊く米が底をついていたからである。米を買おうにも、青苧を売る先がない。青苧を売れなければ、金にならなかった。村の入口に立てられた木札には去年の作付け予定が墨で書かれていたが、今年の分はまだ書かれていない。村の長老は、束の山の前に立ち、しばらく動かなかった。長老は束をひとつ持ち上げようとして、やめた。持ち上げても、行く先がなかったからである。長老は束を元の場所へ戻し、それ以上、何もしなかった。
春日山城の評定の間では、景勝が帳面を三冊とも開いたまま、畳に並べていた。
「残日数は」
「兵糧、あと四十二日」
「金は」
「金蔵、底が見えており申す」
信綱の声には抑揚がなかった。数字を読み上げるだけの声であった。
「他国からの借用は」
「越中、断られました。会津、返答なし」
「小田原は」
信綱は一拍、間を置いた。
「今のところ、音沙汰なし」
広間の末席に控えていた老臣の一人が、膝を進めた。
「殿。いつ、打って出られる」
景勝は答えなかった。老臣はさらに言った。
「敵は、城を囲んでおりませぬ。それがしには、何と戦っているのか、分かり申さぬ」
老臣は膝の上で拳を握った。
「兵糧が尽きれば、我らは飢えて果てましょう。それは、戦って死ぬのとは、違い申す」
「せめて、槍の届く敵が、欲しゅうござる」
誰も、顔を上げなかった。
景勝は帳面へ視線を落としたまま、何も返さなかった。長い間を置いて、老臣はそれ以上は言わず、深く一礼して末席に戻った。景勝は帳面の余白に指を這わせた。何も書かれていない余白であった。そこに何を書き足せばいいのか、誰にも分からなかった。
御館では、上杉景虎が廊下に立ち、庭を見ていた。
「北条ならば」
景虎はそれだけを呟いた。声は小さく、誰にも届かなかった。相模には米があるはずだった。関東の平野は広く、実りも多いと聞いていた。氏政の蔵には、いつも兵糧が満ちていると、幾度となく耳にしてきた。届かぬはずがなかった。道はある。関所も、通れぬわけではないと聞いている。しかし、その道を進んでくるはずの北条の旗印が、どこにも見えなかった。何かが、どこかで、せき止められている。景虎はそこで、考えを止めた。答えが出なかったのである。庭には誰もいなかった。風だけが、乾いた土埃を巻き上げていた。従者の一人が、廊下の隅で粥の椀を運んできた。椀の中身は、米よりも湯の方が多かった。景虎は椀を受け取ったが、しばらく箸をつけなかった。廊下の奥から、別の従者が来て、片膝をついた。
「小田原へ遣わした使者、まだ戻りませぬ」
「幾日になる」
「十二日にございます」
景虎は椀を膝の上に置いたまま、答えなかった。従者はそれ以上何も言わず、深く一礼して下がった。景虎は椀の中の粥を、匙で一度だけ掬った。掬った粥を、そのまま椀へ戻した。匙が椀の縁に当たり、乾いた音を立てた。
飯山関所では、仁科盛信が詰所の文机に向かい、帳面をめくっていた。通行手形の記録、荷駄の数、積荷の品目。この数日、記録すべき数はほとんど増えていない。盛信はめくる手を止めなかった。ただ、紙をめくる音だけが、詰所の中に響いていた。配下の一人が詰所へ入ってきて、報告した。
「越後より、荷駄一台。空でございます」
「通せ」
盛信は帳面から目を上げずに答えた。配下が去ると、盛信は帳面の余白に数字を一つ書き足した。空荷、一台。それだけの記録であった。盛信は筆を置き、帳面をひとつ前の頁へ戻した。十日前の頁には、荷駄の数がまだ二桁で並んでいた。今の頁とは、明らかに違う数である。盛信はその頁を指でそっと押さえ、押さえた指をすぐに離した。窓の外、関所の柵の向こうを、荷車を引かない馬が一頭、ゆっくりと通り過ぎた。
甲府では、武田勝頼が広間の中央に敷かれた一枚の絵図の前に座っていた。絵図には城の印がなかった。武将の名も、軍勢の配置も記されていない。あるのは、街道と川筋、そして関所の位置を示す点だけである。勝頼は筆を取った。筆先を墨に浸したまま、しばらく絵図の上で止めていた。線を引く先を、まだ決めかねているようであった。やがて墨を含ませ、絵図の中央、越後から信濃へ抜ける一本の街道の上に、一筋の線を引いた。線はまっすぐであった。震えず、迷わず、一息に引かれたのである。筆を置いたあと、勝頼はしばらく絵図から目を離さなかった。線の下の紙は、墨を吸って、わずかに色が沈んでいた。
そこへ、真田昌幸が廊下から広間へ入ってきた。絵図を一瞥し、それ以上は何も言わなかった。
「実績は、本日も、ゼロにございます」
勝頼は、頷いた。それだけだった。
その頷きに、驚きはなかった。
勝頼は、筆を筆架に戻した。筆の先が、木の受け皿に触れる、小さな音がした。勝頼の指先が、絵図の縁を一度だけ、軽く押さえ、すぐに離れた。昌幸は、絵図の上の一筋の線を、しばらく見つめていた。それから静かに一礼し、広間を出た。昌幸の足音が遠ざかるまで、勝頼は絵図から目を離さなかった。
廊下へ出た昌幸は、そのまま自室へは戻らず、庭に面した縁へ立ち止まった。庭には、手入れの済んだ松が一本、植わっている。昌幸はその松の幹を、しばらく見上げていた。やがて懐から小さな帳面を取り出し、開いた。越後の宿場ごとの馬借の数、帰り荷の割り当ての記録が、細かな字で記されている。昌幸は、その最後の行を見た。
筆は、取らなかった。
帳面を閉じ、懐へ戻した。
夜、甲府の一室、行灯の灯りの下で、勝頼は文机に向かっていた。行灯の油が、かすかに饐えた匂いを立てていた。勝頼は目を閉じなかった。ただ、灯りの揺れを、しばらく見つめていた。
勝頼は、深く、一度だけ息を吐いた。それだけだった。
部屋の外では、夜番の足音が、遠く一度だけ響き、消えた。
春日山の御蔵では、蔵番が蔵の扉を開けた。中には米俵がまだいくつか残っていたが、棚の奥、青苧を保管する一角は、すでに空であった。蔵番は俵の数を数えた。指で数えるまでもない数であった。蔵番は扉を閉めた。閂を下ろす音が、蔵の中に短く響いて、消えた。
小田原城では、北条氏政が広間の文机に向かい、算木を並べていた。三万動員、十二日行程、伝馬三百頭、松井田集積。着到状はすでに諸方へ発せられている。算木の並びは、寸分の狂いもなかった。氏政は算木の列を、指先でなぞった。なぞり終えると、控えていた家臣へ問うた。
「松井田への荷は」
「三割、届いておりませぬ」
氏政は、その返答に何も答えなかった。算木を見つめたまま、しばらく動かなかった。家臣がさらに続けた。
「宿場の馬借どもが、荷を渋っております。理由は、はきと分かりませぬ」
氏政は算木の一列を、指先で軽く押した。列は崩れなかった。整然と並んだままである。崩れないことが、かえって氏政の目には奇妙に映った。算盤の上では、何もかもが正しい。行程も、人数も、集積の場所も。それでも、荷は届かない。氏政は算木から目を離した。誰かが道を塞いだのではない。関所は開いている。誰かが荷を奪ったのでもない。荷は、宿場に積まれたまま、動かずにいるのである。人が、動かなくなっている。氏政はその考えを、口には出さなかった。庭を見た。庭には、何も動くものがなかった。
夜、春日山城の評定の間には、景勝が一人残っていた。三冊の帳面は、まだ畳の上に並んだままである。景勝は帳面のひとつを取り上げ、最後の行をもう一度見た。実績、ゼロ。景勝は帳面を閉じなかった。開いたまま、畳の上に戻した。灯りが一つ、部屋の隅で灯っていた。景勝はその灯りへ近づき、芯を切ろうとして、手を止めた。切らずとも、灯りはまだしばらく持つはずであった。景勝は灯りの前に座り、そのまま動かなかった。膝の上に置いた手の指先に、帳面の墨がうっすらと移っていた。景勝は、それを拭おうとはしなかった。庭の方から、夜番が打つ拍子木の音が、二つ、間を置いて響いた。
春日山城下では、夜になっても市の灯りは灯らなかった。いつもならば、夜市の松明が通りに沿って点々と並ぶはずである。今夜、その松明は一本も立っていなかった。通りには、犬の足音だけが響いていた。問屋の店主は、店の奥で、握ったままの武田金を文箱の中へしまった。しまう手が、一瞬止まった。金を見つめ、それから蓋を閉じる。蓋の閉まる音は、夜の中で、思いのほか大きく響いた。店主は文箱に鍵をかけた。鍵の回る音が、二度、続けて鳴った。店の表の戸を、内側から閂で閉ざす。閂の木が、乾いた音を立てて溝に落ちた。通りは、暗いままであった。その暗さの中を、拍子木の音だけが、間を置いて二度、遠く響いた。




