第百四十六話:小田原滞
第百四十六話:小田原滞
春日山城、まだ暗いうちから台所には人が集まっていた。
兵糧蔵から運び出されるのは、粥用の米だった。支給が半分に減らされてから、もう十日が経つ。台所の奥には、青苧の束が山と積まれたままになっていた。誰も買わない。誰も運ばない。景勝はその束を、廊下から一度だけ見た。何も言わなかった。誰にも声をかけず、そのまま自室へ戻った。障子の向こうで、雪がまだ薄く残っているのが見えた。
小田原城の広間には、朝の光がまだ十分に届いていなかった。
北条氏政は上座に座し、居並ぶ奉行たちの顔を順に見た。誰も目を合わせようとはしなかった。松井田集積の報告書が畳に置かれている。数字だけを見れば、何ら問題はなかった。予定三万石のうち、二万一千石が既に集積地に到着している。着到状も出揃い、動員兵も日々増えている。
氏政はその数字を見ながら、しばらく黙っていた。
「九千石が届いておらぬな」
奉行の一人が平伏したまま答えた。
「はい」
「途中で失われたか」
「失ってはおりませぬ」
「では」
「積まれております。ただ、動いておりませぬ」
氏政は眉をひそめた。積まれているが動いていない、という言葉の意味が、すぐには呑み込めなかった。街道はある。関所も通常通り開いている。今年は戦もなく、賊の噂も聞かない。橋が落ちたという話もない。荷を運ぶための障害は、どこにも見当たらないはずだった。
「では何故運ばぬ」
奉行は答えなかった。ただ畳に額をつけたまま、動かなかった。評定の間に、重い沈黙が広がった。氏政はその沈黙を、怠慢だと判じた。行政の不手際か、担当奉行の力不足か、あるいは現場の馬借どもの怠け癖か。そう考えれば、これまで通りの対処で済む話だった。氏政は評定を切り上げ、自ら松井田街道へ出ることを決めた。
最初の宿場では、荷蔵に米俵が山と積まれているのに、それを運び出す者の姿がなかった。
氏政は問屋を呼びつけた。
「何故運ばぬ」
「へえ、その、色々ございまして……」
要領を得ない答えだった。氏政は不機嫌なまま、次の宿場へ向かった。
二つ目の宿場でも、同じ光景があった。荷蔵は満ちているのに、道は動かない。氏政は馬借頭を呼んだ。老いた男は平伏したまま、なかなか口を開かなかった。氏政が重ねて問うと、ようやく低い声で答えた。
「損にございます」
「運賃は払う」
馬借頭は首を振るだけで、それ以上は語らなかった。氏政はその日、答えを得られないまま城に戻った。怠慢ではないらしい、ということだけは分かった。だが、それが何なのかは、まだ分からなかった。
三日目、三つ目の宿場を訪れたとき、氏政はようやく一人の馬借から、少し長い言葉を引き出した。
「殿。荷は往きだけではございませぬ。帰りもございます」
氏政は黙って続きを待った。
「今は、帰り荷がございませぬ」
「何故だ」
馬借は、しばらく躊躇ってから答えた。
「手形が出ませぬ」
「誰の」
馬借は答えなかった。ただ、視線を伏せたままだった。氏政はその沈黙の中に、初めて何かの輪郭を感じた。だが、まだそれが何であるかを、言葉にはできなかった。
その日のうちに、氏政は別の宿場を回った。同じだった。別の馬借に問うた。似た答えが返ってきた。問屋に問うた。やはり同じ沈黙があった。誰も申し合わせてなどいない。誰かに命じられているわけでもない。武田の兵など、誰一人として見た者はいない。それでいて、誰も荷を運ばない。
四つ目の宿場で、氏政はようやく気付いた。誰もが同じ言葉を避けている。誰もが同じところで口をつぐむ。命じた者がいないのに、全員が同じ行動を取っている。氏政はその事実の前に、初めて足がすくむのを感じた。
夜、小田原城に戻った氏政は、一人で算木を並べた。
三万の軍勢、十二日の行程、伝馬三百頭。何度並べ直しても、数字は正しかった。何一つ間違っていない。それでも、荷は動かない。氏政は算木を見つめたまま、長く動かなかった。
兵は命じれば集まる。伝馬も命じれば徴発できる。橋は直せる。関所は開けられる。それらはすべて、これまで氏政が積み上げてきたものだった。命令を発し、それに従わせる。それが北条のやり方であり、氏政はその頂点にいた。
だが、帰り荷だけは、命じて作れるものではなかった。
氏政はその一点に、指先が止まるのを感じた。行政は命じられる。利益は命じられない。誰にも命じられていないのに、なぜか誰もが同じ方を向いてしまう。それは氏政の知る支配のどの形にも当てはまらなかった。
正しいはずだった。正しいのに、動かない。氏政はもう一度、最初から並べ直した。三万の軍勢。十二日。三百頭。やはり正しい。指先が、算木の列にわずかに触れた。列の端が崩れた。氏政はそれを、拾わなかった。
翌朝、重臣を招集した。氏政は言った。
「運賃を倍にせよ」
家臣の間に、安堵の色が広がった。だが奉行の一人が、静かに口を開いた。
「三倍にいたしましても、同じかと存じます」
座が静まった。氏政が理由を問うと、奉行は答えた。
「馬借の利は、帰り荷にて出るものにございます。運賃ではございませぬ」
氏政はそれ以上、何も言わなかった。金で解決できる話ではないらしい、ということだけが、重く残った。
同じ頃、甲府では勝頼の前に昌幸、信豊、盛信が集まっていた。
報告が読み上げられる。北条の荷駄は四割減。松井田の備蓄不足は拡大の一途。越後からの流通は、依然として止まったままだった。
昌幸が言った。
「北条は、いずれ気付きましょうな」
勝頼は頷いた。それから、短く言った。
「気付いてからが、始まりだ」
誰も、それに言葉を返さなかった。勝頼は先の評定で自ら引いた街道の線を、もう一度見た。昌幸も、同じ線を見ていた。誰も口を開かなかった。灯りだけが、小さく揺れていた。
同じ夜、小田原では氏政が、崩れた算木を前に座っていた。
拾わなかった。並べ直しても意味がないと、もう分かっていた。
問題は算木ではない。道の上にあるのでもない。その道を行き来する者たちの利の中にある。
氏政は静かに目を閉じた。
甲斐の勝頼が何をしたのか。まだ分からない。だが、一つだけ確かなことがあった。
城なら攻められる。道なら塞げる。
だが、人の利は斬れない。
敵は城にはいない。街道にもいない。
人々が利益を求めて歩く、その流れの中にいる。




