第百四十四話:質入家宝
第百四十四話:質入家宝
雨は上がっていた。
国境の関所脇に、長い列ができていた。泥の上に並んでいた。誰も喋らなかった。先頭から最後尾まで、声がなかった。雨上がりの空気は冷たく、息が白く出た。空は薄い灰色で、太陽は見えなかった。雲の切れ間から光が一筋落ち、泥の表面をわずかに光らせていた。仁科盛信は朝の見回りの途中、その列を見て足を止めた。
並んでいるのは、越後の使者や家臣たちだった。身なりはかつて良かったのだろう、衣服の縁は擦り切れ、色が褪せていた。それでも背筋は伸びていた。皆、何かを抱えていた。絹の袋に包まれた細長いもの。木箱。巻物。両手で胸に抱え、列の前へ進むたびに、半歩ずつ進んだ。誰もが俯いていたが、抱えているものだけは、決して落とさぬよう両腕で固く抱えていた。
先頭近くに立つ老武士の袖が泥で汚れていた。何度も座り込んだのだろう、膝の辺りも黒く染みていた。それでも男は背を丸めず、列の前を見つめていた。盛信はその目を見た。何も訴えていない目だった。怒りも、悲しみも、すでに表に出ていなかった。ただ前を見ていた。腰には脇差が一本だけ差さっていた。
盛信はその列の先を見た。木戸があった。閉まっていた。中から物音はしなかった。列の男たちは木戸を見ていた。瞬きもせず、動かなかった。風が吹き、列の端の男の懐から紙の端がのぞいた。男はすぐに袖でそれを隠した。
背後で足音がした。
真田昌幸だった。手に紙の束を持っていた。懐から算盤の角がわずかに覗いていた。羽織の裾が朝露で湿っていた。
「真田」
盛信は言った。
「あの者たちは何をしに来た。武器を持って、なぜ並んでいる」
昌幸は列を一度見た。表情を変えなかった。
「用達所にございます」
昌幸は言った。
それだけだった。盛信は昌幸を見たが、昌幸はそれ以上言わなかった。木戸の方を見ていた。手に持った紙の束を、もう一方の手で軽く叩いた。
木戸が開いた。
先頭の老武士が、一歩踏み出した。
帳場の中は薄暗く、机が一つあった。机の向こうに駿河屋の手代が坐っていた。算盤と帳簿と筆があった。机の脇に蝋燭が一本立っていた。盛信と昌幸は、帳場の隅の暗がりに立っていた。床板の隙間から冷たい風が上がってきた。壁には木箱が積まれ、その中身は見えなかった。
手代は四十がらみの男だった。手の節が太く、指の腹に墨が染みていた。背筋を伸ばし、机に向かう姿勢を崩さなかった。声を荒げることもなく、淡々と動いた。喜びも、苦痛も、その顔には浮かんでいなかった。ただ役目をこなす者の顔だった。
老武士は机の前に進んだ。震える手で、絹の袋の紐を解いた。指がうまく動かず、二度結び目に引っかかった。それでも自分でやり遂げた。中から太刀が現れた。鞘は黒く、柄に古い組紐が巻かれていた。刃文が蝋燭の光を受けて細く光った。
「我が主が、川中島にて輝虎公より直々に賜った太刀である」
老武士は言った。声が震えていた。
「これにて、米を買うための武田金に換えていただきたい」
手代は太刀を見た。手に取った。鞘を払い、刃を一瞥した。すぐに鞘へ戻した。机の上に置いた。コツン、という乾いた音がした。指先で鞘の表面をなぞり、傷の有無を確かめるような仕草をしてから、手を離した。
「米五俵分の武田金になります」
手代は言った。
「何だと」
老武士の声が裏返った。
「軍神の恩賞ぞ。それが米五俵分の金とは、あまりの……」
手代は答えなかった。算盤に指を伸ばした。玉を一つ、弾いた。
パチ。
「今、越後に米はございませぬ。明日には、この武田金でも米三俵しか買えぬやもしれませぬな」
老武士の手が太刀の柄に伸びかけた。指が止まった。帳場の外に、武田の足軽が二人立っていた。槍を持ち、動かなかった。老武士はその影を見た。手を止めた。
長い間があった。
蝋燭の炎が揺れた。机の上の太刀に、その光が一瞬当たり、また陰った。老武士の喉が一度動いた。何かを呑み込んだ。それきり、声は出なかった。
老武士は太刀を机に残し、震える手で武田金を受け取った。米五俵分に相当する武田金だった。老武士はそれを懐へしまい、深く頭を下げて帳場を出ていった。
盛信はそれを見ていた。手代は太刀を脇へ寄せた。すでに何振りもの太刀がそこに積まれていた。鞘が重なり、鯉口の金具が触れ合った。音はしなかった。誰もそれに触れなかった。積まれた太刀の山は、棚の上で静かに横たわっていた。古い鞘の漆が、蝋燭の光に鈍く照り返していた。
刀を持って来る者の列が幾人か続いた。手代の動きはどれも同じだった。手に取る。払う。見る。戻す。机に置く。算盤を弾く。武田金を渡す。それだけが、何度も繰り返された。違うのは、差し出される太刀の長さと、男たちの顔だけだった。具足を持ち込む者もあった。同じように検められ、同じように武田金が渡され、同じように静かに去っていった。
やがて、一人の壮年の男が進み出た。手には太刀ではなく、一巻きの紙を持っていた。盛信はそれを見た。巻かれた紙の端に、朱の印が見えた。
男は巻物を机の上に広げた。土地の図面だった。線が幾本も引かれ、田の形が描かれていた。隅に文字があった。代々受け継いだ田の名と、先祖の名が記されていた。
「これは……」
手代は図面を見た。指でなぞった。線の上を、ゆっくりとなぞっていった。男の顔を一度も見なかった。
「先祖代々、上杉家より安堵されし地にござる」
男は言った。声は低く、抑えられていた。
「武田金をお願い申す」
手代は何も言わず、机の脇の大福帳を引き寄せた。表紙を開いた。新しい頁を出した。筆を取った。図面の線をもう一度なぞり、面積を確かめた。算盤を引き寄せ、指を動かした。パチ、パチ、と音が続いた。男はその音を聞いていた。瞬きをしなかった。
帳場の奥に、別の図面が幾重にも重ねられているのが見えた。すでに同じように検められ、写し取られた土地の記録だった。一枚、また一枚。同じ筆跡で、同じ様式で、隙間なく並んでいた。盛信はその束の厚みを見た。一日でこれだけの厚みになるのだとおもうと、背筋が冷えた。
「反別、これだけと相成ります」
手代は数字を読み上げた。淡々とした声だった。男は何も答えなかった。
手代は筆を持ち直し、大福帳に書き写しはじめた。田の名。位置。広さ。収穫の見込み。返済あるまで、当該地の年貢取立の権を武田方が預かること。返済済みの折には、元の名請へ戻すこと。一行、また一行。筆の先が紙を擦る音だけが帳場に響いた。男はその筆先を見ていた。自分の田の名が、見知らぬ符丁と数字の列に置き換えられていくのを、ただ見ていた。父の名、祖父の名が、図面の隅に小さく記されていた。手代の筆はそれらの名を一度だけなぞり、写し、また次の行へ進んだ。名は、もう一度書かれることはなかった。
書き終えると、手代は図面を脇へ寄せた。元の図面は質札とともに丁重に畳まれ、返済の日まで預かりとして木箱へ納められた。代わりに、包みに入れられた武田金を男の前に差し出した。土地の価値に応じて見積もられた武田金だった。
男は武田金を受け取った。手の中で、包みはやけに軽かった。男はその軽さに、しばらく手を止めていた。動かなかった。やがて、包みを懐にしまい、何も言わずに木戸を出ていった。
盛信は見ていた。太刀は、軽い。鉄でできていても、軽い。だが土地は違うはずだった。先祖から受け継いだ田が、飢えをしのぐため担保となり、包み一つの武田金へ姿を変えていった。城は攻められていなかった。兵は一人も死んでいなかった。それなのに、何かが確実に奪われていた。盛信にはそれが分かった。
「真田」
盛信は昌幸の方を向いた。声を抑えられなかった。
「あれは……武士の誇りを、算盤一枚で奪っているのではないか」
昌幸は答えなかった。盛信は詰め寄った。手が昌幸の胸元に触れかけた。
「答えよ」
昌幸は盛信の手を静かに払った。視線は帳場の机に向けられたままだった。
「城を攻めれば、彼らは死にます」
昌幸は言った。
「だが、これでは生きながら殺されているではないか」
「生きれば、田は耕せます」
昌幸は言った。
「生きておれば、いずれ取り戻せます」
それだけだった。昌幸はまた帳場の方を見た。盛信は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。手代の算盤の音が続いていた。
日が傾きはじめても、列は短くならなかった。むしろ後ろから新たな者たちが加わり、列は緩やかに伸びていった。誰かが噂を聞きつけ、隣の郷から駆けつけたのだろう。草鞋の泥がまだ新しく、息も荒かった。男はすぐに列の最後尾についた。何も言わず、ただ順番を待った。
盛信は外の様子を一度見た。木戸の隙間から、列の長さがうかがえた。先ほどより明らかに長くなっていた。誰も並べと命じてはいなかった。誰も脅してはいなかった。それでも列は伸びていった。盛信はその光景に、刀を抜いて止められるものなら止めたいとおもった。しかし、刀で斬るべき相手がどこにもいなかった。
盛信は列を見続けた。誰も叫ばなかった。誰も泣かなかった。ただ順番に、抱えてきたものを机の上に置き、武田金を受け取り、去っていった。土地の図面を持つ者は、太刀を持つ者より多くなっていった。最初は刀が、次に具足が、やがて図面が、列の主役になっていった。盛信の中で、何かが冷たく固まっていった。
夕暮れになった。
用達所の裏手で、荷車に太刀が積まれていた。鞘と鞘が触れた。乾いた音がした。また触れた。乾いた音がした。何振りも積まれ、荷車が軋んだ。具足の箱もその上に重ねられた。土地の図面を写し取った紙の束は、別の小さな木箱に収められ、荷車の前方に置かれた。布が掛けられた。縄で縛られた。荷車が動き出した。車輪が泥を踏み、ぬちゃという音をたてた。甲府へ向かう道を、ゆっくりと進んでいった。
荷車を引く牛が一頭、低く鳴いた。蹄が泥に沈み、また上がった。牛の背に水滴が一つ落ち、毛を伝って消えた。荷車の後ろに、御者がもう一人ついていた。誰とも口をきかず、ただ手綱を握っていた。荷車の上で、太刀の鞘がまた一つ触れ合った。カタ、と乾いた音がした。木箱の中で、紙の束がかすかに擦れる音もした。荷車は陣屋の方角とは逆の道を進んでいった。山の稜線が、夕焼けの最後の光の中で黒く沈んでいった。
盛信はそれを見ていた。腰の刀に手を当てた。鞘の感触があった。重みがあった。荷車の音が遠ざかっていった。残照が荷車の轍を薄く照らし、轍はすぐに闇に紛れた。
泥が、足元でぬちゃと音をたてた。
盛信は歩き出した。陣屋への道を、一人で歩いた。道の脇の水たまりに、暮れていく空が映っていた。灰色から、もう少し暗い色へ変わりつつあった。風が出てきた。木々の枝が揺れ、葉のない枝先が空を擦るような音をたてた。盛信は足を止めず、その音を聞きながら歩いた。
道の途中、一本の古い欅があった。幹に古い傷があり、樹皮が盛り上がって治りかけていた。何かの刃物による傷だろう。誰がいつ付けたものかは分からなかった。古い傷は、すでに木の一部になっていた。盛信はその傷をしばらく見てから、また歩き出した。
今日見た者たちの顔が、一人ずつ浮かんでは消えた。老武士の震える手。図面を広げた男の、瞬きをしない目。誰も叫ばず、誰も泣かなかった。それが、盛信にはどうしようもなく恐ろしかった。武士が武士のまま終われぬのなら、自分たちは何のために槍を持ち、何のために陣を構えているのか。その答えは、夜道のどこにも落ちていなかった。
帳場の中、伝兵衛は最後の帳簿の頁を見ていた。本日預かった太刀の数、具足の数、質入れされた土地の反別。すべてが数字として、隙間なく並んでいた。
昌幸は帳場の隅に立っていた。何も言わなかった。窓の外で、荷車の音がまだかすかに聞こえていた。車輪の軋みが、夜の空気の中で薄れていった。
昌幸は懐の大福帳に、もう一度だけ目を落とした。数字の列を見た。それから、ふと顔を上げ、何も言わずに窓の外を見た。甲府の方角だった。遠く、闇の中に山があるはずだったが、雲に隠れて何も見えなかった。昌幸はしばらくそこを見ていたが、やがて目を伏せ、また帳簿に戻った。
伝兵衛は帳簿を閉じた。音はしなかった。蝋燭の炎が揺れた。窓の外で風が吹き、また止んだ。誰も何も言わなかった。
荷車の音が、闇の向こうへ消えていった。




