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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百四十三話:国境算盤

第百四十三話:国境算盤


 雨が降っていた。

 関川の武田方陣屋に、雨は降り続いていた。茅葺きの屋根を叩き、軒先の土へ落ちていた。一滴、また一滴。間隔は一定で、揺れなかった。仁科盛信は薄暗い室内に坐り、刀を拭っていた。白い布が鋼の上を滑り、根元から切先へ動き、また根元へ戻った。布の端が黒く滲んでいた。油と、ほこりの色だった。


 刃文を見た。波が一本、静かに走っていた。盛信はそれを見ながら、布を動かした。シュ。また動かした。シュ。その音以外、陣屋の中には何も聞こえなかった。雨の音だけが屋根を叩き続けていた。ト、ト、ト、ト。均一に、絶えず、飽くことなく。


 脇に具足があった。漆が黒く、雨の鈍い光を受けて沈んでいた。威の糸が整い、どの紐も緩んでいなかった。肩の板が揃い、籠手の鎖が束ねられ、脛当ての金具が列をなしていた。いつでも着けられる。着ければ出陣できる。川の向こうには兵がいた。米が足りず、塩が足りず、それでもそこにいた。こちらには三千の兵がいた。命令があれば動く。命令は来なかった。


 雨の音が続いた。


 具足の威の糸を、盛信は一度見た。糸は赤く、乾いていた。濡れていなかった。血も泥も付いていなかった。光を受けて赤いだけだった。盛信はまた刀に目を戻し、布を動かした。シュ。また動かした。シュ。鋼の冷たさが布を通して指に伝わった。冬の終わりの冷たさで、春になってもまだそこにあった。布をゆっくりと切先まで動かし、切先の端まで来たら、また根元へ戻った。刃文の波がその下を通り過ぎた。盛信は波を目で追った。追い、また追い、布が戻るたびに波も戻った。どこにも行かなかった。根元から切先、切先から根元。シュ。シュ。雨がまた屋根を叩いた。ト、ト、ト。その間も具足は動かず、命令は来なかった。


 板戸の外で足音がした。泥の上を草鞋が引きずられる音だった。近づいてきた。板戸が開いた。


 真田昌幸だった。羽織が雨で黒ずんでいた。肩から水が滴っていた。腕に大福帳の束を抱えていた。表紙が濡れ、紙の端が少し波打っていた。その後ろに足軽が一人、小さな木箱を胸の前に抱えて立っていた。昌幸は室内に入りながら、濡れた大福帳を胸に抱え直した。


 盛信は布を動かす手を止めなかった。


「甲府からの荷か」盛信は言った。「火筒か。矢弾か」


 昌幸は足軽に目を向けた。足軽は木箱を室内の机の上に置いた。


「算盤の予備の玉でございます」

 昌幸は言った。

「五十組。直江津の商人の動きを記した紙と共に」


 算盤の玉。


 盛信は布を止めた。刀を見た。刃文の波が一本、そのままそこにあった。昌幸は大福帳を机に置いた。表紙を開いた。数字の列が並んでいた。昌幸の指がその列を一行なぞり、止まった。


 渡し場に屯所があった。板張りの壁、藁葺きの屋根。煙突から煙が出て、雨に濡れてすぐ消えた。また煙が出た。また消えた。


 昌幸に連れられて来た盛信は、帳場の隅の暗がりに立っていた。板戸は内側から見ると薄く、雨が板の表面を流れる音が聞こえた。帳場には机があり、算盤があり、紙の束があった。硯が机の端に置かれ、筆が一本その脇に横たわっていた。男が一人、机に向かっていた。筆を動かし、算盤を弾き、また筆を動かしていた。その手の節が太く、指の腹に墨が染みていた。算盤の音がパチ、パチ、パチと規則的に響いた。男は算盤を見ながら帳簿に書き、筆を置き、また算盤を弾いた。弾くたびに指が素早く動き、玉が滑り、止まった。止まってから帳簿に目を移し、数字を確かめ、また筆を取った。蝋燭が一本机の脇にあり、炎が揺れた。男の影が壁に映り、算盤を弾くたびに影の腕が動いた。パチ。また動いた。パチ。風が来て板戸がわずかに軋んだが、男は動じなかった。


 外で声がした。


 駆け込んでくる音がした。泥を踏む、重い足音だった。板戸が勢いよく開いた。上杉方の使者が立っていた。泥が草鞋から板の上に落ちた。肩で息をしていた。懐から紙を取り出し、机の上に叩きつけた。紙は机を滑り、男の手の前で止まった。


「春日山よりの印である」

 使者は言った。声が板壁に当たり、消えた。

「急ぎ米三十俵を融通せよ。後日かならず清算する」


 男は紙を取った。見た。指が端を押さえた。紙をゆっくりと使者の方へ押し返した。


「お断りいたします」


「何故だ。上杉の印が見えぬのか」


「規定でございます」

男は言った。

「現銀なきお引替えは、一粒たりともできかねます」


 使者の手が刀の柄に触れた。指が白くなった。関節の下で骨が浮いた。男は顔を上げなかった。算盤に目を落としたまま、動かなかった。怯えていなかった。怒ってもいなかった。それがおかしかった。何がおかしいのか言えなかった。


 しばらくの間があった。


 使者は紙を掴んだ。机の上から引き上げ、懐に押し込んだ。何も言わず、板戸を出た。泥の足音が遠ざかり、聞こえなくなった。男は算盤に指を伸ばした。玉が鳴った。パチ。また鳴った。パチ。筆を取り、帳簿に書いた。墨の音がした。止まった。また算盤を弾いた。パチ。


 盛信は暗がりに立ったまま、それを見ていた。


 屯所を出てから雨は細くなっていたが、まだ降っていた。泥の道に水たまりができ、空の色が映っていた。白く、動かなかった。


「真田」

盛信は言った。

「なぜあの紙を受け取らぬ。向こうは飢えているのだ。受け取れば恩も売れる。なぜ現銀にのみこだわる」


 昌幸は答えなかった。しばらく歩いた。泥の水たまりを避け、また泥を踏んだ。


「清算されませぬ」

昌幸は言った。


 また黙った。雨が降った。道が細くなった。木々が両側から迫り、枝が空を細く区切った。


「だから受け取りませぬ」


 それだけだった。盛信は昌幸の横顔を見た。何かを待ったが、昌幸はそれ以上何も言わなかった。大福帳を抱えたまま、泥の道を歩いた。屯所の方から算盤の音が聞こえた。パチ。パチ。雨が板壁を濡らした。音は続いた。


 陣屋への道の途中に、関川が見えた。霧雨に煙り、川幅が広く、黄褐色に濁っていた。川面に雨粒が落ち、無数の輪が広がり、消えた。また広がり、また消えた。


 対岸に人影があった。上杉の物見だろう、数人が木の根元にうずくまっていた。こちらの屯所の方角を見ていた。積まれた米俵の方を見ていた。動かなかった。ただそこにいた。


 盛信は川を見た。


 帳簿があった。算盤があった。積まれた米俵があった。それだけだった。槍も刀も弓も鉄砲も、使われなかった。使う必要がなかった。対岸の人影は動かなかった。川だけが流れていた。


 何かがおかしかった。しかし、その何かを掴めなかった。


「不気味なものだな」

盛信は言った。誰にともなく。

「これほど腹の底が冷えるとは、おもわなかった」


 昌幸が隣に立った。川を見た。大福帳を雨から守るように胸に抱えていた。


「盛信様」

 昌幸は言った。

「越後は内側から腐ります」


 それだけ言って、また黙った。盛信は昌幸を見た。昌幸は川を見ていた。対岸の人影を見ていた。表情がなかった。怒りもなく、悦びもなく、ただ川を見ていた。


 盛信は川に目を戻した。


 腐る。


 盛信はその言葉だけを反芻した。雨粒が川面に落ち続けた。輪が広がり、消えた。広がり、消えた。対岸の人影は動かなかった。


 夕方になって雨が上がった。


 雲の切れ間から光が一筋差し込み、川面を一瞬白く光らせた。それだけだった。光はすぐに消えた。雲が閉じた。道が暗くなっていた。


 盛信は陣屋への道を一人で歩いた。昌幸は屯所に残った。大福帳の仕上げがあると言った。足軽もいなかった。盛信の足だけが泥を踏んでいた。


 道の脇に草むらがあった。虫の声がした。じ、じ、じ、と細く、頼りなく鳴いていた。川の音が遠くに聞こえた。ゴォという低い音で、地の底から来るようだった。枯れた枝が道に落ちていた。踏んで、折れた。音がした。またすぐに静かになった。


 腰の刀がかすかに揺れた。鞘の中で音がした。カタ、と。


 盛信は歩きながらその音を聞いた。一歩、また一歩。泥の道は暗く、足元がよく見えなかった。踏み込むたびに草鞋の底が沈み、引くたびに泥が吸った。ぬちゃ。また沈んだ。ぬちゃ。道の両側に木々が迫り、枝が頭の上を覆った。葉はまだ薄く、空の暗さが枝の間から落ちてきた。風がなかった。虫だけが鳴いていた。じ、じ、じ。草鞋が沈むたびに虫の声が止まり、足を上げると再び鳴きはじめた。止まり、鳴き、止まり、鳴いた。盛信はその音の中を歩き続けた。


 帳場の男の顔がおもい浮かんだ。節の太い手だった。指の腹に墨が染みていた。使者が叫び、紙を置き、去った。男はその間ずっと帳簿を見ていた。筆を動かし、算盤を弾き、また筆を動かした。怯えていなかった。怒ってもいなかった。それがおかしかった。何がおかしいのか言えなかった。


 道が曲がった。木々が薄くなり、空が少し広くなった。星が一つ出ていた。まだ一つだけだった。盛信は枝の間のその星を見た。一歩踏んだ。また踏んだ。星は木の向こうに消えた。また別の枝の隙間に見えた。消えた。また見えた。草鞋が泥を踏む音と、刀が揺れる音と、虫の声だけが続いた。道が開けた。陣屋の灯りが見えた。小さな光が木々の向こうに揺れていた。盛信はそれを見た。歩みを続けた。泥が草鞋を吸った。腰の刀がまた鳴った。カタ、と。その音だけが、どこかはっきりと聞こえた。


 屯所の帳場では、伝兵衛が最後の数字を書いていた。


 蝋燭が一本、机の上にあった。炎が揺れた。窓の外で夜風が板壁を押し、軋んだ。炎がまた揺れた。伝兵衛の筆が動いた。数字を書いた。止まった。帳簿の列を指で辿った。一行。また一行。指が止まった。また動いた。一行。また一行。筆を取り、端に小さな印を付けた。筆を置いた。硯の縁に音もなく戻った。


 昌幸は帳場の隅に立っていた。大福帳を閉じていた。何も言わなかった。伝兵衛も何も言わなかった。蝋燭の炎だけが揺れた。窓の外で川が流れていた。関川の音が板壁を通して入ってきた。低く、絶えず、どこかへ向かって流れ続けていた。


 伝兵衛は筆を置いた。


 帳簿を見た。数字の最後の行を一度だけ確かめた。


 伝兵衛は両手を帳簿の両端に置いた。ゆっくりと閉じた。


 バタン。


 湿った紙と重い表紙が合わさる音が帳場に広がった。昌幸は動かなかった。帳場の外から川の音が来た。板壁が一度軋んだ。蝋燭の炎が揺れ、また戻った。


 誰も言葉を発しなかった。


 川が流れた。蝋燭が揺れた。板壁が静かになった。


 帳簿は机の上にあった。閉じられたまま、そこにあった。米俵が脇に積まれていた。縄は解かれていなかった。塩俵が奥に見えた。表面が白く滲んでいた。


 昌幸は帳簿を見ていた。

 川が流れた。炎が揺れた。

 伝兵衛の指が算盤へ伸びた。指先が玉に触れた。


 川が流れた。蝋燭の火が細く揺れた。玉が走った。

 パチン

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