第百四十二話:境界封鎖
第百四十二話:境界封鎖
五月下旬。
春日山城の奥書院に、蝋燭が一本立っていた。火は揺れない。風が入らぬよう、板戸がすべて閉められていたからだ。それでも炎の先端はわずかに、呼吸するように揺れた。上杉景勝は文机の前に坐っていた。正座で背筋を伸ばし、両手は膝の上に置かれていた。書状が一枚、机の上に置かれている。国境からの報告書だった。四月の初めに出され、三日かけてここへ届いたものだ。紙は湿気を含んでおり、山を越えてきたのだろう、端のほうが泥で薄く汚れていた。
景勝はその紙を見ていた。ただ見ていた。蝋燭の火が、また揺れた。書状には数字が並んでいた。米の量、塩の量、兵の数、馬の数、それから届かなかった物資の品目、そして向こう岸に積まれているという俵の数。景勝の視線が、その数字の上をゆっくりと動いた。一列。また一列。蝋燭の火が、また少し傾いた。どこかで鴉が鳴いた。遠い。城の外だろう。声はすぐに消えた。
景勝は書状を置いた。机の上に、静かに。長い沈黙が続いた。指先が、書状の端に触れた。紙の質感と湿り気を感じた。冷たかった。山を越えてきた紙は、いつもこうして冷たい。どこかで鳥が鳴いた。また消えた。蝋燭が少し縮んだ。やがて、景勝は口を開いた。
「……分からぬ」
それだけだった。书状は机の上に残り、蝋燭は燃え続けた。景勝は立ち上がった。衣擦れの音だけが響いた。
関川の岸に、雪解けの泥があった。泥は深く、一歩踏み込むたびに草鞋の底が沈み、足を引き抜くたびにぬちゃという音がした。足軽たちは列をなして歩いていた。誰も喋らなかった。
景勝の使番、伊織は列の先頭を歩いていた。右手に関川が流れ、川幅はまだ広く、雪解け水が増えて濁っていた。川面は黄褐色で、流木が一本ゆっくりと下っていった。流木は岸の草に引っかかり、また離れ、また流れた。
山から吹き下ろす風が来た。まだ冷たい。首筋に当たり、衿の中へ入ってくる。伊織は肩をわずかに竦めたが、歩みは止めなかった。後ろで馬が鼻を鳴らした。伊織は振り返らなかった。馬は痩せていた。肋骨が皮の下に浮いて見えた。それでも馬は荷を背負って歩いた。足軽の一人が腹を押さえ、腹の音がした。男は顔を赤くして前を向いたが、誰も何も言わなかった。
泥が続いた。草鞋の藁が重さで歪み、底の編み目から泥が滲んでいた。歩くたびに足の指の間に泥の冷たさが入ってきたが、立ち止まることはしなかった。道の脇に残雪があり、影になっているところだけまだ白く残っていたが、その白さは泥に汚れていた。残雪の端が黒ずみ、踏みにじられた跡があった。誰かがここを歩いた。いつかは分からなかった。
川沿いの道はゆるやかに曲がり、曲がるたびに木々が道の両側に迫ってきた。枝はまだ葉を持たず、細い枝が空に向かって伸びていた。空は白く、太陽は見えなかった。光だけがあった。風が来て、細い枝が揺れた。揺れてから止まった。伊織の後ろで足軽たちが歩き、草鞋が泥を踏む音が続いた。馬の荷が揺れ、縄がきしんだ。
道がまた曲がった。川が近くなった。水の音が大きくなった。濁った川面に光が反射し、伊織の目に入った。伊織は目を細めた。川岸に石があり、石の上に残雪が薄く乗っていたが、端から溶けていた。溶けた雪が石から垂れ、川に落ちた。落ちた場所の川面が一瞬揺れ、また静かになった。物見の足軽が前方に指を差し、低い声で言った。
「あそこに。向こうには米があります」
伊織は目を細めた。川の向こうに武田の旗が見え、風に揺れて止まった。旗の下に屯所があり、板張りの壁と藁葺きの屋根、煙突から煙が出ていた。煙は風に流れ、消えた。また煙が出た。伊織は歩き続けた。泥が草鞋を吸い、足が重かったが、川沿いの道をただ前へ進んだ。風が来るたびに首が縮んだ。足軽たちが黙って続き、誰も笑わなかった。馬の蹄が泥を踏む音が続いた。
渡し場に板橋があった。橋の手前に武田の足軽が二人、槍を持って立っていた。穂先が午後の光の中で鈍く光り、二人は動かなかった。目が合っても動かなかった。伊織の一行が橋の手前で止まった。足軽の一人が橋を渡りかけたが、槍の石突が板の上に落ち、ドンという乾いた音が響いた。足軽は止まった。伊織は前に出た。
橋の向こうに屯所があり、入口の板戸は開いていた。中に帳場が見え、机、算盤、紙の束、筆、硯があった。男が一人、机に向かっていた。年の頃四十を少し超えたくらいで、頭を下げ、筆を動かしていた。算盤の音がパチ、パチ、パチと規則的に響いた。男は算盤を見ながら帳簿に書き、筆を置き、また算盤を弾いた。風が来て板戸がわずかに軋んだが、男は動じなかった。算盤の音だけが屯所の外まで聞こえた。
伊織は橋を渡った。板が足の下でたわみ、川の音が近くなった。水は濁り、勢いがあった。橋の下を川が流れ、橋板の隙間から水面が見えた。武田の足軽たちは動かず、槍も動かなかった。ただ石突の跡だけが橋板に残っていた。屯所の入口に立った。男は顔を上げなかった。筆を動かし続け、帳簿の列に数字を書き込んでいた。墨の匂い、湿った紙の匂い、算盤の木の匂いがした。
伊織は待った。算盤の音がパチ、パチと続いた。筆の音がした。また算盤の音がした。帳場の脇に米俵が六つ七つ積まれ、その向こうに塩俵が見えた。縄で縛られ、表面にうっすらと塩が滲んで白かった。俵は整然と積まれ、崩れなかった。風が板戸を押した。軋んだ。男は動かなかった。
パチ。パチ。パチ。
伊織の後ろで側近が立っていた。足軽たちは屯所の外で待っていた。馬が鼻を鳴らした。帳場の上に蝋燭が一本あり、火が揺れた。男の影が壁に映り、算盤を弾くたびに影の腕が動いた。パチ。また動いた。パチ。伊織は立ったまま待った。
算盤の音が止まった。
男が顔を上げました。目が合った。
「駿河屋伝兵衛と申します」
「春日山御用である」伊織は言った。声は屯所の中で思ったより小さく聞こえた。
沈黙があった。
伝兵衛は何も言わなかった。伊織は御用の趣旨を述べた。兵糧の不足、春日山の窮状、国境を守る兵の数。言葉は続いた。伝兵衛は聞いていた。帳簿を見ながら聞いていた。顔を上げずに聞いていた。伊織の声が屯所の中に広がり、板壁に当たり、消えた。外では関川が流れ続け、風が板壁を押した。長い間を置いてから、伝兵衛は静かに言った。
「お断りいたします」
それだけだった。伊織の側近が息を吸い、後ろで誰かが動く気配があった。
「何故だ」
伊織は言った。
伝兵衛は帳簿に目を落とし、指がゆっくりと一列また一列を動かした。指先が紙の上を滑り、止まり、また動いた。
「帳簿が合いませぬ」
伊織は黙っていた。側近が前に出て声を荒らげたが、伝兵衛は顔を上げず繰り返した。
「帳簿が合いませぬ」
声は変わらなかった。高くもなく、低くもなかった。側近の手が刀の柄に触れたが、屯所の外で槍の石突が板を叩くドンという音が響いた。一度。伊織は手を上げて側近を止めた。懐から春日山の印が押された紙を出し、机の上に置いた。紙は机の上を滑り、伝兵衛の手の前で止まった。伝兵衛は紙を取った。一瞥した。机へ戻した。
「お受けできませぬ。規定でございます」
「現銀でなければ通せませぬ」
屯所の中は静かだった。外で風が吹き、板壁が軋んだ。米俵と塩俵は積まれたままだった。縄は解かれていなかった。伝兵衛は筆を取り、帳簿に何かを書いた。書き終えると筆を置いた。机の上の春日山の印が押された紙は、そのままそこにあった。
伊織は立っていた。
「現銀か」
声は静かだった。伝兵衛は答えず帳簿を見ていた。伊織の手が腰に行き、刀の柄を握った。関節が白くなり、皮膚の下で骨が浮いた。伝兵衛は顔を上げなかった。帳簿を見ていた。指が一列を辿り、止まった。
屯所の外から風の音と関川の流れる音が聞こえた。馬が一度鼻を鳴らした。足軽の誰かが草鞋を泥に踏み込む音がした。屯所の中には帳簿と算盤と伝兵衛と、刀の柄を握る伊織と、春日山の印が押されたまま机の上に残っている紙があった。伝兵衛の指は帳簿の上で静止していた。動かなかった。伊織の手は柄の上にあった。白い関節がそのままそこにあった。
風が来た。板壁が鳴った。川が流れた。
やがて手が降りた。柄から離れ、腰の脇にぶら下がった。
「……引き上げる」
伊織は小さく言った。
側近が何か言いかけたが聞かず、踵を返して入口へ出た。泥があり、草鞋の底が沈んだ。伊織は歩いた。橋を渡った。板がたわみ、川の音が足の下から聞こえた。武田の足軽たちは動かず、こちら側の岸に戻った。足軽たちと馬が続き、伊織は振り返らなかった。一度も振り返らなかった。
泥が草鞋を吸い、ぬちゃという音が続いた。風が首筋を冷やした。川の音が遠ざかった。道が曲がった。木々が両側に迫り、枝が空に向かって伸びていた。来た道と同じ道だった。同じ泥で、同じ風で、同じ細い枝が同じように揺れた。しかし誰も口を開かなかった。足軽たちは黙って歩いた。馬も黙って歩いた。草鞋が泥を踏む音だけが続いた。
道の脇を見た。残雪があった。来た時に見た残雪と同じ場所だった。端がまた少し溶けていた。来た時よりも小さくなっていた。その間に溶けたのだった。伊織は目を戻し、前を向いた。泥を踏んだ。また踏んだ。屯所の屋根が木々の向こうに見え、やがて木々に隠れた。武田の旗が最後に見え、消えた。泥と足音と風だけが残った。道は泥で、草鞋は重く、風はまだ冷たかった。
春日山への道は長かった。
夕暮れになっても伊織の一行は山を越えていなかった。日が陰り、空の白さが暗みを帯びはじめた。枝の先端が空に溶けるように見えなくなった。馬が一度足を滑らせたが、転ばなかった。足軽の一人が呟いた。何を言ったのか伊織には聞こえなかった。誰も返事をしなかった。
峠の手前で一行は立ち止まった。
道の脇に小さな祠があった。屋根の藁が腐って崩れ、石の台座だけが残っていた。台座の上に何があったのかは分からなかった。長い間誰も参らなかったのだろう、台座の前には榊も米もなかった。ただ石があった。風が吹き、枯れた藁の欠片が台座の上を転がり、落ちた。
足軽の一人が水筒を出して飲んだ。もう一人が乾いた握り飯を取り出した。米が固く、噛む音がした。誰も話さなかった。伊織は祠の石を見ていた。台座の隅に苔が生えていた。苔は濡れて緑が暗く、指で触れれば冷たいだろうとおもった。触れなかった。
暗くなる前に越えなければならなかった。
伊織は歩きはじめた。一行が続いた。峠道は細く、左に崖、右に斜面が続いた。崖の下に沢の音が聞こえた。水は速く、石に当たる音がした。伊織は足元を見ながら歩いた。石が濡れていた。踏むと滑った。足を慎重に置いた。後ろで馬が息を荒げた。荷が重かった。運べなかったものを返して帰る荷よりも、持って行けなかった荷のほうが重いとおもった。しかしそれを言葉にはしなかった。
峠を越えた。
下りの道は暗く、木々が密になり、空が細くなった。空の一筋だけに残光があり、それも消えつつあった。足元に枯れ葉が積もり、草鞋の底が柔らかく沈んだ。泥とは違う沈み方だった。音も違った。足軽たちの足音が変わり、草鞋が枯れ葉を擦る音になった。馬の蹄が枯れ葉を踏み、乾いた音がした。
道が開けた。谷が見えた。谷の向こうに灯りが一つあった。農家の明かりだろう、薄く揺れていた。伊織はそれを一度見て、目を戻した。谷に霧が出はじめていた。低く、白く、木々の根元を包みはじめた。霧の中で枯れ草が揺れ、揺れてから静かになった。
春日山城に戻ったのは夜半を過ぎたころだった。
門を入り、馬を厩に預けた。厩の中は温かく、藁の匂いがした。馬は水桶に顔を突っ込んで長い間飲んだ。伊織は厩の外に立っていた。空に星が出ていた。星は多く、空は澄んでいた。昼の白い空とは別の空のようだった。息が白く出て、風のない夜の中に散った。
足軽たちが解散した。音もなく、言葉もなく、それぞれの詰所へ消えた。最後の一人が角を曲がった。足音が消えた。伊織は城の廊下に入った。
奥書院に灯りがあった。
伊織の足が止まった。
こんな夜半に灯りがあるとすれば、景勝だろう。しかし呼ばれてはいなかった。伊織は廊下を歩いた。灯りに近づいた。板戸の手前で立ち止まった。中に気配があった。紙の音がした。一枚、また一枚。
伊織は膝を折り、廊下に坐った。
板戸に向かって、名を名乗った。
「伊織にございます。ただいま戻りました」
しばらく間があった。紙の音が止んだ。
「入れ」
伊織は板戸を開けた。奥書院の中に蝋燭が一本あった。朝よりも縮んでいた。同じ蝋燭かどうかは分からなかった。景勝は文机の前に坐っていた。朝と同じ場所だった。机の上に紙が広がっており、幾枚かが重なっていた。書状の束と、白紙が混じっていた。白紙にはまだ何も書かれていなかった。
「どうであった」
景勝は言った。
伊織は報告した。声は静かだった。橋の手前で止められたこと、渡し場の屯所に帳場があったこと、駿河屋伝兵衛という男が帳簿を見て断ったこと、現銀でなければ通せぬという言葉があったこと。それだけを言った。感情は入れなかった。入れようとしなかった。向こう岸に米俵と塩俵が積まれていたこと、縄が解かれていなかったこと。それも言った。算盤の音のことは言わなかった。言わなかったが、なぜ言わなかったのかは自分でも分からなかった。
景勝は聞いていた。
机の上の蝋燭が揺れた。火が小さくなり、また戻った。景勝の目は伊織を見ていたが、どこを見ているのかは分からなかった。報告が終わっても、景勝は黙っていた。長い間だった。伊織は下を向いて待った。板の目が見えた。木目が細かく、節が一つあった。
景勝が言った。
「関川の備えは、その帳場と足軽の木戸だけか」
伊織は一瞬、喉を詰まらせた。伏せたまま、拳を畳に押し当てた。
「……いえ。渡し場の背後、霧の巻く木立の奥に、陣屋の篝火が幾つも揺れておりました。掲げられた武田の旗は、地侍のものではございませぬ。武田四郎勝頼の異母弟、仁科盛信の陣にございます。数は、およそ三千」
三千。
部屋の空気が、一段と冷えたようだった。
「我らが一歩でも川を越え、力ずくで俵を奪おうとすれば、即座に押し包む構えにございます。されど向こうは、槍を構えたまま一歩もこちらへは動きませぬ。ただ、商人の後ろに立っております」
また黙った。蝋燭の火が揺れた。机の上の白紙が、その光の中で白く光った。何も書かれていない紙だった。
「……そうか」
それだけだった。
伊織は下を向いていた。板の目を見ていた。景勝の息の音がした。長く、静かに吐かれた息だった。蝋燭が揺れた。白紙が光った。
「下がれ」
「はい」
伊織は板戸を閉めた。廊下に出た。板戸の向こうで紙の音が一度した。また止まった。廊下は暗かった。星明かりが欄干の外から差し込んでいた。伊織は廊下を歩いた。足音を立てないように歩いた。角を曲がり、灯りが見えなくなった。
屯所の中、帳場。伝兵衛は帳簿を見ていた。指が動き、列を一行ずつ確かめた。窓の外で風が吹き、板壁がわずかに軋んだ。煙突から煙が出て、風に流れた。机の上に春日山の印が押された紙が残っていたが、伝兵衛は見なかった。帳簿を見続け、一行、また一行。指が止まり、算盤に伸びた。玉に触れた。指先が冷たい木の感触を確かめた。払った。
パチン。




