第百四十一話:城中分道
第百四十一話:城中分道
天正六年、五月中旬。
越後・春日山城。
謙信が倒れてから、六十日が過ぎていた。
城の中では、鐘が鳴らなかった。
葬儀の準備は、止まったままだった。主の遺骸は、塩を敷き詰めた棺の中にある。外の春は深くなっていた。桜はとうに散り、若葉が山の稜線を覆い始めていた。城の外では鳥が鳴き、川が流れ、土が温まっていた。城の内だけが、冬のままだった。廊下は暗く、燭台の油が減るのが早かった。夜番の者が足音を殺して歩いていた。声を上げれば、その声が城の中のどこかで別の何かを動かしてしまいそうだった。誰もが、そう感じていた。だから誰も、声を上げなかった。
炊事場は、二つに分かれていた。
景勝の側仕えの者が汲む水と、景虎の側仕えの者が汲む水は、別々の井戸から来た。竈は東と西に一つずつあり、同じ米を炊いていても、香りが混じることはなかった。炊き上がった飯は、それぞれ別の盆に盛られ、別々の廊下を通って運ばれた。廊下の途中で顔を合わせれば、どちらも視線を外した。謙信が西征のために発した動員は、まだ解かれていなかった。集められた兵は六十日を過ぎても城下と要地に留め置かれ、毎日同じように飯を食う。兵糧蔵から運び出される米俵だけが、戦の最中のような速さで静かに減り続けていた。
厩でも同じだった。
景勝の馬と景虎の馬は、柵で仕切られた。水も飼葉も別に用意された。厩番は仕切りの向こうへ足を踏み入れなかった。踏み入れる必要がなかった。踏み入れた者は、その夜のうちに詰問を受けた。詰問の内容は漏れてこなかった。ただ翌朝、その厩番は城の中での持ち場を替えられていた。誰も理由を聞かなかった。
湯殿は、刻限で切り分けられた。
午の刻までが景勝派。それ以後が景虎派。誰が決めたというわけでもなかった。いつの間にかそうなっていた。破った者はまだいなかった。破れば何が起きるか、誰もが知っていたからだった。
昨日まで同じ飯を食い、同じ馬を世話し、同じ湯に入っていた者たちが、今は廊下の幅だけを挟んで、互いの首を数えていた。
声はなかった。笑いもなかった。
城は静かだった。静かであることが、かえって恐ろしかった。
板橋を渡る音がした。どこかで板が軋んだ。それだけだった。また静かになった。
謙信には、実子がいなかった。
跡を継ぐべき者は二人いた。どちらも養子だった。どちらが兄で、どちらが弟とも、はっきりとは定まっていなかった。
一人は上杉景勝。謙信の姉・仙洞院の子として、幼い頃から春日山に入った。上田長尾の血を引き、越後の奥に根を持つ者だった。城の者の多くはこちらを知っていた。顔を知っていた。声を知っていた。
もう一人は上杉景虎。相模の北条家から来た。北条氏政の弟として生まれ、越相同盟の証として謙信のもとへ送り込まれた。越後には血縁もなく、地縁もなかった。ただ、相模の巨頭を背に持っていた。その重さは、知っている者には分かった。
どちらも謙信の養子だった。どちらも上杉の名を持っていた。どちらが正統かは、死んだ謙信だけが知っていた。いや考えていなかった可能性すらあった。そして謙信は、何も言い残さなかった。城の内でも、いずれが先に迎えられた養子であったか、語る者によって言うことが違った。
城の者はそれぞれの判断で、それぞれの主を選んだ。血筋を選んだ者もいれば、損得を選んだ者もいた。昨日の主君の顔を見て決めた者もいた。決めきれずに廊下の隅で壁を見ている者もいた。決めた者も、決められなかった者も、同じ城の中にいた。六十日の間、城は少しずつ動いた。本丸と金蔵は、すでに景勝方の手にあった。謙信が倒れてほどなく、景勝は兵を入れ、蔵の鍵を押さえていた。それだけは、動いた者から動いた結果だった。動けなかった者は、まだ待っていた。
城は、まだ割れていた。
本丸の奥書院。
上杉景勝は、一人で座っていた。
目を閉じていた。何かを考えているようにも見えた。何も考えていないようにも見えた。膝の上に両手を置き、背筋を伸ばし、正面を向いていた。動かなかった。
庭の方から、鳥の声がした。それも止んだ。
障子の向こうに気配がした。足音が複数、廊下を近づいてきた。止まった。
「……入れ」
声は低く、短かった。
直江信綱が入ってきた。その後ろに、側近の者が二人続いた。三人とも平伏した。信綱だけが顔を上げた。
「景勝様。申し上げます」
景勝は動かなかった。
「景虎派の動きが、急になっております。昨夜、本庄秀綱が国人の数名と密かに会合を持ちました。今朝また、その国人の一人が城外へ使いを出しております。行き先は、南の方角と」
南。
景勝はその一言を、口に出さなかった。南が何を意味するか、言葉にする必要はなかった。相模だった。北条だった。
信綱は続けた。
「本丸と金蔵はすでに我らが手にしております。しかし、それだけでは足りませぬ。景虎様が動く前に、令旨を発し、国衆への使番を先んじて飛ばすべきです。今がその機にございます。一日の遅れが、命取りになりかねませぬ」
部屋の中に、沈黙が落ちた。
信綱は言い終えて、また平伏した。二人の側近も平伏したままだった。誰も顔を上げなかった。
景勝はしばらく、目を閉じたままでいた。
庭がまた静かになっていた。鳥も虫も、何もいなかった。
景勝は、静かに口を開いた。
「……急ぐな」
信綱の肩が、わずかに動いた。
「動けば名分を失う。義弟を討つためではない。上杉の家を二つにしてはならぬ。それだけが、今ここで守らねばならぬことだ」
信綱は顔を上げかけ、また伏せた。
「……は」
「機を待つ。それだけだ」
景勝は再び目を閉じた。信綱は下がった。二人の側近が続いた。
障子が閉まった。
部屋の中に、景勝だけが残った。春の光が障子の向こうにあった。光は入ってこなかった。上杉の家を二つにしてはならぬ。景勝はもう一度、その言葉を口の中で繰り返した。声にはならなかった。
中仕切りの間。
城の東側と西側を繋ぐ、細い廊下に面した部屋だった。広くなかった。調度もなかった。窓が一つあり、そこから中庭の一角が見えた。今は誰もいない中庭だった。
本庄秀綱と直江信綱が、向かい合って座っていた。
どちらも刀を持っていなかった。持ち込まなかった。それが暗黙の約束だった。二人が会うのは、これで三度目だった。三度とも、この部屋だった。三度とも、誰かが刀を持ってくることはなかった。それが何を意味するのか、どちらも口に出さなかった。
信綱が先に口を開いた。
「本庄殿」
秀綱は答えなかった。
「これ以上の不穏は、軍神の御霊を汚す不忠にございます。本丸と金蔵は、すでに景勝様の御手にございます。この上は、刃を収められよ」
声は静かだった。怒気はなかった。ただ、揺るがない硬さがあった。丁寧な言葉の裏に、退かない意志があった。
秀綱は信綱を見た。顔を見た。それから窓の外へ目をやった。中庭に光が入っていた。春の昼の光だった。土が乾いていた。誰かの足跡が残っていた。
「信綱殿」
秀綱は信綱の名を呼んだ。
「蔵を押さえたことが、正統の証しになるとでも思うてか」
信綱は動かなかった。
「先に蔵へ兵を入れたというだけのこと。城の者が見ておらぬとでも思うておるか」
信綱は黙って聞いていた。
「景勝様の器量で、三河・遠江までを呑み込んだ武田の巨躯と渡り合えると思うてか。南には設楽原で織田を退けた武田がいる。今も越後国境に、武田の旗が静かに増えておると聞く」
信綱は即座に返した。
「越えては来ませぬ」
秀綱が目を上げた。
「今は、来ぬ。我らが潰れるのを待っているからです。それが分かっているなら、なおのこと、ここで越後が割れてはなりませぬ」
秀綱は少し黙ってから言った。
「景虎様は北条と繋がっておる。相模の力を背にすれば、武田も易々とは動けぬだろう。それがどれほど大きな盾か、信綱殿には分からぬか。刀を一本も抜かずに武田を遠ざけられる、その重さが」
「分かります」
信綱は即答した。
「だからこそ申し上げる。北条の兵が越後に入れば、その兵はいつまでも出て行かぬ。相模の利と越後の利は、同じではございませぬ。景虎様が北条の駒として動く限り、越後は相模の従属となる。武田を遠ざけるために北条を引き込めば、虎を追うて狼を呼ぶことになりかねぬ」
秀綱はまた少し黙った。
中庭の光が動いた。雲が流れたのかもしれなかった。足跡の影が薄くなり、また濃くなった。
「……信綱殿」
秀綱は信綱の名をもう一度呼んだ。今度は低かった。怒気でも熱でもなかった。ただ低かった。
「我らは、もう同じ側にはおれぬようだ」
信綱は何も言わなかった。
秀綱は立ち上がった。信綱も立った。二人はお互いに一礼した。形だけの礼だったかもしれなかった。それでも二人はした。それだけだった。
秀綱が先に部屋を出た。廊下に足音がして、遠ざかった。
信綱は窓の外を見た。中庭はからだった。光だけがあった。足跡だけがあった。信綱はしばらく、その足跡を見ていた。
その夜。
上杉景虎は、一人で文を読んでいた。
折り畳まれた紙だった。封がしてあった。景虎はそれをすでに三度読んでいた。内容は変わらなかった。文字は変わらなかった。読むたびに同じことが書いてあった。
相模からの密書だった。氏政の筆ではなかった。しかし氏政の意が込められていた。景虎はその意を読んだ。読んでから、また読んだ。
景虎は文を膝に置いた。
障子の向こうに、気配があった。夜番の小姓だった。廊下に座って控えている。まだ若い者だった。越後に来てから景虎に仕え始めた者で、相模のことは何も知らなかった。景虎が越後で拾ったようなものだった。
景虎はしばらく、障子を見ていた。
向こうでは小姓が動かなかった。眠っているのかもしれなかった。起きているのかもしれなかった。どちらでも同じだった。景虎が声を出せば、飛び起きて来るだろう。それだけが分かっていた。
景虎は障子から目を離した。
もし今ここで退けば、どうなるか。謙信の養子の座を降り、景勝に頭を垂れて隠居を申し出れば。相模へ帰れば。この小姓はどうするか。
ここに残るだろう。越後の者だから。
景虎はそれだけ考えた。それ以上は考えなかった。
窓の外を見た。春日山の夜だった。どこかで犬が吠えた。止んだ。また静かになった。
氏政は何と言うか。
言葉は想像できた。顔も想像できた。
氏政は笑うだろう。笑ってから、何も言わないだろう。その沈黙が、全てだった。駒として失格だと、言葉にせずに告げる沈黙だった。
景虎は文を手に取り、もう一度開いた。
四度目も、同じことが書いてあった。
景虎は文を折り畳んだ。しばらく持っていた。それから懐へ入れた。
立ち上がった。廊下へ出た。小姓が飛び起きて平伏した。景虎は足を止めた。小姓の頭を一瞬だけ見た。それから前を向いた。
「本庄を呼べ」
それだけ言った。また歩き始めた。
足音が廊下に響いた。春日山城の廊下は長かった。景虎は端まで歩いた。突き当たりの窓から、城下が見えた。灯りが幾つかあった。普通の夜だった。
景虎は窓を見ながら、口を開いた。誰もいなかったが、言った。
「御館へ入る」
声は低く、静かだった。
「これは北条のためではない。上杉景虎として、この越後で生きるためだ」
窓の外の灯りが、一つ消えた。
翌朝、早く。
春日山城の城門が、閉まった。
重い音がした。鉄の金具が噛み合う音がして、それから静かになった。城の者たちは城門を見なかった。見ている者もいたかもしれなかった。しかし誰も声を上げなかった。城の中の空気が変わった。朝の光の中で、それは目に見えなかった。ただ、重さが違った。
景虎は本庄秀綱と、自らの手勢を連れて城を出た。
足音があった。馬の蹄の音があった。城の外の土の道を、一行が南へ向かった。春の朝の光の中を、旗もなく、静かに歩いた。振り返る者はいなかった。
御館は、春日山城から数町ほどだった。すぐに着いた。御館の門が開き、一行を迎え入れた。
門が閉まった。
こうして、越後が、二つになった。
街道に、人の姿はなかった。
春日山城の門も閉まり、御館の門も閉まった。両の城の間を繋ぐ街道は、朝のまま、静かだった。土が乾いていた。轍の跡があった。昨日か一昨日のものだった。春の光が当たっていた。
やがて、蹄の音がした。
遠くから来た。近づいてきた。
荷馬が一頭、街道を歩いていた。御者が一人、手綱を持っていた。荷が積まれていた。何の荷かは、外からは見えなかった。木箱が一つ、縄で縛られていた。
街道の脇に、番兵が一人立っていた。景勝方の者だった。荷馬が近づくと、槍の石突きで地を突いた。止まれ、という意味だった。
御者は止まらなかった。
代わりに、懐から木札を一枚取り出した。番兵の方へ、静かに差し出した。
番兵は木札を受け取った。表を見た。裏を見た。しばらく持っていた。
返した。
荷馬が通った。
番兵は見送った。何も言わなかった。木札に何が書いてあったか、番兵には読めなかった。ただ、通せと体が動いた。なぜかは分からなかった。
蹄の音が、一定のまま遠ざかった。
やがて、街道が曲がり、木立の中へ入った。
音が消えた。
街道には、轍の跡だけが残った。朝の光の中に、土が乾いて、静かだった。




