第百四十話:境目始動
第百四十話:境目始動
天正六年、四月中旬。
北信濃・海津城。
奥書院の障子に、春の日差しが当たっていた。光は柔らかく、桟の格子が白い影を畳の上に描いていた。昼を過ぎれば傾き、夕には消える。そういう光だった。
だが室内は冷えていた。壁の土が夜の冷えを抱き込んでいて、日中になっても放さなかった。盛信は薄い小袖のままで、机の前に座っていた。
音は一つだった。
紙の音。
仁科盛信は、帳面をめくっていた。
関所から上がってきた帳簿が、三冊、机の上に積まれていた。越後境の関所は信濃と越後を行き来する人と荷の全てが記録されていた。月ごとに束ねられ、城に送られてくる。表紙の墨は薄く掠れており、扱い古した紙の縁が毛羽立っていた。
盛信は一番上の一冊を取り、開いた。指で数字を追った。
前月。
甲斐 十八文。
越後 二十二文。
上旬。
甲斐 十八文。
越後 四十一文。
本日。
甲斐 十八文。
越後 六十五文。
指が止まった。
もう一度、上から追った。数字は変わらなかった。墨は乾いていた。書き間違いではなかった。
盛信は帳面を机に置いた。二冊目を手に取った。三冊目に移った。人の数は変わっていなかった。荷の種類も変わっていなかった。ただ、越後から来る荷に乗っている値だけが、毎日、上がっていた。
帳面を伏せた。荷札には、値を定めた者の判はなかった。ただ商人が付けた値が、そのまま書き写されているだけだった。
盛信は窓の外へ目を向けた。
商人が一人、関所を越えていった。荷は軽そうに見えた。
街道はそれだけだった。空は晴れており、遠くに残雪の山が見えた。人の足跡が土の上に続いていて、関所を越えた先で曲がり、見えなくなった。どこへ行くのか、盛信には分からなかった。越後へ向かうには軽すぎる荷と思えるのだった。
行灯の炎が揺れた。春風が障子の端を、わずかに鳴らした。
越後・春日山城。
評定の間は広かった。
三方の壁に国衆たちが居並んでいた。坂戸、栃尾、蒲原。今日まで、景勝についてきた面々だった。中には長い者もいれば、謙信の難が始まってから旗をはっきりとさせた者もいた。いずれにしても今は景勝の前に頭を垂れていた。
景勝は上座に座り、扇を膝の上に置いていた。正面を向いていた。声は低く、感情がなかった。
「兵を集め始めよ。景虎を完全に押し包む。早めに決する必要がある」
国衆たちは頭を下げた。
廊下に足音がした。慌ただしかった。
使番が扉の前に膝をつき、平伏した。直江津から早馬を飛ばしてきた者だった。着物の背が汗で濡れていた。息が上がっていた。
「頸城より申します。兵糧、尽き候」
景勝は動かなかった。
「……次」
使番は顔を畳に押しつけたまま、続けた。
「酒田船、未着にございます。船頭ども、銭立たずと申し、直江津への入港を拒み候」
「次」
国衆の列の端で、誰かが小さく息を吸った。
景勝は扇を開いた。閉じた。扇を膝に戻した。
「兵は」
国衆の一人が、顔を上げた。
「集まっております」
「ならば進めよ」
返答がなかった。
一人が顔を上げかけ、また伏せた。
評定の間に、沈黙が降りた。
誰かの膝が、かすかに畳を鳴らした。それだけだった。使番はまだ平伏したままだった。息が少し落ち着いてきていた。しかし顔は上げなかった。上げる理由がなかった。
景勝は静かに立ち上がり、退席した。廊下を歩く足音が遠ざかり、扉が閉まった。
国衆たちは互いの顔を見た。誰も口を開かなかった。
使番の荒い息だけが、広い部屋に残った。
春日山城・勘定所。
宿老・柿崎晴家は机に向かっていた。夕刻から座っていた。立ったのは一度だけで、廊下まで出て空を見て、また戻ってきた。雲が出ていた。雨になるかもしれなかった。それだけ確かめて、また机に向いた。
行灯の光が弱く、書付を読むには顔を近づけなければならなかった。机の上に紙が積まれていた。
小千谷、売米尽きる。
六日町、市立たず。
魚沼、荷入らず。
坂戸、銭受け申さずの商人あり。
晴家は一枚ずつ手に取り、読み、脇に重ねた。
書付の差出人だけが違っていた。
なかった。
来なかった。
立たなかった。
また一枚、書付を手に取った。
柏崎、米船入らず。
また一枚。
津川、市、三日続けて立たず。
また一枚。
直江津、廻船問屋より。銭の目方、軽くなり候。受け取りを拒む者、増え候。
晴家は紙を机に置いた。しばらく、その一枚を見ていた。直江津は越後でも大きな湊だった。そこの廻船問屋が銭の受け取りを渋るということは、湊の外から荷が来なくなっているということだった。荷が来なければ問屋は動かない。問屋が動かなければ城下へ物が入らない。晴家はその先を考えようとした。考えかけて、止めた。書付を脇に重ねた。
積み上がった束の端が、机の縁から少しはみ出していた。
紐を取り、束ねた。結ぼうとした。少し足りなかった。結び直した。紐が束に食い込んだ。それでも端が浮いた。押さえながら結んだ。
窓の外を見た。
炊事の煙が幾筋も上がっていた。川沿いの家並みに夕の光が当たっていた。子供が走っていた。板橋を渡る音がした。
晴家は窓から目を離し、また机に向いた。
帳面を開いた。城内の兵糧の数字を確かめた。ページをめくった。また一ページ。また一ページ。数字は毎月、城の者が書き入れていた。几帳面な筆跡だった。晴家は指でその数字をなぞった。冷たかった。紙が冷えているのか、指が冷えているのか、分からなかった。
城の兵糧は、今月の分は保つ。来月の分は保たないかもしれなかった。酒田船が来ていないからだった。来月また船が来れば問題はなかった。しかし船頭どもが銭立たずと言って入港を拒んでいる以上、来月も来るかどうかは分からなかった。晴家は帳面から目を上げた。
また一枚、書付が目に入った。
蒲原、問屋、店を閉じる。
晴家はそれを机の隅に置いた。また他の書付を手に取り、また置いた。それを繰り返した。積み重なっていった。
紙の種類が変わっていた。最初は市の書付だった。次は船宿からのものになった。その次は城代からの連絡状だった。書いた者も場所も違っていた。しかし全て同じ方向を向いていた。
晴家は束をまとめ、棚に目をやった。昨月の帳面が並んでいた。その前の月も並んでいた。背表紙の墨の色が、古いものほど薄かった。毎月、同じ厚さの束が増えていく。晴家はその背表紙を指でなぞった。一冊ずつ、なぞった。端から端まで行って、手を引いた。
筆を取り、何かを書きかけ、止めた。
何を書けばいいのか、分からなかった。報告を上げるべき相手はいた。しかし何を報告するのかが、まとまらなかった。書付は全部ある。数字は全部ある。それを並べれば誰でも読める。誰でも分かる。しかし誰も言葉にしていなかった。晴家も言葉にしなかった。
紙を重ね、帳面を閉じた。
行灯の火が、風もないのに揺れた。
外では城下の音が続いていた。子供が呼ぶ声がした。犬が吠えた。板橋を荷車が渡る音がした。いずれも遠かった。晴家は行灯の方へ顔を戻した。机の上の紙の束が、行灯の光の中に浮かんでいた。
海津城に、夜が来た。
行灯が揺れていた。盛信は昼から同じ場所にいた。膳が来た。手をつけなかった。下がらせた。また帳面を見た。夕が暮れ、夜になった。
廊下に気配が滑った。
音はなかった。足音もなかった。
盛信が顔を上げる前に、人影は既に部屋の端に平伏していた。
真田の透破だった。
顔を上げず、声だけを落とした。
「小千谷の手前、名もなき追分にて、米十一俵が散りました。春日山へ向かう商人の荷を、地元の地侍どもがたまらず襲うた模様。負傷者三名。米は全て奪われました。これで三箇所目にございます」
盛信は頷かなかった。
「去れ」
影が消えた。
廊下に人の気配がなくなった。しばらく待った。虫の音が戻ってきた。庭の方から、梟が一声鳴いた。止んだ。また虫の音だけになった。
盛信は引き出しを開けた。
中に帳面が数冊あった。地図があった。文が二通あった。盛信はそれらを見た。手を伸ばし、地図だけを取り出した。
墨の印のある地図を広げた。折り目が幾重にもついており、机いっぱいになった。端が少し破れていた。破れた縁が、行灯の光を受けて薄く透けていた。
行灯を近づけた。
印を数えた。六つあった。
指を這わせた。三箇所の報告。印に近かったのは、二箇所だった。
盛信は指を止めた。そのまま地図を見ていた。印は動かなかった。報告も変わらなかった。ただそこに置かれた事実が、机の上にあった。
地図を折り畳んだ。また広げた。また折り畳んだ。
表紙の端に古い墨が残っていた。印ではなかった。ただそこにあった。
指の腹で印を一つなぞった。なぞってから、止めた。指を離した。印の輪郭が、少し滲んでいた。何度もなぞられた跡だった。
地図を折り畳んだ。引き出しに戻した。引き出しを閉めた。また開けた。地図を取り出した。
広げなかった。
机の上に置いたまま、しばらく見ていた。折り畳まれた地図の表面には、折り目が白く筋になっていた。何度も広げた紙の癖だった。盛信はその筋を指先でなぞった。紙の繊維が少し毛羽立っていた。
地図を引き出しに戻した。
筆を持っていることに、気づいた。いつ手に取ったのか、覚えていなかった。
墨が畳へ落ちた。
盛信は筆を見た。
畳の目に、黒が沁みていった。広がった。止まらなかった。盛信は見ていた。広がりきると、止まった。黒い染みが、畳の目の中に収まっていた。
夜風が障子を揺らした。城の中はどこも静かだった。兵の声もなく、馬の音もなかった。
越後境の関所に、夜が深まった。
番所の板の間に、行灯が一つ灯っていた。油が少なくなっていた。炎が小さかった。
書役が机に向かっていた。
帳面を開き、本日の数字を書き入れていた。顔を近づけ、一文字ずつ、丁寧に書いていた。急ぐ仕事ではなかった。急いでも急がなくても、明日の朝には城へ送られる。書役は毎日この仕事をしていた。関所に来てから五年になっていた。最初の年は先輩の書役が隣に座っていた。帳面の書き方を教わった。数字の確かめ方を教わった。今はいなかった。書役は一人で机に向かっていた。
外で虫が鳴いていた。春の虫だった。関所の木戸は静かだった。夜番の兵が一人、木戸の前に立っているはずだった。声はなかった。時折、草履の底が板を踏む音がするだけだった。
書役は机の脇を見た。今月の帳面が束になって積まれていた。先月の束が、その下にある。さらに前の月が、棚の上に並んでいた。毎月、同じ仕事をした。数字を受け取り、帳面の欄に落とし、束ねて送る。それだけだった。城で何かに使われているのかどうか、書役には知らされていなかった。ただ与えられた仕事があった。それをこなしていた。五年の間、ずっとそうだった。
関所の外で、馬の嘶きが一声した。すぐに静かになった。街道には誰もいなかった。
書役は硯を引き寄せた。墨を磨った。筆を取り、穂先を墨に浸した。余分な墨を縁で落とした。
筆先が欄の上で止まった。
先月の欄を見た。その前の月を見た。数字が並んでいた。上から下へ指を動かした。毎月書き込まれた数字が、一列に続いていた。書役はその列の末尾を見た。今日書き込む欄だった。空白だった。
筆が動いた。
越後行米 三。
砂を振った。乾くのを待った。外の虫が鳴いていた。行灯の炎が小さく揺れた。油の残りが少なかった。もう少しすれば消える。
砂を払った。指先が少し黒くなった。袖で拭いた。帳面を閉じる前に、もう一度欄を確かめた。今月の数字が、一列に並んでいた。上から読めば月の流れが分かった。書役は読まなかった。確かめるのは今日書いた一行だけだった。
墨が乾いた。
帳面が閉じられた。
行灯の火が、小さく揺れた。




