第百三十九話:相模動意
第百三十九話:相模動意
算木が打ち合わさる音だけが、評定の間に絶え間なく続いていた。
春の海風が小田原の瓦を鳴らしていた。評定の間の障子は閉められていたが、風の音は入ってきた。それでも算木の音の方が大きかった。算木が動くたびに、乾いた木の音が重なった。十人、二十人。同時に置かれる音が、間断なく続いた。止まらなかった。一つが止まると、別の一つが始まった。評定の間は広かったが、音が隅まで満ちていた。机の前に座る者も、算木を置く者も、それぞれが別の数字を追っていた。しかしその音は一つに聞こえた。北条の評定は、いつもこういう音から始まった。算木が鳴る限り、北条は動いていた。算木の音が止まる時、北条も止まる。
北条氏政は上座に座っていた。
机の上には書状が積まれていた。一番上に置かれた書状は、景虎からのものだった。封は切られていた。文面は短かった。春日山で孤立している。景勝方が城の東を押さえている。援軍を乞う。景虎の筆跡は乱れていた。筆の跳ね方が、焦りを帯びていた。一枚の紙に、越後の乱れがそのまま滲んでいた。
氏政は宿老を見た。
「景虎は武田にも文を出しておろう」
「まず間違いなく」
「返事は」
「分かりませぬ」
「兵は」
「動いておりませぬ」
氏政は黙った。
「返さぬのか」
誰も答えなかった。しばらく、算木の音だけが続いた。
景虎が武田へも文を出す。それは当然だった。武田もすでに知っているはずだった。しかし返事がない。兵も動かない。断られたなら、再び使者を立てても不思議ではない。それも聞こえない。
「武田は動くか」
「越後への兵は確認されておりませぬ。北信濃の関所では荷改めが厳しくなっておりますが」
「荷改め」
「荷の出入りを帳面につけているとのことで。兵は、今のところ」
「軍議は」
「……大きな軍議の気配は伝わってきておりませぬ」
氏政は地図を見た。指を机に一度置いて、止めた。
勝頼は、文を受ければ返す男だった。それは氏政も知っていた。礼を欠くことをしない。だから返事を書かない。そこに意味がある。
返さぬ理由がある。それだけは確かだった。
信玄とは違う。信玄なら援軍を出す。出さぬなら断る。あるいは返書だけでも送る。沈黙だけはしなかった。しかし勝頼は返事もない。荷だけを数えている。
「……何を待っている」
部屋が静かになった。算木の音だけが続いていた。
宿老が膝をついた。
「御屋形様。いかに武田とて、兵を動かさねば国は守れませぬ。こちらが先に国境を塞げば、武田が動いた時にはすでに手遅れになります」
氏政は宿老を見た。その通りだった。兵がなければ戦にならない。荷を数えるだけでは、城は落とせない。
「そうだな」
氏政は地図へ目を戻した。
「三万で参りますか」
「ああ。三国峠を越えて越後へ入る」
「御意」
算木が、また動き始めた。春の海風が、また瓦を鳴らした。
北条の評定は、決まらない会議ではなかった。
算木の音が戻ると、数字が動いた。宿老たちが大福帳を開き、次々と読み上げる。伝馬の数。米の量。兵の員数。支城ごとの在庫。街道ごとの輸送能力。それぞれの数字が、別の宿老の算木と照らし合わされた。一つの数字が動くと、連なる数字が動いた。
「伝馬三百頭、中郡へ即座に」
「駿河境の支城へ、米五百俵。三日以内に」
「動員兵力、着到状の送付。完了までに四日」
声が重なった。算木の音が重なった。一つの命令が終わる前に次が出た。それでも混乱しなかった。北条の宿老たちは、この速度に慣れていた。誰もが自分の担当する数字を持っていた。担当が違えば、数字がぶつかっても混乱しなかった。ぶつかった数字から、最適解が生まれた。
「三国峠の輸送、春の融雪で七日から八日を見込む必要がございます」
「兵糧の計算をやり直せ」
「予備を含め、相当量になります。ただし東海道側は在庫に余裕がございます。駿河の蔵を先に動かせば五日、相模の蔵から送れば七日。合わせて八日以内に前線へ届けることが可能です」
「八日か」
「天候が崩れた場合は十日を超えることも」
「十二日で計算しろ。余裕を持て」
「松井田に荷を集積させれば、峠越えの日数を一日縮められます。すぐに手配できます」
「やれ。着到状は本日中に認める必要があるか」
「はい。書役は十五人控えております」
「全員使え。日が暮れるまでに書き上げろ」
算木が打たれた。数字が帳面に落ちた。また打たれた。また落ちた。
この評定に集まっている宿老たちは、東国でも指折りの行政官だった。数字は数字を呼んだ。一つの答えが出ると、次の問いが来た。問いが来ると、算木が打たれた。その繰り返しが、一日で三万の兵を動かす準備を整えた。
書役の動きは、戦場の兵より速かった。
着到状を書き終える前に、次の書役が判を押していた。判が乾かぬうちに使番が受け取り、そのまま馬へ渡す。廊下の端に控えた使番が、受け取った瞬間に立ち上がる。引き継ぎの声もない。書状が机を離れてから、馬が城門を出るまで、半刻もかからなかった。誰も走らない。急いでいる者もいない。表情を変える者もいない。それでも書状だけが絶えず城外へ流れていった。東国でこれだけの数字を一日で動かせる国は、他になかった。郷ごとの夫役も、街道の馬借も、宿場の継立も、すべて一つの帳面に収まっていた。収まれば、動かせた。戦が始まる前に、北条はそう信じていた。
算木の音が続いた。着到状が東国中へ散り始めた頃、一通の書状が氏政の元へ届いた。
甲斐からだった。妹からだった。
勝頼の正室として甲斐へ嫁いだ妹から届く書状は珍しくなかった。しかしこの時期であることが、氏政には少し引っかかった。評定の最中に届いた。算木の音が続く中で、書状は静かに机の端へ置かれた。宿老の声も、算木の音も続いていた。しかし机の端の書状だけが、音のない場所にあるように見えた。
評定が一段落した頃、氏政は封を切った。
兄上。此度の越後の件、御心配のことと存じます。
甲斐は相模より寒うございますが、館の内は何不自由なくございます。
勝頼様は近頃、軍議をほとんどお開きになりませぬ。朝より晩まで、帳面ばかり御覧になります。越後よりの文も、机の端に置かれたまま幾日も封を切られぬことがございます。荷の出入りだけは、毎日数えさせておられます。
家臣方は皆、戦の支度をなさっていると思うておりますが、私には少し違って見えます。具足の支度を急がせる御様子もなく、ただ蔵の帳面と街道の数字を、夜更けまで見比べておられるばかりにございます。
あのお方は、戦の前ではなく、戦の後をご覧になっているように思えてなりませぬ。
兄上は必ず、敵の胸中を量っておられました。どうぞご自愛くださいませ。
氏政は文を読み終えた。もう一度、読んだ。
戦の後をご覧になっているように思えてなりませぬ。
机に置いた。指を乗せた。
軍議をほとんどお開きにならない。朝より晩まで帳面ばかり御覧になる。荷の出入りだけは数えさせる。具足の支度を急がせる様子もない。家臣方は戦の支度と思っている。しかし妹には違って見える。戦の後とは何か。
氏政は机を見たまま、しばらく動かなかった。
文を折った。
「着到状の送付、急がせろ。三日以内に全城へ届けよ」
「御意」
算木が、また動き始めた。
妹の文は、机の端へ移された。
評定が終わったのは、陽が西へ傾いた頃だった。
今日だけで、着到状や触書が幾百と認められた。兵三万。兵糧は遠く甲越の境まで届く量。伝馬数百頭。北条の宿老たちが一日かけて積み上げた数字が、形になって動き始めていた。誰一人として、それを疑わなかった。
氏政は城壁の上に立っていた。伝馬が散っていくのを見ていた。街道の先へ消えていく砂埃を見ていた。一頭が消えると、また一頭が出た。また消えた。それが繰り返された。どこまで続くのかと思うほど、出続けた。北条の版図の広さが、今更のように砂埃の数に現れていた。
氏政は着到帳を手に取った。頁をめくった。城の名。兵の数。兵糧の量。伝馬の頭数。すべてが揃っていた。数字に欠落はなかった。これだけの数字を揃えれば、どんな戦にも勝てた。信玄ですら、この行政力を崩すには至らなかった。それが北条の信条だった。
着到帳を閉じた。
算木の音が、止まった。
評定の間の障子が開けられ、宿老たちが退いていった。足音が廊下を流れ、やがて消えた。城の中が静かになった。一日中鳴り続けていた算木の音が、跡形もなく消えた。残ったのは海鳴りだけだった。
城壁の上に立ったまま、氏政はしばらく動かなかった。砂埃が収まった先に、街道だけが残っていた。誰もいない街道だった。使番が去り、伝馬が散り、動くものが何もなくなった後の街道は、広く見えた。数字はすべて動き始めた。あとは待つだけだった。それなのに何かが、まだ胸の端に残っていた。
机の端に、妹の文があった。
戦の後をご覧になっているように思えてなりませぬ。
氏政はその文を一度だけ見た。手は伸ばさなかった。勝頼は沈黙している。返事もない。兵も動かない。断ったわけでも、出すわけでもない。律儀な男が、返事を書かない。その沈黙が意図するものが、氏政には分からなかった。妹の言う「戦の後」が何を指すのかも、分からなかった。
海鳴りが聞こえた。春の海風が、また瓦を鳴らした。今度は長く続いた。止まらなかった。
海鳴りだけが、大きく響いていた。
その頃。
北信濃、飯山の関所では、仁科盛信の書役が帳面を開いていた。
今日も同じだった。筆を取る。数字を落とす。墨が乾く。
荷札、二十七。
帳面を閉じた。棚へ戻す。昨日の帳面があった。一昨日の帳面があった。先月からの帳面が、棚の端から端まで並んでいた。書役は一度だけ、棚の全体を見た。帳面の背が日付の順に並んでいた。先月の初めから今日まで、一日も欠けていなかった。増えているのか減っているのか、書役には分からなかった。ただ積まれていることだけが、分かった。
関所の外では、街道を行く馬の音が遠ざかっていた。荷を積んだ馬だった。今日も昨日と同じ道を、同じように通り過ぎていった。どこへ向かうのかも、書役には分からなかった。どこから来るのかも、知らなかった。ただ数えよ、とだけ言われていた。なぜ数えるかは、仕事ではなかった。
書役は筆を置いた。今日の日付の横に、数字を落とした。
二十七。
墨が乾いた。棚には、また一冊増えた。




