第百三十六話 甲斐着文
第百三十六話 甲斐着文
越後から来る便りが、途絶え始めてから、十四日が経っていた。
夜半、躑躅ヶ崎館の門前で、馬が一頭、倒れ込んだ。
吐く息は白く、泡立っていた。鞍から滑り落ちた飛脚は、立ち上がろうとして膝をつき、そのまま文箱を抱えた。
門番は無言で受け取り、奥へ走った。
文箱は奥書院へ運ばれた。
勝頼は、まだ灯を落としていなかった。
行灯の火だけが、静かに揺れていた。
跡部勝資が膝をつき、文箱を差し出す。
中には一枚の紙しか入っていなかった。
差出人の名は、はっきりと書かれていた。
上杉景虎。
勝頼は、すぐには封を切らなかった。
紙の厚みを指先で量る。
一枚。それだけであることを確かめるように、もう一度指を滑らせた。
ようやく封を切る。
文面は短かった。
御屋形様御不出。重臣面会かなわず。城中騒然。城内、東と西に分かれて動く由。
勝頼は最後まで読み、折り目を変えぬまま畳んだ。
文机の引き出しには入れなかった。
これまで届いた帳面の横へ、静かに重ねる。
別の懐紙を取り出した。
すでに何か書かれている紙だった。
指先が、その上で止まる。
筆を取り、隅へ一筆だけ落とした。
墨は小さく、すぐ乾いた。
何を書いたのか、昌幸にも見えなかった。
懐紙は再び懐へ納められた。
昌幸は、それを見ていた。
何も言わなかった。
外では、ようやく鶏が鳴き始めていた。
その朝も、跡部の仕事は文箱を数えることから始まった。
昨日までで六箱。
今朝、また一箱増えた。
跡部は一つずつ蓋を開ける。
紙を取り出し、帳面へ書き写す。
文面は違っても、行き着く先は似ていた。
城が止まりつつある。
誰もそうは書かない。
ただ、届く紙だけが同じ方向を向き始めていた。
跡部は帳面を閉じた。
今朝の数字を見る。
七箱。
昨日の頁を開く。
六箱。
一昨日。
五箱。
指先が三つの数字をゆっくり往復した。
紙は一枚ずつだった。
帳面だけが重くなっていた。
跡部は七箱を書き終えたあと、墨を乾かした。
帳面を閉じる。
帳面の革は使い込まれ、縁だけが丸くなっていた。中身はまだ七枚の紙。しかし持つ腕は昨日より重かった。乾いた墨は、もう消えない。
帳面を抱え、奥書院へ向かう廊下で、跡部は昨夜のことを考えた。
懐紙の墨印。
勝頼が何を書いたのか、跡部には見えなかった。しかし見えなかったからこそ、その小さな一筆が頭から離れなかった。
領土の名ではない。人の名でもない。
跡部は勝頼の傍に仕えてきた。書き付けに人名を落とす時、勝頼の筆は迷わない。地名を書く時も同じだ。しかし昨夜の一筆は、何か別のものだった。
数字か。
あるいは日付か。
廊下の端で足を止め、跡部は窓の外を見た。雪が残っていた。しかし昨日より薄かった。
勝頼は領土を見ていない。
その確信が、じわりと広がった。
越後を切り取るつもりがあるなら、昨夜の懐紙の前に軍議があるはずだった。信豊を呼ぶはずだった。しかし勝頼は誰も呼ばなかった。文箱を受け取り、文を読み、帳面の横へ重ね、一筆だけ落とした。
それだけだった。
奥書院の前に立ち、跡部は息を整えた。
扉を開ける。
勝頼は文机の前に座っていた。
景虎の文は、もう机の端へ移されている。
「七箱」
跡部が言った。
勝頼は頷く。
帳面を受け取り、一枚ずつ頁を送る。
文字を読んでいるのか。
数字だけを追っているのか。
その表情からは分からなかった。
帳面を閉じる。
「盛信」
「まだ、何も」
「伝馬」
「増えております。境目の見張りも」
勝頼は小さく頷いた。
「急がせるな」
それだけだった。
部屋は静かだった。
外では朝日が雪を照らしていた。
薄く残った雪は、昨日よりさらに痩せている。
春は近い。
だが奥書院の空気だけは、まだ冬のままだった。
昌幸は、その様子を見ていた。
勝頼は帳面へもう一度目を落とす。
七。
六。
五。
数字は紙の上でしか動いていない。
しかし、その先では人が動き始めている。
勝頼は何も言わない。
跡部もまた、何も問わなかった。
やがて帳面は閉じられた。
昌幸が深く頭を下げる。
跡部も続いた。
二人が下がると、部屋には勝頼だけが残った。
勝頼は机の端に置かれた景虎の文を手に取る。
もう一度読む。
御屋形様御不出。重臣面会かなわず。城中騒然。城内、東と西に分かれて動く由。
文は再び畳まれた。
帳面の下へ静かに重ねられる。
勝頼は目を閉じた。
雪だった。赤かった。
倒れた馬の腹から湯気が立っていた。
誰かが文を抱えて走っていた。
返事は来なかった。
あの日も紙だけが増えていた。
勝頼は目を開けた。
数字が並ぶ帳面の重さと、返事の来ない文の軽さが、同じ秤の上に乗っているような気がした。
行灯の火が、帳面の端だけを淡く照らしていた。
景虎の文はその下で静かに眠っていた。
春日山城、本丸の奥。
景勝は、その日も文机の前に座っていた。
文机の隅には、信綱からの文の控えと、宿直の組分けを書いた紙が、そのまま残っていた。
灯が、その上を照らしている。
朴の木箱は、もう見もしなかった。
報告役が膝をつく。
「今夜の廊下、八十二」
景勝は答えない。
男は続けた。
「甲斐の方より、関所で荷改めが厚くなったとの話も」
「甲斐が」
「はい」
それだけで報告は終わった。
景勝は黙したまま動かない。
報告役は頭を下げ、静かに下がった。
部屋には灯の揺れる音だけが残る。
文机の上には紙が積まれていた。
一枚も減っていない。
昨夜置かれた紙も、今朝届いた紙も、そのままだった。
景勝は筆を取った。墨を硯で三度、四度と研いだ。音だけが部屋に響く。紙の端に筆を触れさせたが、一文字も書けなかった。硯の上で墨は乾き、筆は硬くなっていく。それでも景勝は、硯を離さなかった。
灯は、その山だけを静かに照らしていた。
西の曲輪。
景虎の部屋では、筆が乾く暇もなかった。
文机の上には控えが積み重なっている。
武田へ送った文。
北条へ送った文。
さらに書き直した文。
封を閉じる前に書き換えた文。
紙だけが増えていった。
返事は、一通もない。
景虎は控えをめくった。
武田。
北条。
同じ宛名が並んでいた。
筆跡だけが少しずつ乱れている。
新しい紙を取る。
書き出す。
畳む。
書き直す。
また控えへ重ねる。
山が少し高くなる。
返事は来ない。
景虎は窓の外を見た。月は出ていない。雲の切れ間から見える星が、北の空に傾いていた。武田の方角だ。
近習が入ってきた。
「今夜も、武田からは、何も」
「分かった」
景虎は、それだけ言った。
近習は下がる。
景虎は返事の来ない机を見つめた。
灯が揺れる。
武田は動かない。
返事も来ない。
控えの束だけが、昨日より少し高くなっていた。
新しい紙を一枚引き寄せる。
筆を取る。
書き出しては止まり、書き直しては畳む。
書き終えた文は控えの山へ重ねられる。
また一枚、高くなった。
厩舎の裏。
柿崎晴家は文の山を見ていた。
机から溢れた文は、小さな束になり、その横にも新しい束が置かれていた。
今朝、また一通届いた。
封は切られない。
そのまま山の上へ置かれる。
紙が紙を押し上げる。
昨日より、わずかに高くなった。
晴家は、その山を見ていた。
以前なら、その日のうちに開かれていた。
今は誰も手を伸ばさない。
家臣が一人、後ろに控えていた。
声は掛けなかった。
掛ける言葉がなかった。
晴家は束の一番上の紙に目を落とした。封蝋は赤い。誰の家紋か、闇の中では判別できなかった。触れずに、ただ見たまま、風が過ぎるのを待った。文は風に揺れ、また止まった。晴家は動かなかった。
春の風が厩舎の裏を抜ける。
紙の端が、かすかに揺れた。
誰も押さえなかった。
北信濃との境では、まだ槍は立っていない。
兵も動いていない。
だが、街道を行く馬は昨日より多くなっていた。
荷を積んだ馬。
文を運ぶ馬。
人だけが、少しずつ増えていく。
まだ誰も剣を抜いてはいなかった。
その夜、躑躅ヶ崎館では景虎の文が帳面の下で眠り続けた。
春日山城では、新しい文がまた一通書き上げられた。
返事は、まだ来ない。
灯だけが、両国の夜を等しく照らしていた。




