表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
136/146

第百三十六話 甲斐着文

第百三十六話 甲斐着文


 越後から来る便りが、途絶え始めてから、十四日が経っていた。

 夜半、躑躅ヶ崎館の門前で、馬が一頭、倒れ込んだ。

 吐く息は白く、泡立っていた。鞍から滑り落ちた飛脚は、立ち上がろうとして膝をつき、そのまま文箱を抱えた。


 門番は無言で受け取り、奥へ走った。

 文箱は奥書院へ運ばれた。

 勝頼は、まだ灯を落としていなかった。


 行灯の火だけが、静かに揺れていた。

 跡部勝資が膝をつき、文箱を差し出す。

 中には一枚の紙しか入っていなかった。

 差出人の名は、はっきりと書かれていた。


 上杉景虎。

 勝頼は、すぐには封を切らなかった。

 紙の厚みを指先で量る。


 一枚。それだけであることを確かめるように、もう一度指を滑らせた。

 ようやく封を切る。


 文面は短かった。


 御屋形様御不出。重臣面会かなわず。城中騒然。城内、東と西に分かれて動く由。

 勝頼は最後まで読み、折り目を変えぬまま畳んだ。

 文机の引き出しには入れなかった。


 これまで届いた帳面の横へ、静かに重ねる。

 別の懐紙を取り出した。

 すでに何か書かれている紙だった。


 指先が、その上で止まる。

 筆を取り、隅へ一筆だけ落とした。

 墨は小さく、すぐ乾いた。

 何を書いたのか、昌幸にも見えなかった。


 懐紙は再び懐へ納められた。

 昌幸は、それを見ていた。

 何も言わなかった。


 外では、ようやく鶏が鳴き始めていた。


 その朝も、跡部の仕事は文箱を数えることから始まった。


 昨日までで六箱。

 今朝、また一箱増えた。

 跡部は一つずつ蓋を開ける。

 紙を取り出し、帳面へ書き写す。

 文面は違っても、行き着く先は似ていた。


 城が止まりつつある。

 誰もそうは書かない。

 ただ、届く紙だけが同じ方向を向き始めていた。


 跡部は帳面を閉じた。

 今朝の数字を見る。

 七箱。


 昨日の頁を開く。

 六箱。

 一昨日。

 五箱。

 指先が三つの数字をゆっくり往復した。


 紙は一枚ずつだった。

 帳面だけが重くなっていた。


 跡部は七箱を書き終えたあと、墨を乾かした。

 帳面を閉じる。

 帳面の革は使い込まれ、縁だけが丸くなっていた。中身はまだ七枚の紙。しかし持つ腕は昨日より重かった。乾いた墨は、もう消えない。


 帳面を抱え、奥書院へ向かう廊下で、跡部は昨夜のことを考えた。


 懐紙の墨印。

 勝頼が何を書いたのか、跡部には見えなかった。しかし見えなかったからこそ、その小さな一筆が頭から離れなかった。


 領土の名ではない。人の名でもない。


 跡部は勝頼の傍に仕えてきた。書き付けに人名を落とす時、勝頼の筆は迷わない。地名を書く時も同じだ。しかし昨夜の一筆は、何か別のものだった。


 数字か。


 あるいは日付か。


 廊下の端で足を止め、跡部は窓の外を見た。雪が残っていた。しかし昨日より薄かった。


 勝頼は領土を見ていない。

 その確信が、じわりと広がった。


 越後を切り取るつもりがあるなら、昨夜の懐紙の前に軍議があるはずだった。信豊を呼ぶはずだった。しかし勝頼は誰も呼ばなかった。文箱を受け取り、文を読み、帳面の横へ重ね、一筆だけ落とした。


 それだけだった。

 奥書院の前に立ち、跡部は息を整えた。


 扉を開ける。

 勝頼は文机の前に座っていた。

 景虎の文は、もう机の端へ移されている。


「七箱」


 跡部が言った。

 勝頼は頷く。


 帳面を受け取り、一枚ずつ頁を送る。

 文字を読んでいるのか。

 数字だけを追っているのか。

 その表情からは分からなかった。


 帳面を閉じる。

「盛信」

「まだ、何も」

「伝馬」

「増えております。境目の見張りも」


 勝頼は小さく頷いた。

「急がせるな」

 それだけだった。


 部屋は静かだった。

 外では朝日が雪を照らしていた。

 薄く残った雪は、昨日よりさらに痩せている。


 春は近い。

 だが奥書院の空気だけは、まだ冬のままだった。

 昌幸は、その様子を見ていた。

 勝頼は帳面へもう一度目を落とす。


 七。


 六。


 五。


 数字は紙の上でしか動いていない。


 しかし、その先では人が動き始めている。


 勝頼は何も言わない。

 跡部もまた、何も問わなかった。

 やがて帳面は閉じられた。

 昌幸が深く頭を下げる。

 跡部も続いた。


 二人が下がると、部屋には勝頼だけが残った。

 勝頼は机の端に置かれた景虎の文を手に取る。


 もう一度読む。


 御屋形様御不出。重臣面会かなわず。城中騒然。城内、東と西に分かれて動く由。


 文は再び畳まれた。

 帳面の下へ静かに重ねられる。


 勝頼は目を閉じた。

 雪だった。赤かった。

 倒れた馬の腹から湯気が立っていた。


 誰かが文を抱えて走っていた。

 返事は来なかった。

 あの日も紙だけが増えていた。


 勝頼は目を開けた。

 数字が並ぶ帳面の重さと、返事の来ない文の軽さが、同じ秤の上に乗っているような気がした。


 行灯の火が、帳面の端だけを淡く照らしていた。

 景虎の文はその下で静かに眠っていた。


 春日山城、本丸の奥。

 景勝は、その日も文机の前に座っていた。

 文机の隅には、信綱からの文の控えと、宿直の組分けを書いた紙が、そのまま残っていた。


 灯が、その上を照らしている。

 朴の木箱は、もう見もしなかった。

 報告役が膝をつく。


「今夜の廊下、八十二」

 景勝は答えない。

 男は続けた。


「甲斐の方より、関所で荷改めが厚くなったとの話も」

「甲斐が」

「はい」


 それだけで報告は終わった。

 景勝は黙したまま動かない。

 報告役は頭を下げ、静かに下がった。


 部屋には灯の揺れる音だけが残る。

 文机の上には紙が積まれていた。

 一枚も減っていない。


 昨夜置かれた紙も、今朝届いた紙も、そのままだった。


 景勝は筆を取った。墨を硯で三度、四度と研いだ。音だけが部屋に響く。紙の端に筆を触れさせたが、一文字も書けなかった。硯の上で墨は乾き、筆は硬くなっていく。それでも景勝は、硯を離さなかった。

 灯は、その山だけを静かに照らしていた。


 西の曲輪。

 景虎の部屋では、筆が乾く暇もなかった。

 文机の上には控えが積み重なっている。


 武田へ送った文。

 北条へ送った文。


 さらに書き直した文。

 封を閉じる前に書き換えた文。


 紙だけが増えていった。

 返事は、一通もない。


 景虎は控えをめくった。

 武田。

 北条。


 同じ宛名が並んでいた。

 筆跡だけが少しずつ乱れている。

 新しい紙を取る。

 書き出す。

 畳む。

 書き直す。


 また控えへ重ねる。


 山が少し高くなる。


 返事は来ない。

 景虎は窓の外を見た。月は出ていない。雲の切れ間から見える星が、北の空に傾いていた。武田の方角だ。


 近習が入ってきた。

「今夜も、武田からは、何も」

「分かった」


 景虎は、それだけ言った。

 近習は下がる。

 景虎は返事の来ない机を見つめた。

 灯が揺れる。


 武田は動かない。

 返事も来ない。


 控えの束だけが、昨日より少し高くなっていた。


 新しい紙を一枚引き寄せる。

 筆を取る。


 書き出しては止まり、書き直しては畳む。

 書き終えた文は控えの山へ重ねられる。

 また一枚、高くなった。


 厩舎の裏。

 柿崎晴家は文の山を見ていた。

 机から溢れた文は、小さな束になり、その横にも新しい束が置かれていた。


 今朝、また一通届いた。

 封は切られない。

 そのまま山の上へ置かれる。

 紙が紙を押し上げる。


 昨日より、わずかに高くなった。

 晴家は、その山を見ていた。

 以前なら、その日のうちに開かれていた。


 今は誰も手を伸ばさない。

 家臣が一人、後ろに控えていた。

 声は掛けなかった。

 掛ける言葉がなかった。


 晴家は束の一番上の紙に目を落とした。封蝋は赤い。誰の家紋か、闇の中では判別できなかった。触れずに、ただ見たまま、風が過ぎるのを待った。文は風に揺れ、また止まった。晴家は動かなかった。


 春の風が厩舎の裏を抜ける。

 紙の端が、かすかに揺れた。

 誰も押さえなかった。


 北信濃との境では、まだ槍は立っていない。

 兵も動いていない。

 だが、街道を行く馬は昨日より多くなっていた。


 荷を積んだ馬。

 文を運ぶ馬。

 人だけが、少しずつ増えていく。


 まだ誰も剣を抜いてはいなかった。

 その夜、躑躅ヶ崎館では景虎の文が帳面の下で眠り続けた。

 春日山城では、新しい文がまた一通書き上げられた。

 返事は、まだ来ない。


 灯だけが、両国の夜を等しく照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ