第百三十七話 甲斐評定
第百三十七話 甲斐評定
甲斐の春はまだ浅く、評定が始まったのは昼四つを過ぎた頃だった。大広間には冷たい空気が淀み、重臣たちが緊張した面持ちで並んでいた。武田信豊、跡部勝資、土屋昌続、真田昌幸、高坂昌信、小山田信茂、そしてその他の重立った者たち。庭の梅は固い蕾を付け、陽は南へ傾き、障子越しに差し込む光は薄く、大広間の隅まで届かない。柱の影が畳の上に長く伸び、座の端に並ぶ者の顔を半分だけ暗くしていた。
勝頼は上座に静かに腰を下ろし、座を見渡した。信豊の肩に力が入っている。昌続は膝の上で指を揃えている。昌幸は目を伏せたまま動かない。高坂は腕を組み、ただ前を見ていた。小山田は高坂の斜め後ろで、背を少し縮めている。景虎の書状は、すでに机の端に置かれていた。その紙は微かな皺を帯び、越後の乱れを静かに物語るかのようだった。
信豊が最初に口を開いた。声に力があった。
「間違いなく、越後は今、二つに割れております。謙信の後継を巡り、景勝と景虎が春日山城を東西から押さえ合っているようです。このままでは、いずれかが倒れるまで、決着はつきますまい。この機、逃すべきではありません」
彼は続けて、謙信が生前より抑えてきた北信濃の諸城こそ今、奪取の好機であり、そこを盛信が押さえれば越後への直接の道が開けると力説した。声は座の端まで届いた。
土屋昌続が静かに口を開いた。声は落ち着いていた。
「春日山が揺れておりますのは間違いないかと。しかし、我らがどちらへ兵を向けるかはまだ見えませぬ。動くなら、その見極めを誤るべきではありますまい」
急がない。畳みかけない。それが昌続の物言いだった。真田昌幸が続いた。彼の言葉は数字と情報に重きを置いていた。
「今見えているのは城ではなく荷だけです。荷がまだ動いている以上、越後そのものはまだ死んでおりませぬ」
座がわずかに揺れた。高坂昌信はただゆっくりと頷いただけであった。小山田信茂は何か言おうとしたが、高坂の横顔を見て口を閉じた。
信豊が再び畳みかけるように声を上げた。
「陣代様。越後は今この瞬間も動いております。謙信亡き今、春日山城を巡る争いが決着する前に手を打たなければ、来年には手遅れになりましょうぞ」
信豊が支配し始めた座の空気は、言葉こそ違えど次第に同じ方向を向き始めていた。それが勝頼に不気味な気分とさせたのだった。揃い方が、過去の記憶と似ていたからである。信豊の積極論、昌続の見極めを求める慎重な言葉、昌幸が荷の動きを指摘する現実の視線、そして最後に全員が流れるような温度。言葉の中身は違っても、流れた先が同じように感じられたのだ。それは、あの日と同じだった。
勝頼は静かに書状を手に取った。一度だけ目を通す。景虎の字は乱れ、文面は昨夜すでに繰り返し読んだものだった。彼は書状を机の真ん中に置いた。乾いた音が広間に響き、一瞬座が止まった。
勝頼は次の紙――跡部が朝に持ってきた帳面――へ目を落とした。
「去年の同月はどうだ」
跡部が膝をつき、静かに答える。
「北信濃の国境を越えた荷の数、去年の十月と今年を比べると、今年は三割増しです」
「米か」
「米と塩。それから、反物も」
「越後から来る荷か」
「いいえ。越後へ入る荷です」
「そうか」
勝頼はただそれだけ言い、帳面を閉じた。大広間は再び静かになった。信豊が何か言いかけたその瞬間、勝頼は立ち上がった。
「続きは跡部に申し渡せ」
それだけを残し、勝頼は評定の間を後にした。
廊下に出ると、冷たい風が頰を刺した。庭の梅は白く細い枝の先に蕾だけを宿し、まだ花開く気配はない。勝頼は足を止めず、ゆっくりと歩を進めた。背後から信豊の声が漏れ聞こえてくる。何を言っているのか内容までは分からなかったが、声の高さと熱だけははっきりと届いた。
歩きながら勝頼は過去の日のことを思い出していた。あの時も誰かが声を上げ、誰かが何かを叫び、誰かが制した。しかし声は止まらなかった。座の空気が揃ったとき、人は容易く踏み出す。あの日、勝頼もそうだった。彼らの声の質、見極めを求める言葉、荷を見ろと言った時の座のわずかな揺れ。それでも最後には全員が同じ方向へ流れた気がした。言葉の中身ではない。言葉が流れた先が、同じようだったのだ。それが恐ろしい。
では今日の評定は、あの日と何が違うのか。勝頼は問いを転がしながら歩いた。廊下の角を曲がると声は聞こえなくなり、代わりに庭木の枝を揺らす風の音だけが残った。蕾はまだ白く、梅が咲く前に越後は何度動くのだろうか。勝頼は足を止めずに歩き続けた。
時間をおいて勝頼が奥書院に入ると、跡部勝資がすでに控えていた。
「評定は」
「信豊様が取りまとめておられます。越後への出兵を、具体的に詰める方向で」
「止めるな」
「はい」
「ただし、盛信は出すな。関所の帳面だけ続けさせろ」
「承りました」
跡部は頭を下げ、立ち上がろうとしてふと止まった。
「一つ、うかがっても」
「何だ」
「今年の荷の数を確かめられた理由を」
勝頼はすぐに答えなかった。行灯の芯が、かすかに揺れた。
「越後が止まれば、荷は減る。しかし荷は増えていた」
「はい」
「つまり、越後は、まだ動いている」
跡部は黙っていた。
「城が止まりかけていても、米と塩を運ぶ者がいる。それだけのことだ」
「では、陣代様は」
「越後が自分で尽きるのを待つ」
その言葉は、大広間の喧騒とは全く異なる冷ややかな温度で部屋に落ちた。跡部はしばらく黙り、来年の重さを量るように目を伏せていた。
「それだけでは、信豊様たちは……」
「儂が決しなければ、兵を出せぬであろう」
勝頼は帳面へ目を落としたまま言った。
「評定でいくら決めても、盛信が出なければ越後へは入らない。信豊もそれは分かっているだろう」
「そうでしょうか」
「分かってなくても構わない。どうせ来年には分かる」
跡部は何も言わなかった。座の空気が揃う。人が同じ方向を向く。その時、止める者が一人だけいればよい。止める者が動かなければ、揃った空気は進めない。それだけのことだ。跡部はおそらく分かっていない。しかし分からなくてよかった。勝頼との付き合いの中で、跡部は問い返さない時を心得ていた。
「盛信には、もう一つ伝えろ。荷を数えるだけでは足りない。荷がどこで散るかも書かせろ」
「どこで散るか、とは」
「峠か。宿場か。春日山へ届く前に止まる荷が出てくる。それが始まった時が、次の頃合いだ」
跡部は深く頭を下げ、それ以上の問いを封じた。
「下がれ」
跡部が出ていくと、部屋には勝頼ただ一人が残された。
机の上には何もない。景虎の書状は評定の間に置いたままだった。誰かが開いているだろうが、読まれて困る文面ではない。景虎が窮していることは、すでに知れ渡っているだろう。それを知らないのは、景虎本人だけだ。
勝頼は目を閉じた。あの時も誰かが「進むべきだ」と言っていた。思うがまま進んだ。そして結果として武田は滅んだ。勝頼は、それを一度、自分の骨で知っていた。
目を開けると、部屋は静かだった。
夕刻、跡部が戻ってきた。
「評定、まとまりました」
「内容は」
「盛信に北信濃の諸城を押さえさせ、春になれば越後への道を開く。そのための準備を始める、と」
「そうか」
「陣代様のご意向を」
「評定の通りで構わない」
跡部の顔が、かすかに動いた。
「ただし」
勝頼は続けた。
「まだ盛信は出すな。荷の帳面を続けさせろ。それだけだ」
「承りました」
跡部の足音が遠ざかり、廊下の板の鳴り方が変わって、再び静寂が訪れた。
夜が深まった。机の上に今日の帳面が置かれていた。勝頼は頁を開き、一列ずつ数字を目で追った。国境を越えた荷の数――米、塩、反物。越後へ入る荷が、今月も増えている。荷を運ぶ者の名前も村の名も記されていない。ただ種類と数だけが、跡部の丁寧な筆致で並んでいた。
数字は嘘をつかない。勝頼は帳面の余白に筆を走らせ、先月との差分を写した。言葉はいらなかった。来月の帳面には、行き先が加わる。峠で散るか。宿場で散るか。春日山まで届くか。その数字が積み重なれば、越後という国がどこから死に始めているかが見えてくる。城を見ても分からない。兵の数を見ても分からない。しかし荷の行き先は嘘をつかない。生きている国は荷が届く。死にかけている国は荷が途中で散る。
墨が乾くと、彼は帳面を閉じた。盛信は国境に留める。留めたまま、越後は尽きる。荷が散り始める地点が、帳面に積もっていく。その数字が揃った時、次の一手が見えるだろう。
行灯の火が、帳面の端だけを淡く照らしていた。甲斐の夜は、まだ長く、静かだった。




