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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百三十五話:甲斐静観

第百三十五話:甲斐静観


 越後から来る便りが、途絶え始めてから七日が経っていた。


 信濃の山道を、伝馬が潰れた。乱破が泥にまみれて峠を越えた。雪解けの水が街道をぬかるみに変え、それでも男は止まらなかった。


 躑躅ヶ崎館の門をくぐったとき、その男が持ってきた話は、もう七日前のものになっていた。


 躑躅ヶ崎館の奥書院に、夜が明けきらぬうちから灯が入った。


 跡部が帳面を卓の上に並べたのは、まだ闇の濃い寅の刻である。几帳の向こうに燭台の光が揺れ、墨と紙の匂いが冷えた空気に重く混じっていた。廊下の向こうで、風が板戸を一度だけ鳴らした。それ以外は静かだった。


「直江津の湊、この十日ほどの停泊数でございます」


 跡部が帳面を開いた。指が一行を示す。通常、春の解氷期の直江津には、もっと多くの船が出入りする。それが十日ほど前から目立って減り、近頃は十艘を切る日が続いている。


「信濃口の関所通行記録も、少し前から落ちています。塩、魚、染料。荷の動きが鈍い」


 真田安房守昌幸が、別の帳面を引き寄せた。


「出浦の者が聞いてきた話では、春日山城内の普請奉行が、半月ほど前から動きが妙だと。ただ、これは宿場での立ち話の域です。確かめてはおりません」


「妙、とは」


「分かりませぬ。聞いた者も、それ以上は分からなかったと」


 昌幸は帳面を置いた。指先で紙の端をわずかに押さえ、それから手を離した。少しの間、誰も口を開かなかった。燭台の炎だけが、微かに揺れていた。


「もう一つ」と跡部が言った。声がわずかに低くなった。「越後から戻る商人の数が、減っております」


「戻らぬのか」


「いえ、戻る者は戻っております。ただ、以前より口が重い。越後の話を聞いても、はっきりとは答えませぬ。何かを見たが、言いたくない、という様子の者が増えました」


「何を見たというのだ」


「分かりませぬ。本人たちも、うまく言えぬようです。城のあたりが、いつもと違う、というだけで」


 跡部はそこで言葉を切った。続きは言わなかった。続きを言えるほど、分かっていなかった。


 武田勝頼は帳面を黙って見ていた。指先が数字の列をゆっくりと辿る。止まる。また動く。止まる。


 湊の停泊数。荷駄の減少。商人の口の重さ。数字も話も、どれも別々の場所から来ている。時期が近いように見えるだけで、同じ一つの出来事だと決めつける根拠はなかった。


 越後で何かが起きている。だが、それは越後の話だ。今見えているのは数字だけだった。数字の先を想像することはできる。だが、想像を事実として扱うつもりはなかった。


 勝頼は帳面を閉じた。


 指先が帳面の角を軽く叩いた。一度。もう一度。


 誰も口を開かなかった。


「十日か」


 勝頼が言った。


「はい」と跡部が答えた。


「長いな」


 それだけだった。


 昌幸が続けた。


「景虎公が、どこかへ使者を出したらしい、という話もございます。ただ、これも噂の域を出ません。誰が出たのか、どこへ向かったのか、確かめた者はおりませぬ」


「噂の出所は」


「宿場の口です。越後の北の方から流れてきた話で、確かめようがありませぬ」


「では分からぬのだな」


「分かりませぬ」


 勝頼は懐紙を引き寄せ、筆で一つ書いた。


 景勝。


 隣に書いた。


 景虎。


 しばらく、その二つの名を見た。


 この二人が割れる日が来る。そう思って、ずっと備えてきた。海津を固め、米を積み、双方への使者の道筋まで整えてきたのも、そのためだった。


 ただ、今がその日かどうかが、分からない。


 数字と噂の重なりは、確かにそれを思わせる。だが、思わせるだけだった。今でないなら、いつなのかも分からない。今だとして、前と同じ形で進むのかも分からない。分からないまま、二つの名前だけがそこにある。


 線は引かなかった。筆を置いた。


「家中で、何か起きておるのかもしれぬ」


 勝頼は、それだけ言った。声に力はなかった。言った後、自分の言葉を確かめるように、もう一度二つの名を見た。確かめても、何かが確かになるわけではなかった。


「越後の中枢が止まっているらしいことは、数字が示している。だが、それが備えてきたものと同じものかは分からぬ。景勝公と景虎公、どちらがどう動いているのかも分からぬ。それが今この時のことかどうかも、分からぬ」


 広間に短い沈黙が落ちた。燭台の炎が、かすかに揺れた。


「ただ」と勝頼は言った。「数字は、止まらぬまま動いている。それだけは確かだ」


 それだけだった。


 朝の軍議が始まったのは、辰の刻を少し過ぎた頃である。


 夜明けの光が障子に滲み始めていた。訓練場の方から、兵の動く音が低く聞こえた。館の中では、それ以外は静かだった。


 集まった面々は多くなかった。跡部、昌幸、土屋昌続、それから対上杉・北条の外交取次を預かることとなった武田信豊。それから高坂弾正が、一人の男を伴って末席に座った。


 小山田信茂だった。


 高坂が連れてきた理由を、誰も口にしなかった。昌幸は一瞬だけ高坂の顔を見た。高坂は何も語らなかった。ただ静かに前を向いていた。その頰はひどく痩せ、灯の光に照らされた肌には、もはや取り戻しようのない翳りが落ちていた。以前は広かった肩が、今は少し内側へ折れている。それでも背筋だけは、まだ真っ直ぐだった。


 小山田は軍議の場に座ることに、慣れていない顔をしていた。役目を持たぬ者が、なぜここにいるのか。その問いを自分自身に向けているような、居心地の悪い端座だった。視線が定まらず、膝の上の手が、かすかに動いていた。


 勝頼が夜半の数字を短く述べた。湊の停泊数。荷駄の減り方。普請の遅れらしき噂。景虎の使者らしき話。それだけだった。淡々と、感情を乗せずに述べた。述べ終えて、一度だけ広間を見渡した。


「越後の様子が、見えぬ。今、分かっているのは、それだけだ」


 広間が静まり返った。


 誰も、すぐには言葉を継がなかった。


 高坂が、横目で小山田を見た。それだけだった。何も言わなかった。それでも、小山田にはその視線の意味が分かった。


 小山田は、一度、膝の上の手を握り直した。それから、口を開いた。


「陣代様」


 その声は、かすかに震えていた。武将の怒気でも、重鎮の貫禄でもない。何かを絞り出すような、悲壮な震えだった。


「越後が乱れているならば、好機ではございませぬか」


 言い終えて、小山田は少し俯いた。それから、もう一度顔を上げた。


「北条も、黙っては見ておりますまい。越後が乱れれば、北条も動きましょう。北信濃の境目も、いつまでも今のままとは限りませぬ。武田が後れを取れば」


 そこで言葉が途切れた。続きは出てこなかった。


 高坂は横からその横顔を見た。小山田の拳が、膝の上で白くなっていた。確信があってそう言ったのではない。それでも言わなければならなかった。そういう拳だった。


 誰も、すぐには答えなかった。


 広間の外で、風がひとつ吹いた。訓練場の喧騒が、遠く届いた。それからまた静かになった。


 最初に動いたのは跡部だった。帳面を開き、指で数字を示した。声を荒げるわけでもなく、ただ積み上げるように言った。


「越後がどちらに乱れているのかも、まだ分かりませぬ。乱れている、らしいというだけで、兵を向ける先がございませぬ」


「どちらかに付けば」


 小山田が言った。


「どちらに付くかではござりませぬ。どちらが何をしているのかが、まだ見えておりませぬ」


 信豊が口を開いた。少し躊躇ってから、言った。


「景虎公は北条の血縁。先に近づいておけば、北条への牽制にはなりましょう。ただ、噂の通り使者を出されたのが本当かどうかも、確かめておりませぬ」


 昌幸が静かに返した。


「確かめずに動けば、確かめずに動いたことになる。それだけです」


「では、何もせぬと」


「今は、何が起きているかを知ろうとするのが先です」


 信豊は黙った。間違ったことを言ったわけではなかった。ただ、先が出てこなかった。視線が文台の上の懐紙へ向いた。景勝と景虎の二文字。線のない、二つの名前。


 土屋昌続が口を開いた。声は低く、どこか独り言に近かった。


「越後で何が起きているか、まだ確かめていない。どちらかに付けば、その判断を後から変えることはできない。間違った方へ動けば――」


 土屋は続けなかった。続きが出てこなかった。越後で何が起きているか分からない。だからその先もなかった。


「商人の口が重くなっております」と昌幸が静かに言った。「それが何を意味するのかも、まだ分からぬ。越後の内側の空気が、見えておりませぬ」


 昌幸は、そこで一度止まった。それから、続けた。


「ただ、もしこれが家中の割れであるなら、いずれどちらの陣営も、外の力を欲しがりましょう。北条か、武田か。どちらが先に声をかけられるかは、まだ見えませぬが」


 それ以上は、言わなかった。見えない先を、見えるところまで言葉にしただけだった。


 広間が静まり返った。


 小山田は黙っていた。反論しなかった。できなかった。


 誰かに言葉で負けたのではなかった。自分の一言の後に積み重なった数字と噂を聞きながら、小山田自身が、ゆっくりと分かっていった。好機かどうかを言うには、何も見えていない。好機は、まだそこにない。見えない好機に手を伸ばしただけだった。


 誰も小山田を責めなかった。


 勝頼はその間、誰の言葉も遮らなかった。信豊の意見も、昌幸の慎重論も、土屋の途切れた言葉も、すべて最後まで聞いていた。急がなかった。誰かを論破しようともしなかった。全員が言い終えた後、少しの間、黙っていた。


 もしこれが、ずっと備えてきたものであるなら。海津の兵糧も、善光寺平の米も、双方への使者の道筋も、すでにそこにある。動かす前に、まずそれを確かめればよい。今、急いで動く理由はなかった。


「動けぬ」


 勝頼が言った。


 声は静かだった。決断した者の声ではなかった。今の場所を確かめた者の声だった。


「動かぬ、ではない。動けぬ、だ。何が起きたか分からぬ。どちらに何の理があるかも分からぬ。分からぬままに動けば、武田は誰かの手の中で動かされることになる」


 それだけだった。


 勝頼が信豊、土屋、昌幸に向き直った。


「指示を出す」


「御意に」


「盛信へ急使を飛ばせ。海津の備えを固め、伝馬を増やし、国境の動きをこちらへ絶えず流せ、とな。兵を出すには早い。まずは目を増やすだけでよい」


 土屋が答えた。


「飯山の備蓄は盛信様が冬の間に積み上げております。急使が着けば、すぐに伝馬を増やせましょう」


「乱であろうとなかろうと、境目で目を凝らしておけば、無駄にはならぬ。何も起きておらぬなら、それだけのことだ」


 昌幸が静かに口を開いた。


「盛信様が目を増やせば、何が越後で起きているか、もう少し見えてくるかもしれませぬ」


 そこで止まった。もう少し言いかけた様子だったが、口を閉じた。何かを掴みかけて、まだ形にならない、という顔だった。


「典厩、お前が窓口となれ。景勝にも景虎にも、まだ近づくな。どちらにも文を出すな」


 信豊は意外そうな顔をした。


「近づかぬ、とは」


「今、近づけば、見えていない盤の上に駒を置くことになる。盤の形が見えてから動く」


 勝頼は、それだけ言って、一度言葉を切った。


「先に旗色を示せば、片方の影になる。間に立つ者は、最初に色を見せてはならぬ。両方が武田を要する刻まで、待つ」


「御意に」


 信豊はもう一度頷いた。その顔には、まだ何かが残っていた。何も近づかぬとは、何もしないということではないか。その問いを呑み込んで、頷いた。


「跡部」


「はっ」


「信濃口の荷札を、すべて記録に残せ。止めるな。咎めるな。ただ、何が越後へ入っていくか、何が出てくるか、帳面の上で見える形にしておけ」


「御意に」


「江尻湊の改修予算は、止めずに進めよ。乱の有無にかかわらず、駿河の商いは進める」


「やれ」


 広間に短い沈黙が落ちた。


 誰も余分なことを言わなかった。しかし整然としていたわけでもなかった。それぞれが自分の役目だけを頭の中で組み立て、それ以外のことはまだ分からないまま、広間に座っていた。越後で何が起きているか、まだ誰も知らなかった。今日も、明日も、報が届くまでは知らないままだ。


「見ておく」


 それだけだった。


 人が散った後、昌幸だけがわずかに遅れた。文台の上に残された懐紙を、ちらりと見た。


 線のない、景勝と景虎の二文字。


「春日山で、何かが始まっておりますかな」


 勝頼は懐紙を見たまま、しばらく答えなかった。


「分からぬ」


 それだけだった。


 昌幸は、その答えに、軽い違和感を覚えた。近頃の勝頼は、分からぬものは分からぬと言うようになった。前はもう少し、先を見て言葉を出していたように思う。気のせいかもしれない。それ以上は、踏み込まなかった。


 頭を下げて、出ていった。


 勝頼は一人、懐紙を見ていた。


 越後で何が起きているのか。まだ何も見えていない。それで構わなかった。見えていないものを見えたことにして動く方が、よほど危うい。


 軍議が終わり、高坂昌信と小山田信茂は連れ立って廊下へ出た。


 朝の光が庭に差し込んでいた。常備兵たちが訓練場で無言の整列を繰り返していた。昨日も同じ光景だった。明日も同じだろう。


「小山田殿」


 高坂が言った。


「……高坂殿」


「よく言ってくれた」


 小山田は少し間を置いた。


「……何もできませんでした」


「それでよい」


 二人は黙ったまま、訓練場を眺めた。常備兵たちが、朝の光の中で淡々と隊列を組み替えていた。号令はなかった。それぞれが次の動きを知っていた。


「高坂殿は」と小山田が言った。「近頃は、長く立っておるだけで疲れる、と仰っていたとか」


 高坂は答えなかった。ゆっくりと息を吐いた。白い息が、朝の空気に溶けた。


「だから、貴殿を連れてきた。それだけのこと」


 小山田は何か言おうとした。言葉が出なかった。出てこないまま、また訓練場へ視線を戻した。


「何も決まりませなんだな」


 小山田が、ぽつりと言った。


「いや」


 高坂が言った。


「決まった」


「何が」


「あの方は、見えぬ盤では打たぬ」


 小山田は、それ以上を問わなかった。訓練場では、常備兵たちが、変わらぬ動きで隊列を組み続けていた。誰かが急かしているわけではなかった。誰も急いでいなかった。それでも、訓練は止まらなかった。


 廊下の先、奥書院の灯はまだ消えていなかった。高坂昌信は、長く息を吸い込んだ。遠く、越後の方角に目を向けた。


 江尻では今日も槌音が止まらない。海津では伝馬の数が、少しだけ増えていた。誰も、越後の乱を待ち望んでいなかった。普段と同じことが、普段通りに、積み上げられているだけだった。


 越後で何が起きているのか、甲斐に見えているのは、まだ断片だけだった


 春の風だけが吹いていた。

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