第百三十三話:会見拒絶
第百三十三話:会見拒絶
柿崎の屋敷に、灯りが一つあった。
深夜だった。城下は静まり返っていた。犬の声もなかった。風もなかった。
景虎の近習四人が門前に立った時、屋敷の中はすでに起きていた。門番が一人、無言で脇へ寄った。案内もしなかった。しかし閉めなかった。それだけだった。
晴家は一人で座っていた。酒もなかった。茶もなかった。床の間に一輪、椿があった。赤かった。夜の灯りの中で、濃い赤だった。
近習の頭が膝をついた。
「景虎様より、ご意向をお伝えしたく参りました」
晴家は聞いた。最後まで聞いた。声を出さなかった。頷きもしなかった。ただ聞いた。
近習が話し終えた。
晴家は一拍置いた。
「御屋形様には、会われたか」
近習は口を開かなかった。
晴家も続きを促さなかった。
「ならば今夜は、お会いできませぬ」
近習の頭が顔を上げた。
「景虎様は」
「焦っておられる」
晴家は言った。
「何かございましたら、また参ります」
「来ても同じだ」
晴家は言った。
「御屋形様の御様子が分かるまでは」
近習たちが頭を下げた。立ち上がった。足音が廊下を遠ざかった。門が閉まる音がした。それきり、静かになった。
家臣が一人、隣の部屋から出てきた。晴家の右に座った。
「殿」
「何だ」
「どちらへ、使者を出されますか」
晴家は答えなかった。
家臣は間を置いた。それから、続けた。
「御屋形様が生きておられるなら、動いた方が裏切り者にございます」
晴家は椿を見ていた。
「御屋形様が、すでに身罷っておられるなら」
家臣の声が、わずかに低くなった。
「遅れた方が、討たれまする」
晴家は椿を見た。
家臣も椿を見た。
どちらも口を開かなかった。
「殿は」
家臣が、もう一度言った。
「どちらにも、つかれぬのですか」
「待つ」
晴家は言った。
家臣は、それ以上を問わなかった。頭を下げて、引いた。
晴家は一人になった。椿を見続けた。花弁は閉じていた。夜の中で、ただそこにあった。
灯りが揺れた。揺れて、また静かになった。
まだ、どこからも届いていなかった。
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本庄秀綱が廊下を歩いたのは、夜明けに近い刻だった。
手に帳面を持っていた。三冊あった。昨日の朝から抱えたまま、置く場所が決まらなかった。
角を曲がったところで、足が止まった。
西廊下への入口に、男が立っていた。東の曲輪を任されている足軽の頭だった。その前に、荷を持った人足が二人、止められていた。炭だった。俵に入った炭が、廊下に並んでいた。
「通せぬ」
足軽の頭が言っていた。
「御朱印の改定まで、この先への搬入は」
「誰が命じた」
秀綱が近づきながら言った。
足軽の頭が振り返った。
「お指図は受けておりません」
「では、なぜ止めている」
「御朱印がございませぬので」
秀綱は人足から帳面を受け取った。いつも通りの納品記録だった。炭、量目、先月と同じだった。受取人の欄には、台所方の名が書いてあった。
「これは台所への炭だ。御屋形様より、城内の炊事は止めるなとの仰せがある。蔵には入れぬ」
足軽の頭が、帳面を覗いた。
「しかし御朱印が」
「これは蔵の出し入れではない。私が通すと言っている」
一拍あった。足軽の頭が横へ寄った。人足たちが通った。炭が運ばれていった。足音が遠ざかった。
秀綱は廊下に一人残った。
帳面を開いた。今日の日付のページに一行書いた。台所方搬入、炭、通過。書いて、次の頁をめくった。今日処理すべき案件の一覧だった。
十七件あった。
昨日は十一件だった。
その前の日は六件だった。
数字が、毎日ほぼ倍に近い速さで増えていた。今日が十七なら、明日は三十に届くかもしれなかった。秀綱はそれを、頭の中で計算した。計算は、合っていてほしくなかった。しかし合っていた。
東蔵、三件。
西蔵、九件保留。
秀綱は足を止めた。
帳面を一冊開いた。今日の日付のページだった。十七という数字の下に、何も書かなかった。
次の頁をめくった。
まだ白かった。
秀綱はその白さを、しばらく見ていた。
帳面を閉じた。三冊を抱えて、廊下を歩いた。足音は静かだった。三冊の帳面が脇で擦れた。
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景勝の部屋の灯りは、まだ消えていなかった。
報告を持って来た者が、膝をついていた。
「今夜の廊下の兵数にございます」
「五十八」
報告の者が言った。
景勝は答えなかった。
三十六から始まっていた。
四十八になった。
五十三になった。
今夜は五十八だった。景勝は増やせと命じていなかった。しかし増えていた。
「誰の命だ」
「分かりませぬ」
報告の者は答えた。嘘をついているわけではなかった。本当に分からなかった。誰かが言ったわけではなかった。しかし毎夜、兵が増えた。
「直江殿は、今夜も廊下に」
報告の者が言った。
「景虎様が、いずれお出でになるかと」
景勝は答えなかった。
「信綱を下げよ」
その一言を言えば済む。
景勝はそう思った。
言わなかった。
「下がれ」
景勝は言った。
足音が遠ざかった。部屋にまた静寂が戻った。
命じた覚えのない数字だった。
机の上に、朴の木の箱があった。
景勝は朴箱に手を伸ばした。
指先が蓋に触れた。
開かなかった。
手を離した。
書き付けを折りたたんだ。机の端に置いた。
灯りが一度だけ大きく揺れた。また静かになった。
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春日山の夜が、最も深くなる刻だった。
霧が、また厚くなっていた。
城の輪郭が、霧に溶けていた。東の廊下も、西の廊下も、霧の中では同じ色をしていた。
景虎は、廊下を歩いていた。
近習が三人、後ろについていた。全員が黙っていた。足音だけが廊下に響いた。石灯籠の灯りが、揺れるたびに影を伸ばした。景虎の影が、壁を這って長くなった。
東の廊下との境界が見えてきた。
そこに、人が立っていた。
直江信綱だった。一人ではなかった。背後に足軽が四人、槍を持って並んでいた。昨日より一人多かった。灯りが信綱の顔を照らしていた。目が、景虎を見ていた。動かなかった。揺れなかった。ただ、見ていた。
景虎は足を止めた。
三間の距離があった。
誰も踏み出さなかった。
「信綱殿」
景虎が言った。声は静かだった。
「昨日も願い出た。今朝も願い出た。返答は同じであった。今夜は直接伺う」
信綱は答えなかった。
すぐには、答えなかった。
一拍あった。その一拍の間に、信綱の喉仏が一度だけ、大きく上下した。それだけだった。体は動かなかった。足も、腕も、肩も、何一つ動かなかった。しかし喉仏だけが動いた。それを景虎は見た。
「御屋形様はご静養中にございます」
信綱が言った。
低い声だった。感情がなかった。
「何人であれ、近寄ることは許されぬ」
景虎の近習の一人が、半歩前に出た。腰の刀の柄に、自然に手が添えられていた。意図したわけではなかった。体が動いていた。その動きを見て、信綱の背後の足軽たちの槍の切っ先が、わずかに前へ向いた。
音はなかった。
しかし全員が、音を聞いていた。頭の中で聞いていた。刃が空気を切る音を、甲冑が地面に落ちる音を、誰もが想像しながら、動かずにいた。
信綱の背後で、若い足軽の指が、槍の柄の上で白くなった。誰かが一歩踏み出せば、自分が最初に死ぬ場所に立っている。それを理解していた。理解した上で、立っていた。足の裏から何かが這い上がってきた。それを槍の柄を握ることで押さえた。
白い息が、二つの側から漂った。夜の冷気の中で、混ざり合い、消えた。また生まれて、また消えた。
信綱は、自分の足元を見た。
板の目に、古い傷があった。誰がつけたかは知らない傷だった。信綱はしばらくそこを見た。
目を上げた。
「九日だ、信綱殿」
景虎が再び言った。今度は声が少し低かった。
「それでも、会わせぬか」
景虎の声が、わずかに高くなった。
「もし御屋形様に万一のことがあったならば、その責は誰が負うのだ」
信綱は答えなかった。
視線が、動かなかった。景虎を見たまま、動かなかった。
景虎は信綱の目の奥に、何かを探した。怒りを探した。恐れを探した。あるいは、ためらいを探した。
見つからなかった。
三間が、そこにあった。廊下の板が、三間分だけ、灯りの中に伸びていた。
近習の一人がまた動きかけた。今度は刀の柄を握っていた。指が白くなるほど、強く握っていた。信綱の背後の足軽の一人が、槍を肩の高さまで上げた。別の一人の手が、腰の短刀に伸びた。
誰も言葉を発しなかった。
しかし全員が、次の一瞬に備えていた。
「戻れ」
景虎が言った。静かな声だった。
近習たちが止まった。握っていた柄を、離せなかった。体が言うことを聞かなかった。
「戻れ、と言った」
二度目だった。今度は少し間があった。それから、一人が手を離した。続いて、残りの二人が引いた。足軽たちの槍が、ゆっくりと下がった。若い足軽が、長く息を吐いた。誰にも聞こえない息だった。しかし確かに吐いた。
景虎は信綱を最後に一度だけ見た。
信綱は動かなかった。目も動かなかった。ただ立っていた。
景虎は背を向けた。
西の廊下を、来た道へ戻った。足音が響いた。行きと同じ足音だった。廊下の角を曲がるまで、景虎は一度も振り返らなかった。
景虎の足音が遠ざかった。
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信綱は動かなかった。
足音が完全に消えるまで、動かなかった。
足軽たちの息が、少しずつ落ち着いていった。槍の切っ先が下がった。肩から力が抜けた。若い足軽が膝を折りかけて、隣の者に支えられた。誰も何も言わなかった。
「下がれ」
信綱は足軽たちに言った。
「交代まで持ち場を離れるな」
足音が散った。廊下が静かになった。信綱だけが残った。
信綱はもう一度、足元の傷を見た。
目を離した。
手のひらを見た。汗があった。冬の終わりの廊下で、その汗だけが温かった。指を一度握り、開いた。それだけだった。
灯りが揺れた。影が伸びて、縮んだ。
信綱は障子を見た。
命を受けた覚えはなかった。
それでも、自分が立っていた。
障子は、閉じたままだった。
手のひらの汗が、夜気に冷えていった。信綱はそれを、拭わなかった。
遠くで拍子木が鳴った。乾いた音だった。城の夜に溶けて、消えた。
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西の曲輪の奥の部屋に戻ると、景虎は近習たちを下がらせた。
一人だけが残った。幼少のころから仕えている男だった。景虎が黙っているときに、黙っていられる男だった。
景虎は部屋の隅に座った。刀を膝の上に横たえた。鞘が、手のひらに冷たかった。
「会わせてもらえなかったな」
景虎が言った。独り言のようだった。
「見ました」
近習は答えた。問いを待たずに答えた。
「何をだ」
「あの男を」
景虎は頷かなかった。しかし否定もしなかった。
灯りが揺れた。外から風が入ってきた。隙間風だった。春の夜の、湿った冷たさを含んでいた。
「いかがなさいましょう」
近習が言った。
景虎は答えなかった。
近習はそれ以上を問わず、頭を下げて下がった。
景虎は部屋に一人になった。
刀を見ていた。鞘の木目を見ていた。
瞼の裏に、像が浮かんだ。
春日山への道だった。まだ年若かった頃の景虎が、城門に向かっていた。越後の民が道の両側に並んでいた。誰も声を上げなかった。ただ見ていた。毘の旗が、風に揺れていた。白地に黒く染め抜かれた一文字が、空を背に翻った。その下に、人がいた。大きな背だった。景虎より頭一つ分は高かった。
城門をくぐる直前、その背が一度だけ立ち止まった。空を見た。
景虎も立ち止まった。
後ろの者に肩を押された。
それでも、目だけは離れなかった。
瞼の裏の背が消えた。部屋には灯りだけが残った。
文机を引き寄せた。硯に水を足した。筆を取った。
しかし、書けなかった。
筆を持ったまま、動かなかった。紙の白さが灯りを返していた。
外で拍子木が鳴った。一度。間があって、もう一度。その間が、今夜はいつもより長かった。
信綱の目を思い出した。
景虎は筆を取り直した。
筆先が、紙の上で止まった。
御、と書いた。
そこで止まった。
墨が、筆先からわずかに滲んだ。
長く、息を吐いた。
それから、別の紙を取った。筆を当てた。
御屋形様、九日御不出。東より面会を拒まる。城中の様子、尋常ならず。速やかに御相談願いたし。
書いた文字を、景虎はもう一度見なかった。見れば、また筆が止まる。それを知っていた。
書き終えた。筆を置いた。墨の匂いが、部屋にわずかに残った。
書状を折り、封をした。
近習を呼んだ。
「夜明け前に出せ。春日山を出るのは夜明けでいい。しかし門を出た後は、止まるな」
「御意」
近習が下がった。
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夜明け前の霧は、夜より深かった。
城門が、内側から音もなく開いた。
馬が一頭、門をくぐった。その後に、もう一頭。二頭の馬が、霧の中に進んだ。蹄の音が石畳に響いた。しばらく響いた。やがて遠くなった。遠くなって、霧に吸われた。
門が閉まった。
閂が落ちた。
近習の一人が、閂の音を聞いた。振り返らなかった。ただ聞いた。
景虎は見送らなかった。部屋にいた。
霧の中に、春日山城があった。東の曲輪に灯りがあった。西の曲輪に灯りがあった。どちらの灯りも、霧の中では同じ色をしていた。
春日山を出た二騎は、振り返らなかった。
拍子木が鳴った。
しばらくして、また鳴った。
二つの音の間が、いつもよりわずかに長かった。気づく者はいなかった。気づいていても、口にする者はいなかった。
まだ、戦は始まっていなかった。




