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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百三十二話:決裁停止

第百三十二話:決裁停止


 朝の光が、障子を白く染めていた。


 霧の白さとは違う。光の白さだった。春日山の朝は、霧が晴れる前に光が来る。光が先に来て、霧をゆっくり押しのけていく。その順番だけが、いつも同じだった。


 景勝は、机の前に座っていた。


 昨夜から、この場所を動いていなかった。行灯の油が尽きたのがいつだったか、分からなかった。暗くなった部屋の中で、ただ座っていた。気がつけば光が来ていた。


 机の上に、箱がある。


 朴の木の、質素な箱だ。三寸四方ほどの大きさで、蓋の木目が細かかった。角に鉄の金具が打ってある。使い込まれた鉄の色をしていた。蓋は閉じたままだった。


 この箱は御屋形様のものだった。


 景勝はその箱を見ていた。ただ箱を見ていた。


 廊下で、足音がした。


 一人ではなかった。二人。片方の足音には覚えがある。直江信綱だった。もう一人は、少し重かった。


 障子が開いた。


 信綱が入ってきた。その後ろに、本庄秀綱が続いた。秀綱は帳面を抱えていた。厚い帳面だった。表紙の角が擦り切れていた。何度も開かれた帳面だった。


 二人は無言で座った。景勝も黙っていた。


 朝の光が、三人の間に落ちていた。


 信綱が先に口を開いた。


「控えの間に、積んでございます」


 景勝は答えなかった。


「昨日から今朝にかけて、御朱印を求める書状が二十三通。今日中に返事を要するものが七通。そのうち差し迫っているものが五通にございます」


 信綱は書状の束を机の脇に置いた。五通が、きちんと揃えて重ねてあった。その後ろに、さらに薄い束がある。束の厚さが、違った。


「春の普請が二通。関所の通行改めが一通。塩の回漕が一通。信濃口の宿場への兵糧手当が一通。いずれも急を要します」


「分かっておる」


 景勝は、そう言った。


 この箱を開ければ、御朱印が押せる。しかし誰の名で押すのか。謙信の名で押し続ければ、それは死者の名を騙ることになる。景勝の名で押せば、景勝が越後の主であることを宣言することになる。宣言した瞬間、西の廊下が動く。


 箱は閉じたままでいた。


「これ以上、御屋形様の花押を増やすわけには参りませぬ」


 信綱が言った。景勝は問い返さなかった。続きを待った。


「御名で押し続ければ、御屋形様が今も政務を執っておられるということになります。信じた者が西へ書状を持ち込めば、御朱印の真贋を巡って揉め事になります。しかし」


 一呼吸置いた。


「止めれば、国が止まります」


 秀綱が帳面を開いた。数字が並んでいた。米の量、金の量、兵の数、蔵の在庫。秀綱の指が、ある一行を押さえた。


「先月の御朱印の発行数、四十七通。今月十九日間で、三十一通。御屋形様のお加減が良くないとの噂が出てから、確認の書状が急増しております。御朱印を持った書状が来れば、御屋形様が動いておられる証拠になる。そう考えた者たちが急いでおります」


 秀綱は帳面を閉じた。


「止める決断は、この秀綱にはできません」


 景勝は、その言葉の最後の部分だけを、静かに受け取った。


「止めた場合、最初に滞るのはどこだ」


「関所の通行改めが先に詰まります。次に、信濃口の兵糧。問題は塩の回漕です。三月中に動かないと、越後北部の塩が夏前に足りなくなります」


「他には」


「年貢の勘定が止まります。寺社への寄進状も、街道普請の差配も、金山の出納も、直江津の荷改めも。すべて御朱印待ちになります」


「三月中、とは」


「今から十日ほどでございます」


 十日。景勝はその数字を、頭の中で転がした。数字の向こうに、連鎖が見えた。一つが止まれば、次が止まる。次が止まれば、その次が動く。動く向きは、こちらの望む向きではない。


「西の者たちは、今朝の動きを見ておるか」


 信綱は少し間を置いた。


「見ております。景虎殿の近習が、朝から数度、東の廊下口まで来ては引き返しております。声はかけてきておりませぬ。しかし、見ております」


「どう読んでいるか」


「今はまだ、御屋形様の御不調と読んでいましょう。しかし、長引けば別の読み方をします」


 景勝は頷かなかった。分かっていた。


「少し、一人にしてくれ」


 二人の足音が廊下を遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


 景勝は、静かに立ち上がり、廊下へ出た。信綱を呼んだ。


「千坂景親、河田長親、狩野秀治を呼べ。表の間で待つ」


 声は低かったが、迷いはなかった。信綱の足音が、廊下の奥へ駆けていった。


 景勝は表の間へ移った。誰もいない部屋に、自ら入って座った。座って待つことが、今までと違っていた。今まではいつも、誰かが先に座っていて、景勝がその前に腰を下ろした。今日は逆だった。


 程なく、廊下に足音がした。三つ。一つは速く、一つは落ち着いていた。もう一つは、重かった。


 千坂景親は、まだ具足の紐を結びながら入ってきた。呼び出しが急であったことが、その手の動きで分かった。狩野秀治は、表情を変えずに座った。膝の上に置いた両手が、わずかにも動かなかった。河田長親は、二人の後から入り、端に座った。何も言わなかった。


「御屋形様のことは、すでに耳に入っておろう」


 三人は答えなかった。答えないことが、答えだった。


「九日前に、身罷られた」


 その一言で、表の間の空気が変わった。誰も声を上げなかった。しかし、それまで保たれていた何かが、その瞬間に外れた。景親の手が、具足の紐から離れた。


 離れたまま、しばらく宙に浮いていた。景親は、それに気づいていないようだった。


 秀治の視線が、わずかに揺れた。揺れて、畳の一点に落ちた。落ちたまま、動かなくなった。


 長親は目を閉じた。閉じたまま、動かなかった。


 誰も、何も言わなかった。


 障子の外で、朝の光が、畳の縁を少しずつ動いていた。景勝は、その沈黙を、急かさなかった。急かしてはならない沈黙だった。三人にとって、九日前という日付が、今この瞬間に始まったのだった。


 長い間を置いて、景親が口を開いた。声が、わずかに掠れていた。


「……九日、隠しておられたと」


「隠した。隠さねば、収まらぬものがあった」


 景親は、それ以上聞かなかった。具足の紐に、もう一度手をやった。今度は、結び直すためだった。


 秀治が口を開きかけた。しかし声が出なかった。


 長親が、言った。


「御屋形様は」


 声が、途中で止まった。


 止まったまま、続かなかった。


 誰も答えなかった。答える必要がなかった。景勝はすでに言った。秀治も景親も聞いた。しかし長親だけが、もう一度口を開いた。


「昨日まで、軍議をしておられた」


 それだけだった。


 景親が、長親の方を見た。秀治も見た。景勝も見た。


 長親は畳を見ていた。見ているようで、見ていなかった。畳の目が、そこにあった。それだけだった。


「西征の準備を、まだ続けておられた」


 長親の声は低かった。荒れていなかった。しかし何かが、その声の底にあった。


「あの御方が」


 そこで止まった。


 長親の右手が、膝の上で、ゆっくりと握られた。指が白くなるまで、握られた。それだけだった。声は出なかった。立ち上がらなかった。ただ、握った。


 部屋が静かだった。


 景勝は、その握った拳を見た。見て、何も言わなかった。言う言葉がなかった。九日前から、景勝もその問いと一緒にいた。答えは出なかった。今も出ない。ただ現実だけが、そこにあった。


 長親の拳が、少しずつ開いた。指が、膝の上に戻った。長親はまた目を閉じた。


 閉じたまま、動かなかった。


「これより、越後の差配は、この景勝が執る。今この城で、誰がどこに立つかを知っておきたい」


「数えて、何となさいます」


「兵を挙げるためではない。守るためだ。城を、蔵を、書庫を、台所を。御屋形様が遺された越後の形を、崩さぬために数える」


 景親は、しばらく景勝を見ていた。それから、深く頭を下げた。


「承知いたしました。今日中に名を揃えてご覧に入れます」


「東に心を置く者だけではない」


 景勝は、そこで一度止まった。


「どちらとも言えぬ者も、別に書き出せ。今この城に詰めている者の大半は、そちらのはずだ。その者たちが、どちらへ向くかで、春日山の形が決まる」


 景親は、顔を上げた。何かを問い返そうとした。しかし景勝はすでに次を見ていた。景親は、口を閉じた。


「承知いたしました」


 秀治が、ここで初めて口を開いた。


「申し上げてもよろしいか」


「言え」


「西は、今、どこまで知っておりますか」


 景勝は秀治を見た。秀治の目は、畳ではなく景勝を向いていた。問いを持った目だった。


「知っておらぬ。しかし、疑っておる。今日中に、何かが変わる」


 秀治は頷いた。それだけだった。もう一度、頭を下げた。


 三人が下がりかけた時、景勝は長親だけを引き留めた。


「長親」


「はい」


「城内の兵数と配置を、今日のうちに書き出せ。東の曲輪、西の曲輪、城門、蔵の周り。全て別々に」


 長親は頷いた。言葉は出なかった。頷いただけで、廊下へ出た。


 三人が下がった後、景勝はしばらく表の間に一人で座っていた。自分の意志で、そこに座っていた。


 昼前に、秀綱が戻ってきた。


 今度は一人だった。持ってきた帳面が、朝より増えていた。帳面の下に、小さな木の札が重ねて置かれていた。三枚だった。


「鍵札か」


「はい。米蔵、金蔵、兵糧庫、それぞれの蔵の鍵を管理する札にございます」


 秀綱は札を指先で揃えた。三枚が、きちんと整列した。


「今は、この秀綱が預かっております」


 景勝は秀綱の顔を見なかった。札を見ていた。


 命じられたのではない。蔵番の側が、御朱印なしでは動けないと判断して、自分から鍵を預けに来た。春日山の実務の底が、上からの命令を待たずに、すでに身を固め始めている。


「蔵番から申し出があったのだな」


「はい。今朝方、蔵番の頭がこの秀綱に直接。御朱印が止まっている間は、蔵の出し入れを止めたいと」


 秀綱の顔に、わずかに何かがよぎった。一瞬だけだった。景勝には、それが何かが分かった。秀綱は、蔵番の言葉を借りて届けた。自分の考えを。


「止めることの、意味を分かっておるか」


「分かっております。蔵が閉まれば、西が干上がります。干上がれば、動きます」


「分かっておいて、止めると言うか」


「御朱印を止めた上で、蔵を開けたままにすれば、判断なき物資の流出になります。実態として、景虎殿の手に渡ることになりましょう。それも困ります」


 景勝は、机の上の箱に、一度手をかけた。


 指の先が、蓋の木目に触れた。そのまま、放した。


「引渡帳は」


「作ってございます」


 秀綱は帳面を一冊取り出し、景勝の前に広げた。表書きに「西廊下引渡帳」とあった。米の量、薪の量、炭の量。月ごとの実績数字が、縦に並んでいた。最終行だけが空白だった。


 その空白を、景勝はしばらく見ていた。


 ここに何かが記された瞬間から、春日山は正式に、二つの立場に割れる。


「秀綱」


「はい」


「お主は、どうしたい」


 秀綱は少し間を置いた。


「私が申し上げることではございません」


「聞いておる」


「……閉めるべきかと存じます。閉めれば、西が動く。動いた先に、血が出るかもしれません。しかし開けたままでいれば、それもまた、別の血に繋がります。ならば、先を見て動く血の方が、まだ制御できます」


 長い沈黙の後、景勝は秀綱を見た。


「蔵を閉じよ」


 秀綱は、一瞬だけ景勝を見た。何かを確認するような目だった。それから帳面に筆を取り、最終行に一本の線を引いた。


 墨が、紙へ沈んだ。


 鋭く、まっすぐな線だった。乾く前の墨は、光を少し吸っていた。秀綱は筆を置いた。置いた後、動かなかった。帳面も閉じなかった。引いた線を、しばらく見ていた。


 景勝も、その線を見ていた。


 遠くで、城門の閂が落ちる音がした。蔵の方からだった。今日から、春日山の蔵は閉まる。


 秀綱が、ゆっくりと帳面を閉じた。


「城内の炊事は止めるな。城の者たちの食い扶持は保障せよ」


「承知しました」


 秀綱は廊下へ出た。その足音が、少し早かった。いつもより、わずかに早かった。


 蔵が閉じられたことを見届けると、景勝は再び信綱を呼んだ。


 正午を過ぎたころ、信綱が来た。


「景虎殿より、使いが参りました。御屋形様への御目通りを願いたい、と」


 景勝は、すぐには答えなかった。


 御目通りを願いたい。景虎がすでに何かを疑っているなら、これは確かめるための一手だった。御朱印が止まった。蔵が閉まった。その二つが重なった上で、使いを出した。


「取り次ぎは、夕方まで待たせろ。御屋形様は、今しばらく養生を要すると伝えよ」


「御意」


「春日山への出入りを、今日から記録せよ。誰が、どこから、何を持って入り、何を持って出たか。全て書き留めろ。書庫の鍵も、今夜中に東で預かれ」


「承知しました」


 信綱が廊下へ出た。


 午後になり、信綱が再び来た。


「景虎殿の使いが、また参りました。今夜、景虎殿御自身が、御屋形様のお部屋へ参上したいと」


 まだ夕方ではなかった。それでも来た。蔵が閉まったことが西に伝わり、景虎の時計を速めた。


 断れば、確信させる。通せば、いないものをいると見せなければならない。どちらも、今夜は取れなかった。


「御屋形様は、今夜は御加減が優れぬ。明日の朝、改めて取り次ぎを求めるよう伝えよ」


「御意」


 信綱が、少し声を落とした。


「西の曲輪では、夜に入っても灯が消えませぬ。景虎殿の近習が、夕刻までに三度、人を集めております。何の集まりかは、まだ掴めておりませぬ」


「引き続き、見ておけ。何が集まったか分かり次第、すぐに知らせよ」


「御意」


 同じころ、西の曲輪にも、夕暮れが来ていた。


 景虎の居室には、行灯が三つ灯っていた。廊下の灯りを加えれば、四つだった。東の廊下より、明るかった。


 近習の吉江が、膝を揃えて座っていた。


「蔵番が、鍵を東へ渡したと」


「はい。秀綱殿が引き取りに参ったとのことにございます」


 景虎は、それを聞いた。聞いて、何も言わなかった。しばらく行灯の炎を見ていた。炎は、動かなかった。


「御屋形様のお加減は、どう聞いておる」


「詳しくは、何も。ただ、九日前から御姿を見た者がおらぬと」


「九日」


 景虎は、その数字を口の中で繰り返した。繰り返した後、また黙った。


 吉江は、景虎の横顔を見た。何かを尋ねるべきかどうか、迷っていた。


「御朱印が止まった日は」


「九日前、と聞いております」


 景虎は、頷かなかった。頷く代わりに、炎を見続けた。


 九日前から姿がない。九日前から御朱印が止まった。蔵が閉まった。書庫の鍵が動いた。面会を断られた。


 病人を隠す理由はある。だが、蔵まで閉める必要はない。


「今夜は、誰も動かすな」


「御意」


「明日の朝、東から返事が来る。その返事の形を見てから、決める」


 吉江が下がった。


 景虎は、一人になった。


 行灯の炎が、かすかに揺れた。揺れて、また静かになった。


 病なら、長い。だが長すぎる。


 御屋形様が、隠し事をなさる方でもない。


 その同じ日、春日山から離れた場所でも、止まったものがあった。


 信濃口の宿場では、兵糧方の老兵が、蔵の戸を開けたまま立っていた。手形は来なかった。蔵の中には、底の見えた米俵が、数えるほど残っているだけだった。老兵は、戸を閉めなかった。閉めれば、何かを認めることになる気がした。日が傾いても、手形は来なかった。


 直江津の浜では、荷役の人足たちが荷を積めずにいた。敦賀行きの船。佐渡行きの船。能登から来た商船。どの船も岸に繋がれたままだった。問屋場の帳面には、今日付けで荷改めを待つ荷の名が並んでいた。判物の欄だけが、空白だった。


 北の浜では、塩廻船の船頭が、舫い綱を解かずにいた。書状が来れば、綱を解く。来なければ、解かない。今日は、来なかった。船頭は、綱を握ったまま、沖を見ていた。


 城の中では、御朱印が止まったことは数行の記録にしかならなかった。しかし城の外では、それは米であり、船であり、塩であり、判物であり、人だった。止まったものの形は、城の中からは見えなかった。見えないところで、止まったものが、静かに積もっていった。


 夕暮れが来た。


 春日山の夕暮れは、光が消えるのではなく、山の向こうへ沈んでいく。稜線が光を削り取り、城の中が少しずつ暗くなる。急に暗くなることはなかった。


 景勝は、縁側に出た。


 庭が見えた。梅の枝がある。池がある。石がある。御屋形様が好んで眺めた庭だった。今夜も同じ庭だった。しかし、誰かと同じ景色を見ているわけではなかった。


 一人だった。


 景勝は、昼間に書きつけた紙を取り出した。名の連なりだった。東に置ける者、どちらとも言えぬ者。一人ひとりの名の下に、短く印がついていた。印のない名もあった。


 数は、少なかった。


 少ない中で、何ができるかを考えるしかなかった。


 風が来た。梅の枝が揺れた。花びらが一枚、宙に浮いた。池の水面に落ちた。波紋が広がった。静かに、真円に広がった。波紋が端まで行くと、消えた。


 景勝は、紙を畳んだ。懐にしまった。縁側から、部屋の中へ戻った。


 夜になった。


 城門の前に、荷車が並んでいた。炭問屋、米商人、塩問屋、薪売り。いつもの顔ぶれだった。しかし門番の顔が、いつもと違った。


「御朱印の改定まで、一切の納品を禁ずる」


 先頭の炭問屋の老人が、荷車を引いた。炭の重さとは別の重さが、腕にかかった気がした。後ろの荷車が、一台ずつ続いた。城門の前から、荷が、人が、灯りが、消えていった。


 春日山の夜が、静かに深くなっていった。


 景勝の部屋に、行灯が一つ灯っていた。


 机の上に、書状の束がある。朝から動かしていなかった。春の普請、関所の通行改め、塩の回漕、信濃口の兵糧。その後ろに、今日届いた未決裁の書状がさらに重なっていた。返事を待っている者たちが、越後のどこかにいる。


 信綱が、障子の外で声をかけた。


「景虎殿より、書状が参りました。御目通りを、文にてお願いしたい、とのことにございます」


 景勝は、すぐには答えなかった。


「入れ」


 信綱が障子を開けた。手に、一通の書状を持っていた。景勝は受け取った。開かなかった。しばらく、その重さを手の中で感じた。薄い紙の、わずかな重さだった。


「箱の、横に置け」


 信綱は、朴の木の箱の横に、書状をそっと置いた。


 信綱が下がった。


 一人になった部屋で、景勝は文机に向かった。


 懐から紙を取り出した。昼間に書きつけた、名の連なりだった。行灯の灯りの下で広げ、余白に一行だけ書き加えた。


「明朝、東の間にて評定」


 書き終えると、筆を置いた。紙を、机の上に、開いたまま置いた。


 机の上には、朴の木の箱がある。その横に、景虎からの書状がある。書状の束がある。


 箱に手をかけなかった。書状を取らなかった。


 夜半過ぎ、信綱が一度だけ来た。


「申し上げます。西の曲輪より、人が出ております」


「何人だ」


「四人。景虎殿の近習にございます。城下へ向かいました」


「どこへ向かったか、分かるか」


 信綱は、一拍置いた。


「柿崎の屋敷へ向かったと、城門の者が見ております」


 景勝は、その言葉を受け取った。柿崎。柿崎晴家は、東でも西でもない。どちらとも言えぬ者の中で、最も重い名だった。景虎の近習が、夜中に柿崎の門を叩いた。


「引き続き、見ておけ。柿崎の屋敷から出た者があれば、すぐに知らせよ」


「御意」


 信綱が下がった。


 景勝は、机の上の紙を見た。「明朝、東の間にて評定」と書かれた一行が、行灯の灯りの中にあった。


 紙の上には名が並んでいた。


 千坂景親。河田長親。狩野秀治。そして柿崎晴家。


 晴家の名には、まだ印がなかった。


 来るかもしれぬ。来ないかもしれぬ。


 明日の朝には、誰がこちらを向き、誰が背を向けるか。それだけは分かる。


 西の曲輪の灯は、まだ消えていなかった。

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