第百三十一話:知命崩壊
第百三十一話:知命崩壊
天正六年三月二十二日。
甲斐の躑躅ヶ崎館には、山を割る雪解けの水音をどこかに残した、冷たい川風が吹き込んでいた。春はまだ、山の向こうで踏みとどまっている。軒先の雪がようやく融け始めたばかりで、庭石の苔はまだ白く縁取られ、水を吸った土の匂いだけが、微かに室内まで漂ってきた。
武田勝頼は、文台の上に広げられた書物を前に、じっと動かずにいた。
信濃国境の関所から届いた関所改めの日記。宿場ごとの伝馬の定め書き。勘定衆が書き連ねた江尻湊の相場高。帳面の束は、文台の左右にまで溢れていた。一枚一枚、勝頼は目を通してきた。数字を追いながら、その向こうにある何かを、ずっと探し続けていた。
勝頼の太い指の腹が、一行をなぞった。
直江津の荷、青苧百束、江尻湊にて値一割五分高。
指が、ぴたりと止まる。
(……遅い。いや、早すぎるのか)
数字は確かに動いている。越後の何かが、滲み出している。だが、この手触りが引っかかる。知っているはずの変化の重さと、目の前の数字の重さが、わずかに、しかし決定的に違う。
指を止めたまま、勝頼は隣の帳面へ目を移した。信濃の宿場から届いた伝馬の記録。先月と比べて、北へ向かう荷の数が減っていた。減り方が、緩やかすぎる。戦支度の引き締まり方ではなく、何かを待っているような、息を詰めたような止まり方だった。それが、相場の跳ね方と同じ質感を持っていた。
「……勝頼様」
声は、障子の影からではない。陽の届かぬ板敷きの暗がり、室内の影そのものが形を成すようにして、真田昌幸がじり、と膝を進めてきた。
「そろそろ始まるのでございますか」
勝頼は顔を上げなかった。
「何が始まるというのか」
「勝頼様の目が、ここしばらく、常に北を見ておられます」
それだけだった。昌幸は、それ以上を語らなかった。
北を見ていた。その指摘は、勝頼自身にも自覚のないことだった。意識して見ていたのではない。ただ、目が勝手にそちらへ向いていたのだろう。
「……数字が、小綺麗に過ぎる」
「小綺麗、にございますか」
「直江津の荷が止まり、関所の改めが厳しくなっている。それだけなら、ただの戦支度であろう。だが、相場の跳ね方が、戦支度の跳ね方ではない。内側で何かが決まっていて、その余波だけが外へ滲み出ているような跳ね方だ」
昌幸は、すぐには答えなかった。代わりに、懐から数枚の紙を取り出し、文台の脇にそっと並べた。乱破が拾ってきた報せの控えである。紙の端が、わずかに擦り切れていた。
「越後の関所を抜けようとした商人が、三日のうちに二度、引き返されたとの由」
「二度」
「はい。一度目は荷改めの厳しさゆえ。二度目は、関所そのものが、理由も告げずに通行を止めたと」
勝頼の眉が、わずかに寄った。
(理由も告げずに、止める)
しばらく、誰も口を開かなかった。行灯の炎だけが、微かに揺れていた。
「……越後で、何かが起きておるのだな」
「御意。それが何であるかは、まだ分かりませぬ」
昌幸はそう言って、頭を下げた。
庭の方で、雪解けの雫が軒から落ちる音がした。ひとつ、またひとつ。間隔は一定ではなかった。
しばらくの沈黙の後、昌幸が顔を上げた。
「勝頼様。お許しあらば、この昌幸、見えておりますものを、申し上げたく存じます」
「申せ」
「越後一国のみの話では、ございませぬ」
昌幸の声が、わずかに低くなった。
「小田原の北条よりは、ここしばらく、奇妙に慎重な書状が届いております。氏政公は我らに差し障ることを避けておられる。弱さゆえではございませぬ。御屋形様に先手を打たれ続けた警戒でございましょう。水面下で何かを測っておられる、そういう静けさにございます」
「北条が動かぬのは、今に始まったことではない」
「されど、その静けさの向く先が、変わっております。越後の上杉謙信公が万一身を引かれるとなれば、氏政公は必ず動く。その動き方が、以前とは違うやもしれませぬ。関東の佐竹、里見もまた、それぞれに腹を固めております。奥州の蘆名家でも、会津口にて荷の滞りが出始めているとの噂が、ちらほらと届いております」
北条、佐竹、里見、蘆名。それぞれの名が、一枚の絵図の上で位置を変えていく。一つが動けば、隣が動く。その連鎖の音が、まだ聞こえないところで、すでに始まっているのかもしれない。
「そして」
昌幸は、一度言葉を切った。
「西の動きも、無関係ではございますまい。我ら武田が北に目を奪われている間、誰かが得をする。勝頼様はすでに、そのことをお感じではございませぬか」
(この跳ね方は、北条のものでも、蘆名のものでもない。だが、誰の手によるものかは、まだ見えぬ)
「昌幸。お主の見立てでは、誰が得をする」
「申し上げにくきことながら、西の織田にございます。我ら武田が北へ目を向け兵を出せば、西への備えは薄れる。越後が燃えれば、北条も佐竹も里見も動く。東国が丸ごと疲れ果てるまで、織田は指一本動かさずに待てる。この数字の跳ね方、誰かが仕掛けたものとすれば、その者は東国の外から眺めている者にございます」
勝頼は、しばし黙った。
「……兵は、まだ出さぬ。荷の動きを見る。関所の改めも、商人の行き来も、すべて拾え。分かるまでは、何も決めぬ」
「御意」
ここで昌幸は、すぐには下がらなかった。わずかな間があった。
「勝頼様」
「何だ」
「備えは、整っております」
勝頼の指が、帳面の上で止まった。
「……そうだな」
「盛信様への文も、海津城への兵糧も、善光寺平への米の集積も。景勝公、景虎公、双方への使者の準備も」
「分かっておる」
「何に備えておるのでございましょうな」
勝頼は、顔を上げなかった。
昌幸の声に、責める色はなかった。問う色も、薄かった。ただ、言葉だけがそこに置かれた。静かに、しかし確かに。
「勝頼様の知る御館に、でございますか」
返答は、なかった。
昌幸は深く頭を下げ、影の中へ下がっていった。廊下を遠ざかるその足音が、やがて聞こえなくなった。
残された奥書院で、勝頼は独り、文台の上の扣を見つめていた。
障子の外で、風がひとつ唸り、板戸がかすかに鳴った。行灯の炎が揺れ、文台の上に伸びた勝頼自身の影が、ゆらりと歪んだ。
ふと、指先が止まった。
その一行のすぐ脇に、別の帳面の控えが重なっていた。盛信への書状の写し。海津城への兵糧の手配。善光寺平に積んだ米の数。景勝への使者の名。景虎への使者の名。全部、そこにあった。
全部、整えてきた。
だが昌幸の問いが、まだ耳の奥に残っていた。
勝頼様の知る御館に、でございますか。
勝頼は、そこで初めて、己の中へその問いをまともに向けた。
(俺は、いつ謙信が死ぬと知っていた)
三月か。四月か。確かに春だったはずだ。月まではある。だが日は。何日かを、確かに知っていたのか。思い出そうとすると、霧がかかる。霧の向こうに数字があるはずなのに、手を伸ばすたびに遠ざかる。
三月二十二日の今日、直江津の荷がこれほど動いているなら、もう起きているのかもしれない。あるいは、まだかもしれない。どちらかを確かめる術が、今の自分にはない。
知らない。
その二文字が、じわりと腹の底に落ちた。
謙信がいつ死ぬか、知らない。
ずっと知っていると思っていた。この生のどこかで、その日付は必ず来る。来たら動く。そう思い続けてきた。だが今この瞬間、その日付がどこにあるのか、もう指せなかった。
指せない。それはただ記憶が曖昧になったということではないかもしれない。この世の謙信が、前世の謙信と、同じ日に死ぬとは限らない。勝頼がここまで変えてきた。北の地を揺るがす戦を変え、信濃の国境を変え、越後への圧の掛かり方を変えた。その全ての変化が、謙信という一人の人間に積もっていないと、なぜ言えるのか。寿命とは、そういうものではないかもしれない。戦場の疲れが一日を削り、心労が一月を削り、あるいは逆に、安堵が一年を与えることもある。謙信が死んだはずの日に、今世の謙信も死ぬとは、誰にも言えない。
ならば。
(御館は、いつ始まる)
謙信が死んで、程なく火が付くはずだった。景勝と景虎が割れ、越後が燃える。その「程なく」が、何日だったか。何月だったか。それもまた、霧の中にある。
勝頼は、善光寺平の米の数を記した帳面に、もう一度目を落とした。この米は、御館の乱が長引いた時のために積んだ。御館の乱の長さを基準に、量を決めた。
だが、前世の御館がいつ終わったかを、今、正確に言えるか。
言えなかった。
天正七年の春だったか、夏だったか。景虎が追い詰められたのはいつだったか。北条が兵を退いたのはいつだったか。同様に、ひとつひとつが起こるとは思えなくなってきていた。知っていると思っていたものは、もはや確かめる術もなく、形を失った。
(俺は、御館を知っているのか)
知っていると思っていた。
だが、「知っている」と「知っていると思っている」は、違う。
設楽原で勝ったあの日から、武田は勝頼が生きた武田ではなくなった。国が変われば、その国が引き起こす波紋も変わる。北条の動き方が変わり、越後への圧の掛かり方が変わり、景虎が受ける援けの重さが変わる。その全てが変わった乱が、前世の乱と同じ形で始まり、同じ長さで燃え、同じ場所で終わると、なぜ思えるのか。
思えない。
勝頼の指先が、わずかに震えた。
御館の先を、辿った。前は、乱の後に武田の外交が躓いた。信長との間合いが縮まった。それが最後の道に繋がった。天目山に続く道に。
だが今、その道の最初の一歩が、すでに違う場所にある。
違う場所から始まった道が、どこへ続くのか。
再び天目山へ続くのか。あるいは、別の場所へ続くのか。それを知る術が、もうない。
燃える木々が、脳裏をよぎった。裂ける旗。舞い上がる煙。山を包む炎。大切な者たちにあれを見せたくない。それだけが、この生の全ての根にある。だが「あれ」に至る道が、過去の地図には描かれていても、今世の地図には描かれていないとすれば。
あるいは、今世の地図には、もっと近い場所に描かれているとすれば。
そこで、勝頼の思考がひとつ、大きく揺れた。
信長がどうなるか。
武田が設楽原で破った後、信長がどこへ向かうのか、勝頼は知らない。一度目の生では自分は敗れ天目山で死んだ。その後のことも、何も知らない。信長が天下を取ったのか。誰かが信長を倒すのか。信長がどう動くかなど何も知らない。
それは最初から知らなかったことだ。だが今この瞬間、その「知らない」がこれほど重く感じたことは、なかった。
過去に生きた記憶を持ったまま、この生に戻った時、勝頼は自分が地図を持っていると思っていた。どこに罠があるか、どこへ行けば滅びるか、どこを避ければ生き延びられるか、その地図を。
だが今、手の中を見ると、地図はなかった。
最初から、なかったのかもしれない。あったのは、一本の道の記憶だけだ。その道はもう、どこにも続いていない。設楽原で勝った瞬間に、道は途切れた。途切れた道の先を、勝頼はずっと、あるものとして歩いてきた。
ずっと、あると思っていた。
設楽原で勝ったその日の夜、勝頼はこの先を何度も頭の中で辿った。謙信が死ぬ。御館が燃える。景勝が立つ。その後に武田は何をするか。そこまで描ける気がしていた。描けると思うことが、この生を生き直し、天命に逆らう意味だと思っていた。だが今夜、帳面の数字を前にして、ようやく分かった。描いていたのは、前世の絵だった。今世の絵を、一度も描いていなかった。
では何を見る。
勝頼は、文台の上に視線を戻した。
直江津の荷。青苧の値。関所の改め。商人の足跡。宿場の伝馬。江尻湊の問屋。盛信への書状。善光寺平の米。景勝への使者。景虎への使者。
これだけが、ある。
過去の道ではない。今日この手で拾い上げた数字と、今ここにいる人間だけが、この先を照らす。地図が燃えた後に残るのは、それだけだ。
怖くないとは言えなかった。手がかりのない道を歩くことの怖さを、勝頼は知っていた。三国志の時代を生きた生においても、手がかりなどなかった。最善を目指して、そして国を治めるに至った。あの感覚が、今ここに戻ってきている。今の自分には、足の下に地面がある。踏みしめた時に返ってくる感触がある。それだけで、今は十分だと、勝頼は思おうとした。思えるかどうかは、分からなかった。
勝頼は、ゆっくりと帳面を閉じた。
バシ、と紙が合わさる音が、静まった空気に小さく響いた。
「……違うな」
誰に向けたものでもなかった。
行灯の炎が、もう一度、小さく揺れた。
雪解けの水音が、まだ遠くで続いていた。




