第百三十話:無限文書
第百三十話:無限文書
景勝が「奥へ、案内せよ」と告げてから、まだ間もなかった。信綱は頭を下げたまま立ち上がり、その背中を追って廊下へ出た。「景虎を、どうするのだ」という問いは、まだ誰の口からも、答えを得ていなかった。
御屋形様の寝所へと続く廊下は、沈香や白檀の煙が隅々にまで淀み、白い靄のようになって漂っていた。その香りは甘く、しかしどこか重く、肺の奥に絡みつくような質感を持っていた。歩を進めるたびに、その香りの濃度が増していくように感じられた。その煙の向こうに、御屋形様の部屋の障子があった。
障子の手前で、景勝は一瞬足を止めた。その一瞬は、傍らに控える信綱の目にも、はっきりと映った。しかしそれは、ほんの一瞬のことであり、景勝はすぐにまた歩を進めた。
景勝が障子を開け、室内に入った。布団の上に、一人の男が横たわっていた。顔には白布がかけられている。組まれた手の甲には、青い筋が幾本も浮いていた。香炉から紫煙が立ち上り、蝋燭の炎がその煙をゆるやかに揺らしていた。
部屋の中の空気は、外の廊下よりもさらに冷えていた。その冷気は、ただ季節によるものだけではなく、この部屋に横たわる存在そのものから発せられているように、信綱には感じられた。
景勝は遺骸の前に歩み寄り、静かに膝を突いた。白布は上げなかった。
その布の下に隠された顔を見ることを、景勝が望んでいなかったのか、あるいはあえて見ないことを選んだのか、信綱には判じられなかった。ただ、景勝の視線は、白布の輪郭をなぞるように、しばらくの間そこに留まっていた。
その「しばらく」は、信綱が思っていたよりも長く続いた。傍らに控える信綱は、その時間の長さを数えようとしたが、途中でやめた。数えることに意味がないと感じたからではなく、数えることそのものが、この場には不釣り合いに思われたからだった。
傍らの三具足から線香を取り、火をつけた。香煙がまっすぐに天井へと昇っていく。やがてそれが天井の木目に触れ、四方へ散り、見えなくなった。景勝はしばらく、その煙の跡を見ていた。
煙が完全に消えるまでの時間は、決して長いものではなかった。しかし景勝にとっては、その短い時間こそが、これまでの五日間、いや、それ以前のすべての歳月を振り返るための、唯一与えられた時間であったのかもしれなかった。
景勝はその間、一言も発しなかった。手も動かさなかった。膝の位置も変えなかった。ただ、香の煙が昇り、散り、消えていくのを、最後の一筋まで見届けた。その姿勢を保ち続けること自体が、何かを語っているように、信綱には感じられた。何を語っているのかは、分からなかった。
それから、立ち上がった。
廊下に控えていた信綱には、景勝が部屋へ入ってきた時の顔が、思い出せなかった。出てきた時の顔と、入っていった時の顔との間に、何か違いがあったのかどうか、それさえも判別できなかった。ただ、その背中だけが、わずかに、これまでよりも重いものを背負っているように見えた。それが実際の重さの変化であったのか、それとも信綱自身の心がそう見せていたのかは、誰にも分からないことだった。
視線を脇机へ戻した。
答えの出ない問いは、答えの出る問いに紛れて、机の上にそのまま残っていた。動かせるものから、動かしていくしかなかった。
最上段から一枚取り上げる。謙信の花押が押された偽りの命令書の控えだ。脇へ置く。この五日間、何枚も書き続けてきた偽筆の控えは、もはや一つの山となっていた。国人衆への返書の下書き。脇へ置く。前線への補給指示書。葬儀の準備に関する覚書。
また一枚。景虎への書状の下書き――白紙だった。信綱はその白紙を見た。何度も筆を執ろうとし、何度も筆を置いた跡が、紙の端にわずかな墨の染みとして残っていた。書くべき言葉がなかったわけではない。むしろ、書くべき言葉が多すぎて、そのどれもが正しくないように思われたのだった。
信綱はその白紙を、脇へ置こうとした手を、途中で止めた。他のすべての控えは、決裁が済めば文箱の中へ収まり、視界から消えていく。この一枚だけが、そうならなかった。脇へ置いても、机の端でも、文箱の縁でも、その白さは妙に目に留まり続けた。結局、信綱はそれを他の控えの下に差し込んだ。見えなくなれば、いくらか楽になるはずだった。実際には、下に何があるかを知っているという、それだけのことが、紙の山全体の重さを変えていた。
廊下の向こうから、小姓の足音が近づいてきた。
書状はそれから、途切れることなく続いた。加賀方面からの兵糧の追加割り当て。春耕の遅れと種籾の手配。信濃の砦からの人員補充――病三人、雪崩で二人。揚北の寺社からの年貢猶予の願い。関所の徴収の滞り。越後湊の塩の荷揚げの支障。いずれも文面は簡潔で、事務的だった。書き手たちは、まだ何も知らない。知らないままに、これまでと同じ調子で、数を求め、猶予を願い、不平を述べていた。御屋形様が世を去ったことなど知らぬまま、越後の片隅で、それぞれの人々が、それぞれの日常を生きていた。信綱はその一通一通に、算盤を弾き、帳面を繰り、筆を走らせた。
小姓が盆を差し出した。封には坂戸城代の印があった。春先の普請についての伺いだった。崩れた土塁の修復に人足を何人回すべきか。算盤を弾いた。帳面を開いた。人足三十、と脇に記した。
その小姓が下がり、再び現れるまでの間に、どれほどの時が経ったのか、信綱には測れなかった。小姓は最初、盆を恭しく両手で支え、目を伏せて部屋に入ってきた。その所作は、五日前と何ら変わらなかった。しかし二度目に現れたとき、その足取りには、わずかな弛みが見え始めていた。三度目には、盆を片手で持ち、もう片方の手で襖を開けていた。四度目には、もはや恭しさよりも、ただ務めを果たすことだけが残った所作になっていた。同じ動作が、繰り返されるごとに、少しずつ、その意味を失っていくように見えた。
柿崎筋からの橋脚の傾き。城下の商人からの代銀の問い合わせ。文箱を開き、控えを探し、紙紐をほどき、また結ぶ。指先が、その感触をなぞるように何度も同じ動きを繰り返した。返書を書いた。
蝋燭の蝋が机に落ちた。指で払い落とした。蝋は既に冷え固まり、皮膚に貼りつくような感触を残した。
書状はまだあった。封を切り、算盤を弾き、筆を走らせ、墨を継いだ。一通、また一通。書状の山は減ることなく、減ったかと思えば、また新たな書状が積み上げられていった。文箱の隅に積まれた処理済みの控えは、見た目には確かに増えていた。だが、未処理の山と並べてみれば、その増え方は、ほとんど誤差のようなものであった。信綱はあるとき、両方の山を見比べ、どちらがどちらであったか、一瞬分からなくなった。
蝋燭が一本、燃え尽きた。信綱は新しい蝋燭へ火を移した。その火を移す手は、わずかに震えていたが、それを気にする余裕は、もはや信綱には残されていなかった。
小姓が、また書状を置いた。
信綱は手を伸ばした。封を切った。
廊下の向こうで、また足音が近づいてくる。
筆を取った。
頸城郡の代官から。雪解け後の道普請に関する人足割り当ての伺いだった。算盤を弾いた。帳面を開いた。脇に数を記した。
また足音。小姓の足音とは違う、もっと軽い足音だった。誰かが廊下を通り過ぎただけのようだった。信綱は顔を上げなかった。それが何者の足音であるかを判じることに、もはや意味を見出していなかった。足音は、ただ城の中に人がいるということだけを伝える音になっていた。
古志郡の郷士から。境界争いについての訴状だった。いつ始まったとも知れない、田の畔をめぐる争いの続きであった。過去の裁定の控えを文箱の底から探し出し、脇へ置いた。
墨が乾いた。硯に水を差した。墨を磨った。その円を描く動きを、何度も繰り返した。墨の匂いが、いつもよりも強く鼻の奥に残るように感じられた。墨を磨るという、それだけの所作が、いつの間にか、書状を処理するという行為そのものよりも、長い時間を占めるようになっていた。
蒲原郡の堤普請について。雪解け水の出方が例年より早く、堤の弱い箇所を補強したいという伺いだった。算盤を弾いた。人足の数を記した。
指先に、かすかな痺れがあった。信綱はそれを一度握り、開いた。痺れは消えなかった。もう一度握った。それから、また筆を取った。
廊下の向こうから、また足音が近づいてきた。それが誰の足音であるのか、信綱はもう確かめようとはしなかった。足音はただの足音として、近づき、通り過ぎ、また遠ざかっていった。
小千谷の宿の備え。三条の鍛冶衆からの槍先の納入数。与板の普請の進捗報告。一つずつ、控えと照らし合わせ、数を確かめ、脇へ置いていった。
遠くで、鳥の声がした。一声、二声。それきり、聞こえなくなった。信綱はその声に気づいたのかどうかも分からないまま、次の書状に手を伸ばしていた。その声が朝のものであったのか、それとももう昼を過ぎていたのか、信綱には判断のしようがなかった。窓の外の光の角度を確かめる気力すら、もはや残されていなかった。
蝋燭が、また燃え尽きた。信綱は新しい蝋燭を据え、火を移した。先刻取り替えたはずだった。それがいつであったか、思い出そうとしたが、思い出せなかった。蝋の減り方が、以前よりも早くなっているのか、それとも自分が時の感覚を失っているだけなのか、判じることができなかった。
柏崎の問屋から。荷の積み出しについての確認だった。算盤を弾いた。指が珠の上で一度滑った。弾き直す気力はなかった。出した数字を、そのまま帳面に記した。
信濃口の物見から。雪の状況についての報告だった。脇へ置いた。
目の前の文字が、一瞬、輪郭を失って滲んだ。信綱は瞬きを二度した。輪郭が戻った。筆を握る手に、改めて力を込めた。
また蝋燭が傾いていた。さきほど据えたばかりのはずだった。芯の長さを見れば、それほどの時が経っていないことは分かった。それでも、燃え方が速くなっているように感じられてならなかった。信綱は灯心を切らずにそのままにした。火を見ている時間さえ、惜しかった。
頸城郡からの追書きが届いた。先刻決めた人足の数について、誤りがあったという。信綱は帳面を開いた。三十、と記したはずの箇所に、四十と書かれていた。いつ書き換えたのか、覚えがなかった。記した本人が、自分の書いた数字を信じられないまま、しばらくその文字を見つめていた。結局、訂正はしなかった。すでに使者へ渡してしまった指示書を取り戻す手立てはなく、また、四十であっても、さほど大きな違いとは思われなかった。違いとは思われなかった、と思うこと自体が、五日前の自分であれば、しなかったはずの判断だった。
また足音が近づいてきた。今度のそれは、これまでのどの足音とも違っていた。一歩ごとの間が、いくらか速い。信綱は筆を止めた。長親か、秀綱か、あるいは別の誰かか――この五日の間に覚え込んだ足音のどれにも当てはまらなかった。それだけのことで、信綱の手のひらに、新たな汗が浮いた。足音は、しかし障子の手前で止まり、何も告げずに、また遠ざかっていった。信綱は、しばらく筆を持ったまま、動かなかった。
柏崎からの書状の控えに、誤りがあるかもしれない。信綱はふと、その懸念を覚えた。先刻、珠を弾き直さずに記した数字だった。確かめるために帳面を繰る手を、半ばまで伸ばした。そこで止めた。確かめて誤りが見つかれば、もう一度すべてを書き直さねばならない。確かめなければ、それは誤りのまま処理済みの山へ収まる。信綱は手を引いた。確かめなかった。正しさよりも、この一通を片付けることの方が、今は重かった。
与板の控えの下から、白い紙の端が見えた。景虎への書状の下書きだった。いつの間にか、他の控えの隙間から、その白さがまた顔を出していた。信綱はそれを見た。一瞬、筆を執ろうかと思った。すぐにその考えを置いた。今この瞬間に書いたところで、書けるはずがなかった。
小姓が、決裁を終えた控えを文箱へ運ぶ番であった。信綱は脇に積んだ山を、まとめて押し出すように小姓の盆へ移した。早く渡してしまいたかった。それだけのことだった。小姓は一礼し、盆を受け取り、下がっていった。
その盆の上に、白紙が紛れていたことに、信綱は気づかなかった。景虎への書状の下書きは、いつの間にか、他の決裁済みの控えと同じ束の中に重なり、同じ手つきで持ち上げられ、同じ足音と共に、廊下の向こうへ運ばれていった。それが処理済みの控えとして文箱の奥に納められるのか、それとも反故として焼かれる紙の山に混じってしまうのか、信綱には知る術がなかった。確かめようとする気力も、もはやなかった。
しばらくしてから、信綱はようやくそのことに思い至った。脇机の上を見回した。白い紙の端は、もうどこにも見えなかった。一瞬、手を止めた。取り戻すべきかと考えた。だが、どの束に紛れたのかも、誰がそれを運んだのかも、もはや判じようがなかった。信綱は、その不在を、しばらく見つめていた。
それから、次の書状に手を伸ばした。確かめることをやめた。確かめなかったことを、誰にも告げなかった。
また小姓が書状を置いた。その音だけで、もう何通目であるのかを数えることを、信綱はやめていた。数えても、減ってはいかなかった。減らないということ自体が、もはやこの仕事の本質であるように思われた。終わらせるための作業ではなく、終わらないことを保つための作業であった。
封を切った。
廊下の向こうで、また足音が近づいてくる。
筆を取った。
景虎への書状は、まだ一枚も、書かれていなかった。




