第百二十九話:沈黙継承
第百二十九話:沈黙継承
天正六年三月十四日、朝。
春日山城を包む光は、あまりにも白く、そしてどこまでも平坦であった。山の端から這い上がってきた陽光が、板敷きの廊下に細長い四角形を描き出している。雪解けの季節を迎えた越後の空気は水分を孕んで重く、冷気が肌にねっとりとまとわりついていた。息を吸うたびに、その湿った冷気が肺の奥にまで染み込み、身体の芯から冷やしていくようだった。
それが朝の光であることは、誰の目にも明らかだった。しかし、その明らかさが、なぜかこの一室の中では機能していなかった。夜が明けたのか、まだ夜の延長であるのか、室内に詰める者たちの誰一人として、確信を持って答えられなかった。五日前から、そうだった。
城の奥深く、重臣たちが詰める一室に、五日分の行灯が並んでいた。油の切れたものから順に黒く沈んでいる。誰も片付けていなかった。芯の焦げた臭いが、室内に薄く漂い続けていた。畳の目には、幾日も同じ場所に座り続けた者たちの体温の名残のようなものが、わずかに残っているように思われた。
直江信綱は、自身の両膝を見つめたまま、微動だにしていなかった。直垂の肩には数日来の汗と埃が固まり、不自然な皺を作っている。目の下には、どす黒い隈が炭を擦りつけたかのように刻まれていた。瞼は重く、何度も落ちかけては、その都度かろうじて引き上げられた。眼球の奥が痛んだ。それでも閉じることは許されなかった。閉じれば、この五日間に積み上げてきたものすべてが、瞬時に崩れ落ちてしまうような気がしたからだ。
「……夜が、明けましたな」
掠れた声を絞り出したのは、河田長親であった。脇机に突いた肘で辛うじて身体を支え、その指先はかすかに震えている。彼の前に置かれた青苧の出納帳は、昨夜から一枚も捲られていない。墨の乾ききった筆が、硯の縁に転がったままになっていた。長親の声は、誰に向けたものでもなかった。ただ、夜が明けたという事実そのものを、自分自身に確かめさせるために発せられたものだった。
誰も、それに応じなかった。長い間が空いた。
「明けたな」
本庄秀綱が、ただ事実を吐き出すように呟いた。それだけだった。目は赤く充血し、眼球の隅々にまで赤い筋が走っている。机の上の木札を無造作に掴み、またそれを落とした。乾いた音が、室内の異常な静寂を小さく叩き割った。秀綱はその音の余韻が消えていくのを、ぼんやりと聞いていた。何かを言うべきだという感覚はあったが、言葉そのものが、どこかへ行ってしまったかのようだった。
長親も、信綱も、それに続けて何かを言おうとはしなかった。沈黙が、また室内に戻ってきた。それは間というよりも、もはや一つの状態であった。三人はその状態の中に、それぞれ別の姿勢で、しかし等しく沈み込んでいた。
「……景勝様を、お呼びした」
信綱が、乾いた唇を動かした。「景勝様を、この部屋へお呼びするようにと、小姓に伝えた」
長親と秀綱は、何も言わなかった。沈黙が、肯定の代わりに室内に沈殿した。三人の間には、もはや確認すべき言葉も、相談すべき手順も残されていなかった。すでに語り尽くし、すでに決め尽くしていた。残っているのは、ただその決定を実行に移す瞬間を待つことだけだった。
その「待つ」という時間が、どれほどの長さであったのか、誰にも測れなかった。長親は幾度か脇机の上の帳面に視線を落としたが、文字を読んではいなかった。秀綱は、落とした木札をもう一度拾い上げ、机の上に置き直した。それだけの動作に、不自然なほどの時間を要した。信綱は、自身の膝の上に置いた両手の甲を見つめていた。そこに浮いた青白い筋を、数えるように目で追っていた。
小姓が景勝を呼びに向かってから、どれほどの時間が経ったのだろうか。廊下は果てしなく長く、静まり返っていた。幾重にも折れ曲がった廊下は足音を吸い込むように作られているが、この静寂の中では、かすかな風の鳴る音さえもが誰かの忍び足のように聞こえた。遠くで、雪解け水が樋を伝って地面に落ちる規則正しい音が響いていた。
――ト、ン。――ト、ン。
その音は、まるで時を刻む何かのように、室内の三人の耳に等しく届いていた。信綱は、その単調な音に意識を委ねることで、かろうじて自身の動揺を押し殺していた。長親は、その音の合間に何度も瞬きを繰り返していた。秀綱は、ただ虚空の一点を見つめたまま、何も考えていないようでもあり、すべてを考え尽くしているようでもあった。
幾度か、廊下の遠くで足音らしきものが聞こえた。そのたびに三人の肩がわずかに動いた。しかし、足音は近づくことなく、やがて消えた。小姓のものではなかった。誰のものであったのかも、分からなかった。城の中で立ち働く誰かが、ただこの部屋とは無関係に、廊下のどこかを通り過ぎていったに過ぎなかった。それだけのことに、三人は幾度も気を取られた。
やがて、廊下の向こうから近づいてくる足音が聞こえた。衣擦れの音はない。一歩、一歩、確実に対象を踏みしめる重い足音。足袋が板敷きを擦るその独特の音だけで、三人はそれが誰であるかを察した。その足音には、迷いも逡巡もなかった。ただ、定められた目的地へ向かう者の、確かな歩みがあるだけだった。
景勝が、部屋の障子を開けた。
鈍色の直垂を端正に着こなし、背筋はまっすぐに伸びている。口元は固く結ばれ、やや細い目が、室内の三人の顔を順番にゆっくりと見つめた。消えかけた行灯を見た。積み上げられた文箱を見た。硯の縁に転がった筆を見た。それから、また三人の顔を見た。その視線の動きには、何かを咎める色も、何かを問う色もなかった。ただ、目の前にある光景のすべてを、静かに、しかし正確に、自身の中へ取り込んでいくような視線であった。
何も言わず、上座と下座の中間に、どっしりと腰を下ろした。その所作には一切の迷いがなく、まるで以前から幾度となく繰り返してきたかのような自然さがあった。
誰も口を開かなかった。景勝も、急いで言葉を発しようとはしなかった。その沈黙は、これまでの三人の間にあった沈黙とは、明らかに質を異にしていた。促されるべきものを促されるままに待つという、ただそれだけの静けさが、しばらく室内を占めた。
信綱は深く頭を下げた。畳に額を擦りつけるその姿勢のまま、喉の奥に力を込めた。額に触れる畳の感触が、やけに冷たく感じられた。その冷たさを感じている間も、信綱は次に発するべき言葉を、幾度も口の中で組み直していた。
「景勝様。……恐れながら、申し上げ奉ります」
「申せ」
その声は低く、しかし揺らぎがなかった。
信綱はすぐには続けなかった。一度、唇を結んだ。
「去る、三月九日、未の刻――」
信綱は一度息を吸った。その息が、肺の奥で凍りつくかのように冷たかった。たった一言を発するために、これほどの重さを感じたことが、これまでにあっただろうか。
「御屋形様におかせられましては、不帰の客となられました。……薨去にございます」
景勝は、動かなかった。
その表情に、変化と呼べるものは何一つ生じなかった。瞼の震えも、口元の弛みも、何もなかった。信綱は、その静止した顔を見つめながら、自分が今、何を期待していたのかを自問した。驚愕か、悲嘆か、あるいは安堵か――しかしそのいずれも、景勝の表情の上には現れなかった。
その間、誰も動かなかった。行灯の油が小さく音を立てた。それだけが、室内に流れる時間の存在を証明していた。
信綱は頭を上げた。景勝の瞳は、濁りのない黒水のように、信綱の姿を静かに映し返していた。
「……そうか」
長親が、ゆっくりと顔を上げた。秀綱の喉が、小さく鳴った。
長親は口を開いた。乾いた喉から声を押し出すのに、いくらかの時間を要した。
「長尾様。御屋形様のご最期は、いささかも苦しまれる様子はなく……。されど、我ら実務を預かる者の不調法により、今日まで五日間、その崩御を秘匿いたしておりました。他国への漏洩を防ぐため、やむを得ぬ処置にございました。何卒、ご容赦を……」
長親の声は、最後に向かうにつれて細くなっていった。それは、容赦を求める言葉でありながら、同時に、自身に対する弁明でもあった。
景勝はすぐには答えなかった。その沈黙は、これまでのものより、わずかに長かった。長親はその間、視線を上げたまま、景勝の返答を待ち続けた。秀綱は、机の縁に置いた自身の指先を、見るともなく見ていた。信綱は、自分の心音が、やけにはっきりと耳の奥で響いているのを感じていた。
「咎めては、おらぬ」
景勝が、長親の言葉を遮った。「五日の秘匿、至当の処置だ」
自身の大きな手を、じっと見つめた。その手は、几帳面に整えられた爪を持ち、節の太い、武人の手であった。
「……よく、保った」
その一言が、室内に沈んだ。秀綱は奥歯をきつく噛み、視線を床へと落とした。長親の肩から、わずかに力が抜けていくのが見えた。それは安堵というほどのものではなく、ただ、これまで背負い続けてきた重みの一部が、ようやく誰かに認められたことによる、わずかな弛緩であった。
「これよりの差配について、ご指示を仰ぎたく存じます」と信綱は続けた。「奥は、封じております。陣触れは、今日も出し続けております。景虎様には……まだ申し上げておりませぬ」
その名を口にした瞬間、室内の空気がわずかに変わった。誰の目にも見えるものではなかったが、確かに何かが変わった。
景勝は何も言わなかった。
その沈黙は、それまでのどの沈黙とも違っていた。信綱は、それが終わるのを待った。長親も待った。秀綱も待った。しかし、その沈黙は、終わる気配を見せなかった。景勝の視線は、誰の顔にも留まらず、ただ机の一点に向けられたまま、動かなかった。行灯の灯がわずかに揺れた。誰かが息を吸う音が、はっきりと聞こえた。それが誰のものであったのか、後になっても信綱には判然としなかった。
その沈黙の長さに、信綱は不意に、自身の指先が冷えていることに気づいた。寒さのためなのか、それとも別の理由によるものなのか、判別がつかなかった。
「……景虎を、どうするのだ」
その問いは、誰に向けられたものでもなく、ただ室内に投げ出されただけのものだった。答えを求めているのか、それとも答えなど存在しないことを確かめているだけなのか、信綱には判別がつかなかった。
信綱は口を開きかけた。開かなかった。何を言うべきか、考えがまとまらなかった。あるいは、まとまっていたとしても、それを口にする勇気が、今の自分にはなかった。
長親は視線を落とした。行灯の油が小さく鳴った。秀綱の目が、文箱の縁へ向いた。
景勝が信綱を見た。次に長親を見た。次に秀綱を見た。その視線の往復は、ゆっくりとしたものでありながら、三人それぞれの内面を一つ一つ読み取っていくかのような重みを持っていた。
誰も返さなかった。
「……なるほど」
それだけ言った。声に怒りはなく、失望もなく、ただ事実を確認したという、それだけの響きがあった。信綱は返す言葉を失った。その「なるほど」という一言の中に、どれほどの意味が込められていたのか、考えようとしても、考えがまとまらなかった。
秀綱が、脇に積まれていた帳面を景勝の前に滑らせた。「越後、信濃、上野の今期の兵糧備蓄と課役の割り当てにございます」
景勝は帳面を手に取った。その手つきには、慎重さと、すでにある種の覚悟を決めた者の落ち着きが、同時に感じられた。
一頁、めくった。兵糧二千俵。花押。
また一頁。青苧三百束。馬借二十七人。花押。
また一頁。軍役百五十名。信濃への割り当て。花押。
また一頁。上野の課役。年貢の繰り越し。花押。
また一頁。加賀前線への補給。馬十二頭。兵糧五百俵。花押。
また一頁。花押。
また一頁。花押。
最後の一頁。そこには花押がなかった。何も書かれていなかった。誰かが綴じ込みの順を誤ったのか、あるいは他の書類に紛れて束ねられてしまったのか、景勝の手にしているのは、ただの白紙であった。
景勝の手が、止まった。
ページを繰る音だけが、室内に規則的に響いていた。乾いた紙の擦れる音、それだけが、この瞬間の時間の流れを示す唯一の指標であった。信綱は、その音を数えるように聞いていた。十、十一、十二――数えることに何の意味もないと知りながら、それでもそうすることでしか、この時間に耐えられなかった。その数えていた音が、今、止まっていた。
景勝の視線は、その白い頁に留まったまま、動かなかった。信綱は、何かを言うべきかと思った。誤って紛れ込んだものに過ぎない、と説明することもできた。だが、口を開くことができなかった。景勝の視線の重さが、説明を許さなかった。
どれほどの間、その白紙を見ていたのか、信綱には測れなかった。長親も、秀綱も、何も言わなかった。三人とも、景勝の視線がどこに向いているかを知りながら、誰もそれを動かそうとはしなかった。
やがて、景勝はその頁を、他の頁と同じように扱った。指先で挟み、次へ進めた。何も問わなかった。何も記さなかった。ただ、その一枚を見たという事実だけが、室内の空気に残された。
帳面を閉じた。机の上に静かに置いた。その手が、しばらくの間、表紙の上に乗ったままでいた。
その手の下にある帳面の重みを、景勝はどれほどのものとして感じていたのだろうか。一冊の帳面には、越後一国だけでなく、信濃、上野にまで及ぶ、無数の命と暮らしの数字が詰め込まれていた。その数字の一つ一つの背後に、誰かの汗があり、誰かの不安があり、誰かの祈りがあった。
「……父上は」
低い声だった。
「いつから、この綱渡りを続けておられた」
室内が、静まり返った。信綱は口を開こうとした。開けなかった。その問いに答えるためには、これまでの謙信の治世そのものを語らねばならず、そしてそれは、今この場で語り尽くせるものではなかった。
「……奥へ、案内せよ」
景勝が立ち上がった。その動作は、ゆっくりとしたものでありながら、一切の迷いを感じさせなかった。
障子の向こうには、まだ誰も語っていない遺骸が、五日間そのままの姿で待っていた。信綱は頭を下げたまま、その背中を見送った。これから始まるものが、対面という名の何であるのか、まだ誰も知らなかった。




