第百二十八話 越後真空
第百二十八話 越後真空
三月十日の朝は、曇っていた。
雪解けの水は昨夜のうちにさらに流れ出し、春日山の斜面には黒い土がところどころ顔を覗かせている。城の石垣を伝う雫は、昨日よりも少し太くなり、落ちるたびに小さな音を立てた。
風はなかった。鶏の声が、城の外郭の向こうから、かすかに届いた。街道の方から、荷車の音がした。また静かになった。
春は進んでいた。
奥御殿の、その部屋の前には、昨夜から誰も近づいていなかった。
廊下の突き当たりにある一枚の襖が、閉ざされたままそこにある。朝の光が差し込んでも、その一画だけは変わらない。
直江信綱、河田長親、本庄秀綱の三人は、少し離れた隅の板敷きに、声もなく座り込んでいる。三人の顔は一晩で土色に変色していたが、誰も互いの顔を見ようとはしない。誰の視線も、その襖へは向いていなかった。
「御膳を」
信綱が言った。声は掠れ、乾いた砂のようだった。
「いつも通りに」
河田が応じる。それだけだった。
廊下の向こうで、小姓の足音がした。近づいた。止まった。遠ざかった。
長親が、膝の上に置いた両の手を、ただ見ていた。何かを考えていたのか、何も考えていなかったのかは、本人にも分からなかった。
燭台の底で、溶けきった蝋がじわりと平らに固まっていった。
奥御殿に近い渡り廊下に、十五になる小姓の源次郎が立っていた。
今朝の御膳を運んで戻ってきたところだった。炊きたての白飯、汁物、焼き魚。いつもと同じ膳を、いつもと同じように廊下の突き当たりに置いてきた。
返事はなかった。
それは珍しいことではなかった。御屋形様が人払いをなさるときは、返事がないこともある。源次郎はそう教わっていた。
ただ、今朝は少し違う気がした。
何が違うのか、源次郎には言えなかった。音がしないのだ。いつもならば、墨を磨る音か、書状を広げる衣擦れか、何かしら気配がある。しかし今朝の廊下の突き当たりには、何もない。
源次郎は廊下に立ったまま、その方角を見た。閉ざされた襖があるだけだった。
昨日もそうだった。一昨日もそうだった。三日続いている。
しかし源次郎には、それが何を意味するのか分からなかった。御屋形様が深く考え事をされているのだろうと思った。あれほどの御方だ、自分などには及びもつかない大事を胸に抱えておられるのだろうと。
源次郎は廊下を戻った。別の小姓とすれ違った。そちらも黙っていた。源次郎も何も言わなかった。
廊下の角を曲がったとき、ふと振り返った。
突き当たりの襖は、まだ閉まっていた。
源次郎は前を向いて歩いた。
同じ春日山城の、少し離れた別の対屋では、上杉景勝が煤けた木床に正座していた。
目の前には、西への街道、越中から能登へ至る兵糧の割り振りを記した和紙の図面が広がっている。景勝は分厚い指先で、紙の端を静かになぞった。
今度の出陣は、西だ。織田の勢力を叩き潰すための、かつてない大軍の移動になる。
景勝は、図面のなかの「富山」と書かれた文字の横に、小さく墨を点じた。
(ここでの兵糧の滞りは、父上に訊かねばならぬな)
当然の思考だった。今日、あるいは明日、奥御殿へ伺った際にでも一言、お伺いを立てれば済むこと。景勝の顔は、頑ななまでに無表情だった。彼は一寸の疑いもなく、次の瞬間に墨を乾かすため、静かに息を吹きかけた。
外で鳥が鳴いた。
景勝は顔を上げなかった。墨を磨った。図面の別の箇所に、もう一点、印を入れた。考えなければならぬことが、まだいくつかある。今日中に片付けねばならぬ。
三の丸に詰める兵糧奉行の岡田与兵衛は、朝から机の前で動けずにいた。
手元には、来月の出陣に向けた米の集積計画が広げられている。越中・能登・信濃の三方向から春日山へ集める兵糧の数字と、それを運ぶ人足の割り振り。すべて昨日のうちに書き上げた。あとは御裏の裁可を得るだけだった。
しかし御朱印が来ない。
与兵衛は書類を揃え直した。端を折り目に沿って整えた。また広げた。数字を確かめた。間違いはない。ただ、御朱印がなければ動かせない。
「御朱印はまだか」
部下の若い役人に声をかけた。
「昨日からお待ちしておりますが」
「直江様には伝えたか」
「はい。しばらくお待ちを、とのことでした」
与兵衛は頷いた。しばらく待つ。それは分かった。
しかし来月の出陣まで、日数がない。兵糧の集積は時間がかかる。今から動かなければ、間に合わない。
与兵衛は再び書類を見た。数字は正しかった。計画は正しかった。ただ、それを動かす印だけがなかった。
部屋の外を、小姓が小走りに通り過ぎた。与兵衛は顔を上げたが、小姓は止まらなかった。
与兵衛は書類を閉じた。また開いた。閉じた。
二の丸の役所では、いつもと違う音が響いていた。
パチ、パチ。
算盤の音が、途中で不自然に止まる。
「これは、どうする」
若い役人が、一枚の木札を抱えたまま、中年の小頭の前に立った。能登の国人から届いた、関所の通行税に関する伺い書だった。
「いつも通り、御裏へ回せ。御朱印をいただかねば、下へ下ろせん」
「しかし、今朝はまだ、御朱印の入った箱が下りてきておりませぬ」
小頭は眉をひそめ、手元の帳面から顔を上げた。
「直江様が止めておられるのか」
「さあ。ただ、これがないと、次の西行きの陣触れの文面も固まりませぬ」
小頭は、小さく舌打ちをした。
「仕方のない。そこに積んでおけ。じきに下りてくるだろう」
若い役人は、机の端に木札を置いた。そこにはすでに、今朝から届いたまま滞っている、五枚の書類が重なっていた。
その上に、六枚目が乗る。
別の役人が、廊下の角から顔を覗かせた。
「小頭、越中の件も決裁が取れておらぬのですが」
「積んでおけ」
顔が引っ込んだ。
文字の書かれた木と紙の重なりだけが、音もなく、少しずつ高くなっていった。
越中への街道、富山の手前にある小さな関所では、朝から荷が溜まっていた。
越後から越中へ向かう商人が三人、関所の前で足を止めたまま動けずにいた。反物を積んだ馬が二頭。塩樽を載せた荷車が一台。それぞれに荷札がついていたが、通行の印がない。
「御朱印はいつ来る」
商人の一人が番人に訊いた。
「さあ」
「昨日も来なかった」
「さあ」
「一昨日も来なかった」
「さあ」
番人は腕を組んだ。自分も理由を知らなかった。春日山からの指図が止まっている。それだけだった。
「京への約束がある。日取りが」
「さあ」
商人は黙った。馬が鼻を鳴らした。
関所の脇に積まれた荷は、昨日より少し増えていた。どこから来てどこへ行くはずだったかが荷札に書かれていた。しかし今は、どれも動けない。
番人は焚き火の前に戻った。炭が低く燃えていた。
商人たちは関所の前で、それぞれ黙って立っていた。
城下の魚市場では、朝から声が少なかった。
いつもなら夜明け前から荷が入り、鰯、鯛、鱈、それぞれの値がついて威勢のいい声が飛び交う。しかし今朝は、並んでいる魚が少なかった。
魚屋の老爺が、空いた台の前に立っていた。
「能登の鰯が来ねえな」
隣の荷運びに声をかけた。
「港には船がいたぞ」
「じゃあ何で来ねえ」
「知らねえ」
「御朱印か」
「知らねえ」
「上からの指図か」
「知らねえ」
老爺は腕を組んだ。台の上に、地元で揚がった小魚が並んでいるだけだった。
「昨日もそうだった」
「そうだな」
「一昨日もそうだった」
「そうだな」
「御屋形様は何をお考えなんだろうな」
「さあな。だがあの御方のことだ、何か考えがあるんだろ」
老爺は鼻を鳴らした。考えがあるのだろう、とは思った。しかし鰯は来なかった。
市場の隅で、片耳の欠けた犬が座っていた。いつも荷が下りると魚の頭が落ちてくる。犬はそれを待っていた。しかし今朝は何も落ちてこなかった。犬は鼻を動かし、しばらく待ち、それから立ち上がって港の方向へ歩き去った。
直江津の港では、泥の混じった潮の匂いのなか、男たちが立ち尽くしていた。
「おい、本当に降ろすのか」
荷役の若者が、藁の煤けた米俵を抱えたまま、船縁で声を張り上げた。
「降ろせ。蔵に戻すんだ」
波止場に立つ老役人が、手元の帳面を指先で叩く。
「西へ持っていく分だろ。能登の船はもうそこまで来てるんだぞ」
「うるせえ。上からの指図だ。積み込みは一時差し止めだ」
老役人は、それ以上の理由は知らなかった。ただ、春日山からの命令が書き換わった。だから従う。それだけだった。
若者は首を傾げ、重い俵を濡れた地面にドンと下ろした。昨日まで西への兵糧として数えられていた米が、今日は理由もなく泥の上に放置される。
「変な話だな。おい、また上の方で勘違いでもあったか」
「さあな。だが、御屋形様のやることだ、何か考えがあるんだろ」
若者たちは笑い、腰の手拭いで額の汗を拭った。
魚市場から歩いてきた片耳の欠けた犬が、積み上げられた俵の間をすり抜け、鼻を小さく動かした。格別の匂いもないと知ると、犬はそのまま、街道の方向へとトボトボと歩き去った。
波が来た。砕けた。引いた。
老役人は帳面に何かを書きかけ、止まった。何を書くべきか、分からなかったからだ。差し止め、と書けばよいのか。しかし理由が書けない。理由を知らないからだ。
しばらく筆先を宙に浮かせたまま、また波が来るのを眺めた。また砕けた。また引いた。老役人は帳面を閉じた。
奥御殿の隅にある狭い別室で、医師は畳に両手を突き、額を擦りつけていた。
手元に置かれた湯飲みの茶は、薄い膜を張って冷え切っている。
カツン、と板敷きを叩く音がして、障子が開いた。直江信綱だった。
医師は、身動き一つしなかった。
「ご苦労だった」
信綱の声は、どこまでも平坦だった。
「……ご静養中だ」
医師の喉の奥が、小さく鳴った。
「理解しているな」
「……は」
信綱は小さく頷き、足音も立てずに去っていった。
医師の額の下で、畳がわずかに涙で湿っていった。
城下の大通りに面した反物屋では、昼前から客の足が途絶えていた。
主人の女房が、店先の棚を整えながら通りを眺めた。荷車が通った。行商の男が歩いた。しかし店には入ってこない。
隣の青苧問屋から、番頭が顔を出した。
「今日も静かですな」
「そうですねえ」
「御朱印がないと京への便が出せなくて。先方が待っているのですが」
「うちも同じです。反物の染めを頼んでいた職人から催促が来ているのですが、受け取りの指図が出せなくて」
「困りましたな」
「困りましたな」
二人はしばらく通りを眺めた。春の日差しは明るかった。人は歩いていた。しかし何かが動いていなかった。
「まあ、御屋形様のお考えがあるのでしょう」
「そうですね。じきに動くでしょう」
番頭は引っ込んだ。女房も店に戻った。
棚の反物は、昨日と同じ場所に並んでいた。
能登の国人、温井景隆は、館の広間に座って三日目だった。
春日山からの陣触れを受け取ったのは、先月のことだった。西への出陣。日取りと集合場所が書かれた書状が届き、景隆は配下の者を集め、兵糧を整え、馬の蹄を確かめ、槍の穂先を磨かせた。すべて整った。あとは出発の命を待つだけだった。
しかし命が来ない。
三日前から、春日山への問い合わせの使いを二度出した。どちらも「しばらくお待ちを」という言葉だけで戻ってきた。
「殿、いつ出立でございますか」
家臣の一人が、膝を折って訊いた。
「待て」
「兵糧が」
「待て」
「馬が落ち着かず」
「待て」
景隆は答えた。しかし景隆にも分からなかった。春日山から何も来ない。御朱印が来ない。追加の指図が来ない。ただ「待て」という言葉だけが来る。
準備を整えた男たちが、広間の外に集まっている気配がした。
景隆は庭を見た。春の草が伸び始めていた。花が咲いていた。出陣の頃合いとしては、悪くない天気だった。
しかし何も来なかった。
夕方、三度目の使いを出した。今度は使いが翌朝になっても戻らなかった。
城門の番兵の交代は、いつもと同じ刻限に行われた。
年長の兵が槍を受け取り、若い兵と短く言葉を交わした。
「御屋形様はまだご静養か」
若い兵が訊いた。
「そうらしい」
「西征はどうなる」
「知らん」
「出陣の日取りは」
「知らん」
若い兵は黙った。
上杉謙信がいる。それは知っている。城の奥に、越後の全てを束ねる御方がいる。だからこそ自分たちは槍を持ち、門を守り、命令を待つことができる。それは物心ついた頃から当然のことだった。
しかし今は、その当然が、どこか軋んでいた。
何も変わっていない。城も、門も、旗も、空も。ただ命令だけが来ない。
「まあ、じきに動くだろう」
年長の兵が言った。
「そうですね」
若い兵は答えた。
二人はそれぞれ、城門の両脇に立った。春の街道が、城の前を静かに続いていた。荷車が一台、遠くに見えた。近づいてきた。通り過ぎた。
また静かになった。
城門の上では、上杉の旗が昨日と同じように風もない空へ垂れていた。
春日山城の外郭に近い馬場では、上杉景虎が、一頭の栗毛の馬の腹を撫でていた。
「どうだ、足元は」
傍らに控える家臣に、景虎は明るい声をかけた。その端正な顔には、春の到来を喜ぶような、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「少し泥が深いですが、来月までには乾くでしょう。西への街道も同様かと」
「そうか。今度の西征には、私も一軍を率いて供をする。御屋形様の後ろを歩くのが、今から楽しみだな。あの人はいつも、風のように速いからな」
景虎は細い指先で馬のたてがみを梳いた。馬が甘えるように鼻を鳴らす。
景虎の視線は、どこまでも澄んだまま、西へと続く遠い空の雲を向いていた。
城の方角から、かすかに人の動く気配がした。どこかで戸が開く音がした。また閉まった。景虎はそちらを振り返らなかった。馬の首を、もう一度、静かに撫でた。馬は動じなかった。春の空気が、たてがみの間を通り抜けた。
春日山の麓にある小さな寺では、夕暮れ時に住職が鐘を撞いていた。
低く。長く。いつもと同じ音が、城下へ向かって流れていく。
鐘を撞き終えて庫裏へ戻りながら、住職はふと思った。今月は城からの使いがまだ来ていない。毎月、月の初めに届く祈祷の依頼と、わずかばかりの施米。それが今月はまだだった。
珍しいことではあった。しかし住職は特に気にしなかった。御屋形様はお忙しい御方だ。西への出陣の準備で手が回らないのだろう。じきに来る。
庫裏の入り口で、住職は足を止めた。
境内の隅に、片耳の欠けた犬が座っていた。どこから来たのか、いつの間にかそこにいた。犬は鼻を動かし、境内の空気を嗅いでいた。住職を見た。それから、また鼻を動かした。
特に何もないと分かると、犬は立ち上がり、山門の方へ静かに歩き去った。
住職は犬の後ろ姿を見た。それから空を見た。
日が暮れていた。
住職は庫裏に入り、夕餉の支度を始めた。
三月十一日、朝。
春日山城の奥御殿では、再び新しい御膳が運ばれた。
炊きたての白飯、汁物、焼き魚。
女房はいつものように廊下の突き当たりで頭を下げ、閉ざされた襖の前に静かに膳を置いた。
返事はない。
女房は不思議には思わなかった。御屋形様が深く考え事をされ、人払いをなさることなど、これまでも珍しいことではなかったからだ。
廊下へ戻りながら、女房はふと、この一画が妙に静かだと思った。いつもならば、墨を磨る音か、書状を広げる衣擦れか、何かしら人の気配がある。
しかし今朝は、何もない。
足を止めた。聞き耳を立てた。廊下の奥で、別の女房が盆を運ぶ音がした。台所の方から、飯の炊ける匂いがしていた。
女房はそのまま廊下を歩いた。どこかで雀が鳴いた。いつもと同じ朝の音だった。
しばらくして、別の女房が膳を下げにやってくる。
椀のなかは、箸もつけられぬまま、すっかり冷え切っていた。
夕方。
直江津の港では、再び積み込みの指図が止まっていた。
若者たちは不満げに肩をすくめ、役人たちは首を傾げながら古い帳面をめくっている。船頭たちは船縁に腰掛け、煙管を叩きつけながら待たされていた。
御朱印は、今日も下りてこなかった。
空は薄い灰色だった。海風は柔らかく、潮の匂いのなかに微かな温かさが混じっている。
桟橋の端で、板が一枚、波に叩かれてきしんだ。若者が振り返った。板はまた静かになった。若者は振り返ったまま、しばらく桟橋の端を見ていた。何もなかった。また前を向いた。
遠くで、寺の鐘が鳴った。
低く。長く。ゆっくりと、いつもの一日の終わりを告げる音が、海へ向かって流れていく。
港の役人は、何も書かれていない頁の前で帳面を閉じた。
船頭が縄の結び目を確かめる。
若者が肩の手拭いを引き絞る。
海鳥が一羽、灰色の空を低く横切っていった。また一羽が続いた。




